「ぐ、ォオオオ」
右斜め前方。僅かに落ち葉が鳴る音が聞こえ、姿を認識した。
驚くべきは、その容姿。動きは俺ほどでは無いが、決して遅くは見えない。加えて、軽く6尺はあると思しき巨躯のせいか、容易に近付きにくい。
ゆっくりと速度を下げて木の枝を踏んだ。魔物が大きな体軀を捻るのが見えた。天を仰ぎ、無駄にデカい口を開ける。
「グ、ゥオオオ!!」
咄嗟に耳を庇った。空気ごと畝るような声が鼓膜を揺らす。奴の目が鋭く光り、俺を捉えた。キンッッ、とサーベルが鳴く。濁った瞳は、銀色をしかと認めた。
ぼんやりと目下数寸で起こる情景を、他人事のように見つめながら、思った。俺は何故、今ここにいる。以前の自分だったら、こうはならなかった。そもそもどうして、俺はこんなことを___
あいつに死んでほしくない。吸血鬼の俺が、人間のあいつに、死んでほしくないと思っている。それが確かだった。
近い未来、必ず叶は死ぬ。それは予言や超能力の類をもって言っているのではなく、生まれた時から決まっていた。あいつが人間に生まれたからには。弱くて脆い、人間だから。
それほどまでに、種族に与えられた時間の溝は、大きい。
化け物の目は鏡のように俺を映した。爪は俺のサーベルを捉え、容赦なく牙を剥く。爪から正面に向き合った刃は気持ちいい音を立て、サーベルが折れた。
「チッ」
こうなっては致し方ない。消耗が激しいので出来るだけ使いたくなかった爪を伸ばす。メキ、と筋を張った指に、普段は若干緩い、いくつもの指輪が食い込んだ。
今まで見ないふりをしてきた。
あいつに死んでほしくない。避けられない未来を、拒んでいる。どうやっても先に死ぬのは人間のあいつで。残されるのは吸血鬼の自分。
今まで当然のように受け容れてきた未来が、怖かった。
戦況とは関係なく、いやな汗が一筋、こめかみを流れる。
上等だよ。
「なあ、ビビってんじゃねえよ。肉塊がよぉ!」
もうずっと耳元で鳴り響いている轟音が、魔物のものか、自分のものかすら分からなくなる。身体中を熱が駆け巡る。これはアドレナリンか、魔力か。もう痛みすら感じない。
どのくらい時間が経っただろうか。気がつけば首が転がっていた。魔物の濁った目が完全に光を失っているのを見た。ゆっくり、感覚が戻ってきて、身体中の小さな傷が気になりだす。
渾身の一撃でぎりぎり仕留めたらしい。肩で息をしていた。
「…くっ…!」
突然、脇腹に、灼けるような鋭い痛みが走った。
見ると、長い杭のような爪が2本、深々と細い脇腹を貫いている。乱雑にそれを引き抜くと同時に、地面に倒れ込んだ。
( 疲れたな… )
ここまで躍起になったのは何十年ぶりだろうか、と振り返るも、とくに思い出せない。基本的に何事にも関心が薄かったので、自分の変化に思うところがあった。今更どうしろというのだろうか。
ガサ、と音がして、まだ森中に雑魚が溢れていることをようやく思い出した。いつもなら秒もかからず斬って捨てるような輩しかいないが、流石に今日という日は少しまずい。疲弊した体力では、相手をするにも数体が関の山だ。ぼんやりとそんなことを考えながら立ち上がり、麓の方へ足を踏み出す。
ふらふらと視界が大げさに揺れて、思わず笑った。
「おいおい、オレはおじぃサンかよ」
とにかく、辺りにうじゃうじゃいる魔物と鉢合わせないように、教会まで行ったほうがいい。魔界に戻ろうか、とも考えたが、無駄に魔力を消費するだけだろう、という結論に至った。
結果、教会の屋根が見えるところまで辿り着くのに、かなりの時間がかかってしまった。
意識して重い身体を支える。
あと、もう少し__。そう思った、その時。
にゃあ、と、聴き慣れた声がした。自分で思うより驚いたのか、ほとんど跳ねるように声のする方を見た。そこには、紛れもなく、あの黒猫がいた。ロトだ。
「驚かせるなよ…」
そこまで言って、異変に気づいた。ふと顔をあげる。教会が静かなのだ。いつも叶がいる建物は、だいたい感覚でわかる。疲労のせいで感覚が鈍っていると思いたいが、ここまで無音な教会は、初めてだった。
それに、ロト。いつも俺が居るとき、叶のそばを離れなかった。そいつが、ここへ来たのに違和感を覚える。
嫌な予感が、途端にむくむくと胸の奥で広がった。
「叶は?」
尋ねると、前脚を舐めていたロトが、動きを止めた。意志がしっかりと感じられる瞳がサーシャを認める。思いが伝わっているのか否か、ロトは背中を向けて小走りに駆け出した。
不思議と、ロトが向かう先に叶がいるのを確信していた。
倒れそうな身体に、鞭を打って走る。小枝が顔にぶち当たり、頬を切った。
嫌な予感は的中した。猫を追い始めてすぐ、鼻をくすぐったのは人間の血の匂い。吸血鬼の本能的なものなのか、途端に血の匂いが感覚の大半を占めて、嗅覚を支配される。
これは、かなりまずい。まずい。まずい、まずい。
強く念じる「まずい」が、叶の安否に対してなのか、それとも別のなにかなのか、もうわからなかった。
背けたい心情とは反対に、現実は近づいていた。
