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思いがけなく知った事実に、動揺していた。


(私はどうして違うビルに行ったの?)


名木沢が言ったように心境の変化からとは思えない。


事故の少なくとも数日前までの園香は、瑞記と希咲の関係に思い悩んでいたのだから、さすがに一日二日で気持ちが切り替わることはないだろう。


とは言え、ただの間違いというのも疑問がある。


園香にとって名木沢に会うことは、かなり重要だったはずだ。


日記の文面からも、状況が好転するかもしれないという期待と不安が感じられた。


それなのに、住所をしっかり確認しないということがあるのだろうか。


元々うっかりした性格ならまだ分かるが、園香は訪問先の住所を確認し忘れたり道に迷うということは滅多にないタイプだ。


(それだけ混乱していて、普通の精神状態じゃなかったからかな)


園香は溜息を吐いて、化粧室の鏡の前に立った。


顔色が悪く浮かない表情の自分を見ると憂鬱になる。


けれどそろそろ戻らないと、名木沢が不審に思うだろう。


(これ以上悪いことが起きる訳じゃないし)


想定外の事実に動揺してしまったが、名木沢に会っていなかったとしても現状は変わらないのだから、今は少しでも多く彼から情報を得ることに集中した方がいい。


園香は気持ちを切り替えて、化粧室を出た。


名木沢は頬杖をつき窓の向こうを眺めていたが、園香が戻る気配を感じたのか振り向きにこりと笑みを浮かべる。


「大丈夫か?」


気づかうような声だった。


今日の園香の態度は、自分でも酷いと思うが気を悪くした様子が見られない。


(イメージよりも優しい人に感じる)


しかし気を許すのはまだ早い。


「大丈夫です。お待たせしてしまいすみませんでした」


そう言いながら席に着くと、名木沢はほっとしたように表情を和らげた。


「あの、お時間は大丈夫ですか?」


「ああ。今日の仕事は済ませて来たからね。園香さんは?」


「私も大丈夫です。ではいくつか質問させて貰っていいですか?」


「構わないよ。でも何か食べながらでもいいか? 昼食をとっていなかったことを思い出したんだ」


名木沢が苦笑いを浮かべながら言う。


「ええ、もちろんです」


園香は自分の近くにあったメニューを差し出した。


「ありがとう。園香さんはどうする?」


「私は……そうですね。いただきます」


たいして空腹は感じていないが、彼が食べている間、ぼんやり待っているのは間が持たない。


名木沢は焼カレーセット、園香はカルボナーラを注文し、コーヒーのお代わりも頼む。


「ここにはよく来るの?」


まるで友人との世間話のような軽さで、名木沢が問いかけてきた。


「ときどきランチに来ます」


とくに気に入っている訳ではないが見通しがよい店内だから、名木沢のような警戒が必要な相手と話をするのにいいと思っただけだ。


他愛のない話をしながら、食事をする。


名木沢は油断ならない人物だけれど、話がしやすい人だ。

あまり知らない相手だと言うのに、会話が気まずかったり苦痛ということがない。


共通の話題であるお互いの配偶者についてはあまりに重い内容なので、無意識に避けていた。


自然と仕事の話がメインになる。


「働いてまだ間もないのに、すっかりベテランの貫禄だな。さすがソラオカの令嬢だ」


褒めているのか態度が大きいと嫌味を言っているのか、判断がつきかねる内容だが、名木沢の表情を見る限り含みはない。


「会社のことは元々熟知してますから」


「そう言えば、結婚前は本社で働いていたそうだな」


「ええ……私のこと調べたみたいですね」


名木沢の顔に気まずさが浮かんだ。


「多少はね。まったく知らない相手と会うまではそれなりに情報収取するようにしているんだ」


「それは理解できます。ちなみに私の情報はどんなものなんですか?」


客観的な園香の評価はどのようなものなのだろうか。ふと気になって思いつきで聞いただけだった。


けれど名木沢の答えは驚くものだった。


「君から連絡を貰ってすぐに確認して、その後殆ど更新していない内容だが……冨貴田園香、27歳。ソラオカ家具店の社長令嬢で、大学卒業後に同社に入社。広報部に所属していたが結婚を機に退職。現在は専業主婦で夫は冨貴川瑞貴、そのくらいだ」


「……その情報はどこかの調査機関に依頼したものですか?」


「ああ。信頼出来る相手からの情報だ」


「そうですか……」


園香は名木沢から目を逸らし、コーヒーのグラスを手に取った。


なんとか平静を装っているが、内心かなり驚愕していた。


(広報部勤務ってどういうこと? 経理部の間違いじゃないの?)


覚えていない期間に、異動していたのだろうか。


(日記には仕事のことなんて書いてなかったから、何も分らない。でも……)


考えてみたら、会社勤め時代の同僚たちと、ずっと連絡を取っていない。

いくらなんでも不自然だ。


園香が社長令嬢だと言うことは、同僚の皆が知っていることだった。


だから、距離を置かれていると感じることはあったけれど、何人かは、かなり親しくしている相手もいたのに。


事故に遭い、瑞記との夫婦関係に頭を悩ませているあまり、他のことが疎かになっていた。


(元同僚からの連絡がないことに気付いていなかったなんて)


会社のことは父と彬から聞けたので、他から情報を得る必要はなかった。

園香が異動したという話も、偶々か出てこなくて、不審に感じるきっかけがなかった。


ずしんと気分が重くなった。


恐らく何かトラブルが有り、関係が悪化してしまっているのだ。


だから気軽に連絡をして来なくなった。


(退職前に何かあったのかな?)


喧嘩でもしたのだろうか。メッセージのやり取りの記録もないし、分からない。


「園香さん? どうしたんだ?」


「あ、すみません、なんでもないです」


怪訝そうな名木沢の声に、慌てて返事をする。


(考えるのは後にしないと)


思ったよりも名木沢から得る情報は重要だ。少しでも多く話を聞かなくては。


「……あの、実は記憶が戻ったと言っても、多少はまだ混乱している部分もあるんです。だからつい考え込んでしまって」


苦しい言い訳だが、記憶喪失から回復した状況が実際どんなものなのかなんて、医者でもない限り正確には分からないだろう。


思った通り、名木沢は疑う様子はなく「そうなのか」と相槌を打つ。


「大変だな。いずれは完全に回復するのか? 医者はなんて?」

「怪我はほとんど治っているし、記憶の方は焦らずに回復するのを待つのがいいって」


以前、言われた内容をそのまま伝えたが、嘘を言うのはかなり心が苦しくなる。

同時に平然と人を騙すことができる瑞記たちへの嫌悪感が渦巻いていた。




食事を終えると、園香は居住まいを正して名木沢を見つめた。


「先ほど、状況が悪くなったというようなことを仰っていました。それは私の夫と希咲さんの不倫についてですよね?」


遠慮のない問いかけだから、名木沢がどう反応するのか分からなかった。


そもそも彼は妻の不倫についてどう思っているのだろう。


怒っているのか、悲しんでいるのか。


「ああ。どうやら本格的に始まったようだな」


名木沢から感じるのは、怖いほどの無関心だった。

円満夫婦ではなかったので

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