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焚き火を囲む笑い声はしばらく途切れなかった。
耳の話題を引きずられ続ける千代は完全に子供達の玩具にされていたし、しゆらも巻き込まれたせいで顔の赤みがなかなか引かない。そんな二人を見ていると、つい数時間前まで互いに警戒し合っていたとは思えなくなる。
研究所から逃げてきてからずっと、誰もが余裕を失っていた。
立ち止まれば追いつかれるかもしれない。
眠れば目覚めた時には囲まれているかもしれない。
そんな不安を抱えたまま走り続けてきたのだから無理もない。
だが今だけは違った。
少なくとも、この焚き火の周りには追手の影も銃声もない。
子供達は笑い、魔獣は眠り、住人達は明日の仕事の話をしている。
まるで最初からここで暮らしていたかのような穏やかな時間だった。
「予紬さん」
隣から呼ばれて視線を向けると、しゆらが小さく首を傾げていた。
「どうした」
「肉、冷めてしまいますよ」
言われて初めて手元の皿へ目を落とす。
いつの間にか会話ばかり聞いていて、ほとんど手を付けていなかったらしい。
しゆらは少し困ったように笑った。
「今日はたくさん働いたんですから、ちゃんと食べてください」
「そうだな」
素直に頷いて肉を口へ運ぶ。
香草の香りと肉汁が広がり、思わず息を吐いた。
研究所でも食事は取っていた。
だが栄養補給が目的だったあの頃と違い、今は味を感じる余裕がある。
それだけでも随分と違う気がした。
「おいしいですか?」
「美味い」
そう答えると、しゆらがなぜか嬉しそうに微笑む。
自分で作ったわけでもないのに満足そうな顔をするのは昔からだ。
誰かが元気になったり、食事を取ったりすると、自分のことのように喜ぶ。
そういうところは昔から変わらない。
「そういえば」
不意に千代が口を開いた。
子供達を両脇に抱えたまま、どこか不思議そうな顔でこちらを見ている。
「お主ら、今夜はどうするつもりじゃ」
「どうするとは?」
「住む場所じゃ」
その言葉に周囲の空気が少しだけ変わった。
子供達も会話を止める。
確かに考えていなかったわけではない。
だが目の前の問題が多すぎて後回しになっていた。
研究所では寮と研究室があった。
地下施設にも居住区画があった。
しかし今は何もない。
持ち出せた荷物も最低限だ。
千代は焚き火の向こうに並ぶ家々へ視線を向けた。
「空いておる家ならある」
「いいのか」
「元々使われなくなった家じゃ。儂の物ではないが、長に話は通せる」
さらりと言う。
人間嫌いだと聞いていたが、どうやらこちらを追い出す気は本当にないらしい。
むしろ受け入れる前提で話を進めている。
その事実に少し驚く。
こちらの反応に気付いたのか、千代は不満そうに眉を寄せた。
「なんじゃ」
「いや」
「言いたいことがあるなら言え」
焚き火の光を受けた赤い瞳がじっとこちらを見ている。
だから正直に答えた。
「思ったより親切なんだな」
その瞬間だった。
千代の動きが止まる。
数秒ほど沈黙が落ちたあと、子供達が一斉に顔を見合わせた。
なぜか全員が察した顔をしている。
ルカなどは口元を押さえながら肩を震わせていた。
「……お主」
千代がゆっくり口を開く。
その耳が、焚き火の明かりとは別の理由で赤くなっているように見えた。
「そういうことを急に言うでない」
「褒めただけだが」
「だからじゃ!」
千代が真っ赤になりながら抗議する。
その様子を見て子供達が笑い、ルカはとうとう腹を抱え始めた。
本人は必死なのだろうが、残念ながら説得力はなかった。
むしろ耳まで赤くなっているせいで逆効果である。
「千代って褒められるの弱いよね」
「弱くない」
「弱い」
「弱くない」
「弱い」
「弱くないのじゃ!」
子供達との不毛な応酬が始まる。
その隣で、しゆらがくすくすと笑っていた。
先程まで耳のことで弄られていた本人とは思えないほど機嫌が良い。
紫色の瞳が柔らかく細められている。
「楽しそうですね」
「お前もだろ」
「そうでしょうか」