懐かしい白が、ちらちらと夜の黒に見え始める。視界が開けて、そこに現れたのは白百合畑だった。
「ああ、」
一度脚を止めたロトが、ゆっくりと匂いを嗅ぎながら、花の地面の真ん中へ進んでいった。
そこに居たのは叶だ。
追って森に来たのだろう。森の方から、引き摺るようについた血が、叶の方に繋がっている。白百合畑の中央が最も酷く、白い花弁が真っ赤に濡れていた。啜るものだと認識したことしか無かった人の血が、まるで別物のように、酷く肉々しく感じられた。
あれ。血って、こんな色してたっけ。
叶の方へ歩み寄る。こんな時に限って、真っ直ぐ歩けたのが不思議だった。
「お前、なにやってんの」
瞼は上がっていた。意識はあるようで、顔を覗いたサーシャの顔を認めると、小さく笑った。
そんな悲しい顔をしないでくれ。
「あれだけいったのに、ついてきて」
「……、」
返事は返ってこなかった。叶は眉尻を少しだけ下げたまま、俺の声を聴いていた。
「お前、馬鹿だろ」
思わずそんな言葉が口をついた。
ぐちゃぐちゃに動く心境とは裏腹に、言葉には一点、黒い色がつく。言わなくても伝えなくてもいいような言葉ばかりが、引きずり出されていく。
あれだけ言ったのに着いてきて。やられて。せめて教会まで戻ろうと、身を引き摺ってここまで来たんだろう。
なんて馬鹿なやつなんだ。
叶が何か言った。僅かに開いた唇が動くが、小さすぎて聞こえない。傷に障らないよう、そっと叶の首に手を入れた。持ち上げると、艷やかな栗毛が、絡まることなく指の間を流れていく。いつも髪を纏めているリボンが見当たらなくて、下ろした髪が綺麗だな、と、呑気なことを考えた。
本当に綺麗だった。真っ白な花を染める赤色も、さらさらの髪も。血の引いた肌の生々しい感触は、きっと何年経っても忘れられない。
唇に押し付けるように、耳を寄せる。
蚊の鳴くような声が、僅かに。
「飲んで、サーシャ。いいんです、も、ぅ…ぼくのち、を、…しぬなら、あなた…に、ぼくを……っ、」
ぼくを、ころして。死ぬ前に。早く。
ぜえぜえと喉からする音を止めてやりたくて、どうしようもないまま涙だけが溢れた。
「ほんっと、いい性格してるよな」
小さい「つ」に力を込める。
震えた湿っぽい声が零れて、情けなかった。
叶の白い肌に、牙を立てる。口内に流れ込んでくる血は甘美だ。命の呆気なさに、現実味のない”最期” を思った。
吸血が終わって、鎖骨から首にかけて出来た跡を消してやりたかったけど、死体に魔力は非力だった。少し前までの疲労感は全く無い。まるで2日間寝込んだ朝のように、頭はすっきりとしている。口の中に僅かに残った、俺のものではない甘い苦みだけが、叶がどうなったかをはっきりと伝えた。
聖堂の奥から引っ張り出した棺に叶を入れる。まるで別人みたいな叶は、小さくなったように見えた。白百合を添えると、不本意にも弔いのそれらしくなってしまう。現実を肯定する、棺と冷たい建物。異様な光景だった。横たわっているのが棺でなければ、眠っていると思い込むほど穏やかな顔をしている。それが悔しくて、少し泣く。
「サーシャ」
名前を呼ばれた。柔らかい声。覚えたばかりの。
名前を呼ばれる。脳裏に浮かぶのは、やはり俺を呼んで柔らかく微笑む、お前の顔。ふと、顔をあげると、冷たくなった人間の顔があるだけだった。
まるで夢が醒めたような、甘い幻想から目覚めたような淋しさに、目を背けた。
なんだろうな。この感情は。
「せめてもう少し、早く帰れば…」
堪えていた嗚咽が喉から漏れて、止まらなかった。
夜が明けて、朝日が教会に差し込みはじめた。
雲の隙間から差し込む太陽光りのようなそれに、目を細めた。きっと最後になるこの場所の朝日を、目に焼き付ける。叶の居なくなった場所に、訪れる理由はなくなった。
突然、黒い影が視界を横切った。すたすたと音もない音を立て、影の正体__黒猫は、祭壇に登っていく。
無言でその姿を眺めた。今では、叶の存在を知ってここに居る、唯一の証人になってしまった。きっと、こいつは全て理解している。人語を解しているかはわからないが。
なあ。そうなんだろ?
「聞いているか?刻渡りの黒猫」
望むなら、お前の望む終着点まで俺を。
「カナエハオマエノセイデシンダ」
オマエワフタタビ カナエニデアウ
カナエハ オマエヲオボエテイナイ
カナエカラ ノガレルコトハデキナイ
「わかった」
それが、こいつの望む終着点。いや、終末なんてないのか。俺たちに。
そう頷くと、猫は「にゃぁお」と鳴くなり、毛づくろいをし始めた。
始まりと終わりを繰り返すまで、だ。
未来永劫、この運命の渦の中。それでいいじゃないか。お前はこんなに考えていることが汚いんだな、と自嘲する。それに巻き込まれたこいつのことは憐れだと思った。山の端から日が離れるより前に、教会から飛び立った。
また、いつか____。
コメント
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これにて次から二章に突入します。下書きが全く完成してません(泣) しばしお待ちを!