心臓がドクンと不快な音を立てる。
取り繕えないほどの嫌悪感がこみ上げ、園香は手を握り締めた。
「先日に続き、突然訪ねて来てしまい申し訳ない。急ぎ確認したいことが有るんだ」
名木沢は爽やかな笑顔を園香に向けたが、段々と不審そうな表情に変わっていく。
「もしかして気分が優れないのか?」
彼は心配そうに眉を顰め、園香との距離を更に縮めようとした。
その親切そうな様子に、かっと苛立ちがこみ上げて、園香は名木沢を睨みつけた。
園香に近付こうとしていた名木沢は、その様子を見て、はっとしたような表情になりその場で立ち止まる。
前回会ったときとは違う、園香の変化に気が付いたのだろう。
園香は小さく息を吐いた。
(冷静にならなくちゃ)
彼には強い怒りを感じている。けれど感情的になってもすっきりするのはその場だけ。
罵倒なんてしたら後々園香の不利になる。淡々と仕事として対応するべきだ。
そう自分に言い聞かせていたが、ふと思った。
(別に彼と関係が悪くなってもいいんじゃない?)
ソラオカ家具店は彼の会社の顧客の立場だから、トラブルで仕事を切られる心配はしなくていい。神楽グループまで話を広げると、様々な問題が出て来るだろうが、そもそも名木沢の妻が園香の夫と不倫をしているのが発端なのだから、彼としても大事にはしたくないだろう。
(そうだよ。私はこの人に必要以上に遠慮しなくていい)
短い時間にそう結論すると、園香は名木沢を拒絶の意志で見つめた。
「私が事故で記憶喪失だったことはご存じですよね。先日記憶が戻りました」
園香が冷ややかに言うと、名木沢の顔に驚愕が走る。
瑞記から希咲経由で話を聞いているかもしれないと考えたが、そうではないようだ。
「……そうか」
名木沢が呟いた。表面上は早くも冷静さを取り戻したように見えるが、内心は分からない。
「私にとってあなたは信用出来ない人です。今後、私に関わらないでください。もし仕事で用があるのだとしても他の社員が担当します」
拒絶の気持を隠さず突き放す。かなり冷たく感じが悪い態度だが、園香としては、罵倒しないだけでも我慢しているのだ。
「では失礼します」
名木沢は返事をしていないが、園香は返事を待たずにその場を立ち去ろうとする。彼の前と足早に通り去ろうとしたとき、突然右腕の手首を掴まれた。
「待ってくれ!」
「ちょっと、何するんですか!」
園香は思いきり手を振り払い、名木沢を睨みつけた。
「わ、悪い。引き留めたくて手を掴んでしまったが乱暴だった」
「引き留めるってどうしてですか? 話すことなんてありませんけど」
園香は素早く周囲に視線を巡らせる。それなりに人どおりがあるから、名木沢も強引なことは出来ないだろう。
「誤解しているようだが、俺は君に対して悪意は一切ない」
「そうは思えませんけど。この前だって私が本当に記憶喪失なのか確かめに来たんでしょう?」
「ああ、その通りだ」
名木沢はためらわずに頷いた。
「やっぱり。少し観察して本当に記憶喪失だと判断したから、私を騙して初対面のふりをしたんですよね?」
「騙して?」
園香の言葉に、名木沢は戸惑っているようだった。
「そうでしょう? あまりに私のことを馬鹿にしていると思いますけど。はっきり言って不愉快です」
「どうしてそう受け取るんだ? たしかに俺は君の様子を確認するために、用事をつくって会いにきた。もし記憶が正常なら話したいことが有ったからだ。だが君は噂通りの状態だった。だから何も言わずに帰った」
名木沢の口調は頑固な子供に根気よく言い聞かせるようなゆっくりしたものだ。
そんな対応すら馬鹿にされたような気がしてカチンと来たが、彼の言い分も理解出来た。
彬人だって、真実を話せずにいたのだから。
(冷静になろう……)
園香は自分にそう言い聞かせて、名木沢を見つめた。
「先日、私に会いに来たのはなぜですか?」
名木沢は園香が話を聞く姿勢になったと察したようで、ほっとした表情になった。
「説明するが場所を変えないか? ここだと落ち着かない」
「変えるってどこに?」
「車で来てるんだが……」
「車で移動は遠慮します。すぐ側にカフェがあるんですけど、そこでいいなら話を伺います」
園香は名木沢の言葉を遮り、通りの向こうを目線で示した。
(この人の車に乗るなんて、あり得ない)
彼に対する不信感が拭えた訳ではないのだから。
「分かった。君の希望通りでいい」
名木沢は園香の態度に気分を害した様子はなく、了承した。
カフェは空席が多く、隅の人の出入り少ない席を確保できた。