「そうだろ」
そう返すと、しゆらは少しだけ首を傾げたあと、どこか照れたように笑った。
焚き火の明かりを受けた白髪が揺れる。
その仕草が妙に穏やかで、思わず見てしまった。
すると視線に気付いたのか、しゆらがこちらを見上げる。
「どうかしましたか?」
「いや」
「気になります」
「別に何もない」
正直に言えば、笑った顔を見ていただけだ。
だがそんなことを言えば面倒なことになりそうだったので黙っておく。
ところがしゆらは納得しなかったらしい。
少しだけ身を寄せてくる。
肩が触れそうな距離だった。
「本当ですか?」
「本当だ」
「怪しいです」
「なんでだ」
「予紬さん、そういう時は大体何か考えています」
妙に鋭い。
研究所にいた頃からそうだった。
俺が誤魔化そうとしても、大抵しゆらには見抜かれる。
しばらく見つめ合ったあと、観念して口を開いた。
「笑ってたなと思っただけだ」
「え?」
「最近、そんな顔をする余裕もなかっただろ」
その瞬間だった。
しゆらの動きが止まる。
ぱちりと目を瞬かせたあと、頬がほんのり赤く染まった。
「あ……」
言葉に詰まる。
その反応だけで十分だった。
やはり自覚はなかったらしい。
「だから安心した」
そう言うと、しゆらはしばらく俯いていたが、やがて小さな声で呟いた。
「……ありがとうございます」
その声は焚き火の音に紛れそうなほど小さかった。
だが耳はしっかり赤い。
千代が呆れたようにこちらを見る。
「お主らも大概じゃのう」
「そうか?」
「そうじゃ」
「仲良しだもんねー」
ルカの一言で、今度はしゆらまで慌て始めた。
焚き火の周囲に再び笑い声が広がる。
そんな賑やかな空気の中だった。
不意に集落の入り口付近が少しだけ騒がしくなる。
誰かが戻ってきたらしい。
住人達の視線が自然とそちらへ向いた。
「あ」
その瞬間、千代が立ち上がった。
今までの気怠そうな態度が嘘みたいだった。
子供達も目を丸くする。
何事かと思って視線を追う。
木々の向こうから一人の青年が歩いてくるのが見えた。
黒曜石のような黒髪。
同じ色の瞳。
夜の森に溶け込みそうな色彩だった。
羽織の下は細い。
驚くほど細い。
だが頼りない印象はなかった。
むしろ歩くだけで周囲の空気が自然と落ち着くような、不思議な存在感がある。
住人達が次々に頭を下げていた。
青年はそれに軽く手を上げて応える。
「大和様!」
子供の一人が駆け寄る。
青年――大和は膝を折り、その頭を優しく撫でた。
「ただいま」
静かな声だった。
それだけなのに子供達が嬉しそうに笑う。
どうやらかなり慕われているらしい。
そして。
その様子を見ていた千代の耳が、なぜかまた赤くなっていた。
「あれ」
ルカが気付く。
まずい。
そんな顔だった。
だがもう遅い。
大和はこちらへ歩いてくると、まず千代を見た。
そして少しだけ目を細める。
「見回りご苦労だったな」
「……うむ」
さっきまでの勢いはどこへ行った。
声が妙に小さい。
子供達が一斉に千代を見る。
大和は気付いていない。
気付かないまま自然な動作で千代の頭へ手を置いた。
「よくやってくれている」
ぽん、と軽く撫でる。
それだけだった。
それだけなのに。
千代の顔が一瞬で真っ赤になった。
焚き火の周囲が静まり返る。
誰も喋らない。
いや、喋れない。
あまりにも分かりやすすぎた。
当の本人だけが気付いていない。
大和はいつも通りなのだろう。
だが周囲から見れば完全に答え合わせだった。
数秒の沈黙のあと。
ルカがぽつりと呟く。
「……好きなんだ」
「違う!!」
夜哭きの森に、今日一番大きな声が響いた。
コメント
1件
いや、今回めちゃくちゃ良かった! 焚き火を囲んでのほのぼのした空気がすごく温かくて、思わず微笑んじゃったわ。千代が予紬の何気ない一言で真っ赤になって抗議するところとか、しゆらとの「笑ってたな」のやり取りもじわっと来た。そして最後の大和登場→千代の反応の露骨さ→ルカの一言で崩壊、の流れは笑った。ようやく訪れた休息のシーンが、キャラの関係性を深めててすごく好き。続きが楽しみ🔥