適当に注文をして、早速本題に入る。
「話の続きをお願いします」
名木沢は苦笑いになった。せっかちだとでも思ったのだろうか。
「少し前に君が事故で大怪我をしたと知ったんだ。日付と場所を聞いて、俺も無関係ではないと思って調べていたが不明な点が多過ぎる。さらに君が記憶喪失になっているという情報もあってますます不審に感じた。そういった事情であの日、君を訪ねたんだ」
「……それで本当に記憶がないと判断したから、何も言わずに帰ったと言うことですよね。では今日はなんの用で?」
「気になってもう一度話してみたいと思ったんだ。君は以前話したときと別人のようになっていた。近いうちにまた来ると言っただろう?」
「たしか、次は事前に連絡するとのことでしたけど」
「それは申し訳ない」
「はあ……それで、どのように変わっていると思ったんですか?」
「……元気になっていた」
「えっ? なんですかそれ?」
名木沢の返事に拍子抜けして、間抜けな声を出してしまった。そのせいでピリピリした空気が緩和したのか、名木沢も表情を和ませる。
「正直な感想だ。電話のときはとにかく暗くて、話すのが憂鬱になるような印象だったが、先日の君は理性的でしっかりしていた。俺に対して一定の警戒はしながらも、冷静に対応していた。驚いたよ。きっと本来の君の姿なんだろうとも思った」
名木沢が爽やかに微笑んだ。園香は懐柔されそうになる予感を覚えて目を逸らした。
(この人、他人を油断させるのが上手いかも)
気を引き締めなくてはいけない。
「それで別人みたいなのが気になったのは分かったのですが、また会ってどうするつもりだったんですか?」
「覚えているか? 君が初めて俺に言った言葉は“助けてください”だ」
名木沢の言葉に、ドクンと心臓が跳ねた。
(助けてください……私、そんなふうに言ったの?)
どれ程追い詰められていたのというのか。日記を読んだとはいえ、当時の自分の感情を完全に理解している訳じゃない。
「今は元気にしていても問題が解決した訳じゃない。今は以前よりも状況が悪くて、いつ気付いてもおかしくない状況だ」
彼の言葉に含まれた意図にはっとした。
(この人、瑞記たちの不倫を確信している)
瑞貴と希咲が精神的な面だけでなく肉体的にも不倫関係になったのは、最近のことのようだ。
名木沢もその事実を把握して、園香のところに来たのかもしれない。
そうだとしたら、彼は園香が思っているよりも、よい人なのかもしれない。
(でも分からない……)
信用していいのか確信が持てない。自分の判断にも自信がない。
園香は内心溜息を吐いた。
(それでもこの人への嫌悪感は大分消えている)
単純すぎるかもしれないが、すぐに席を立つ気にはなれない。
もう少し話を聞いてみたいと思う。
「記憶が戻っているのには驚いたが、君の変化にはもっと驚いた」
「私が落ち込んでいないからですか? それは夫に見切りを付けたからです。もう夫への気持はありません」
実は思い出して訳ではなく日記を読んだことは、伝えない。
そこまで信用してはいけないと思うから。
「それは……ずいぶん割り切ったんだな……驚いたよ」
名木沢は言葉の通り驚きの表情だが、園香が嘘を言っていると疑っていないようだ。
「約束の日に来なかったのは心境の変化が有ったからか?」
「え?」
(どういう意味?)
「君と俺のオフィスが入っているビル内にあるカフェで会う約束をしていただろう? 来なかったのは、夫との関係を諦めたからじゃないのか?」
「……」
「事故に遭ったのがグランリバー神楽第二だから、もしかして間違えて行ってしまったのかとも考えていたんだが……」
その瞬間、ひやりと背中が冷たくなった。
(グランリバー神楽第二? まさか第一があるの?)
「……すみません、少し席を外していいですか? すぐ戻るので」
「ああ、構わない」
園香はバッグを持って席を立ち、化粧室に向かう。
ちらりと振り返ると名木沢がこちらを見ていた。
目が合うとにこりと微笑んでくる。
園香はドクンドクンと乱れる心臓の音を感じながら、化粧室のドアを引き駆けこんだ。
(名木沢さんの会社の住所!)
バッグからスマホを取り出し、震える指で彼の会社名を入れて検索する。
見付けた答えに、園香は息を呑んだ。
「グランリバー神楽第一……」
彼の会社の所在地は、園香が階段から転落したのとは別のオフィスビルとなっていた。
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