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「違う!!」
夜哭きの森に響いた千代の叫び声は、残念ながら誰一人として信じていなかったらしい。
焚き火を囲む子供達はもちろん、周囲で食事をしていた半魔達まで肩を震わせているのだから救いようがない。本人だけは必死に否定しているのだが、耳まで真っ赤になっているせいで説得力がどこにも存在しなかった。
そんな騒ぎをしばらく眺めていた大和は、小さく息を吐くと困ったように目を細めた。
その仕草には呆れも諦めも混じっていたが、同時にどこか慣れた様子もあった。おそらく今回だけではないのだろう。
「お前達」
静かな声だった。
決して大きくはない。
それなのに不思議と子供達は口を閉じる。
大和が怒ったわけではない。ただ呼ばれただけだ。それでも自然と耳を傾けてしまう辺り、この森でどれだけ信頼されているのかがよく分かる。
「少し静かにしてやれ」
そう言ってから、大和は未だ真っ赤な顔をしている千代へ視線を向けた。
「千代」
「な、なんじゃ」
「こっちへ来い」
普段なら素直に従わないのかもしれない。
だが今の千代には周囲の視線に耐える余裕がなかったらしい。
子供達から逃げるように近付いていく。
すると大和は何でもないことのように羽織を広げ、そのまま千代を内側へ招き入れた。
「や、大和様?」
戸惑う声が聞こえる。
だが大和は気にした様子もなく羽織を閉じてしまった。
途端に千代の姿が見えなくなる。
辛うじて黒髪が少し覗いている程度だった。
子供達は当然のように騒ぎ始めたが、大和はその声を受け流しながら焚き火の側へ腰を下ろした。
まるで外の喧騒から守るような仕草だった。
「少し休め」
羽織の内側へ向けられた声は驚くほど穏やかだった。
返事は聞こえない。
ただ、その代わりにごそりと布が揺れる音がする。
しばらくしてから、大和の手がゆっくり動いた。
羽織の中へ消えた手が何をしているのかは見えない。
だが時折布越しに伝わる動きだけで十分だった。
頭を撫でているのだろう。
子供をあやすような手つきではない。
労うような、安心させるような動きだった。
先程まであれほど騒いでいた千代も、いつの間にか静かになっている。
その光景を見ていたルカがぽつりと呟いた。
「ずるい」
「何がだ」
「なんかずるい」
説明になっていなかったが、言いたいことは何となく分かった。
俺の隣ではしゆらもじっとその様子を見ている。
視線は完全に羽織へ向いていた。
羨ましそうだなと思った瞬間、しゆらが小さくこちらを見上げた。
紫色の瞳が焚き火の明かりを映して揺れている。
何か言いたそうだった。
だが言わない。
言わないまま、もう一度羽織の方を見る。
分かりやすすぎる。
思わず苦笑しながら肩へ手を回すと、しゆらの身体がぴくりと揺れた。
驚いたらしい。
それでも逃げることはなく、むしろ安心したように力を抜いてこちらへ寄り掛かってくる。
研究所にいた頃から距離感は近かったが、最近は特にそうだった。
おそらく本人も無意識なのだろう。
「予紬さん」
「なんだ」
「少しだけ」
しゆらはそこで言葉を探すように視線を伏せた。
「少しだけ、羨ましかったです」
素直な答えだった。
だからこちらも誤魔化さない。
「そうか」
「はい」
「なら今はこれで我慢しろ」
そう言うと、しゆらは小さく笑った。
その表情は先程よりずっと柔らかい。
肩へ伝わる体温もどこか安心したようだった。
焚き火の向こうでは大和と千代が相変わらず一つの羽織に包まれている。
その姿を眺めていた時だった。
ふと違和感を覚えた。
大和の身体だった。
座っている姿勢だから分かりやすかったのかもしれない。
羽織がずれた瞬間に見えた肩は驚くほど細く、袖の下から覗く手首も骨ばっている。
決して病人のようには見えない。
立ち振る舞いもしっかりしている。
それでも、あまりにも痩せすぎていた。
この森の長だというのに。
周囲の住人達より明らかに細い。
そのことに気付いたのは俺だけではなかったらしい。
羽織の隙間から覗く千代の顔が、先程までの照れとは違う色を浮かべていた。
大和の胸元へ寄り掛かるような体勢のせいだろう。
規則正しく響く心音も、その身体の細さも、誰より近くで感じているはずだった。
だからこそ。
ほんの少しだけ眉を曇らせた千代の表情が、妙に印象に残った。
焚き火の火は少しずつ小さくなり始めていた。
それでも集落の空気は穏やかなままだ。
食事を終えた子供達は魔獣達の傍で遊び始め、住人達も思い思いに談笑している。
そんな中で一番静かになっていたのは、むしろ先程まで騒ぎの中心だった千代かもしれない。
大和の羽織に包まれたまま、すっかり大人しくなっていた。
時折ごそりと布が揺れることはあるが、それだけだ。
あれだけ真っ赤になっていたのだから無理もない。
大和もそれを理解しているのだろう。
急かすことも茶化すこともせず、ただ静かに傍にいる。
その様子を見ていると、二人の付き合いは相当長いらしいことが伝わってきた。
「少し落ち着いたか」
しばらくしてから大和がそう尋ねると、羽織の内側から小さく返事が返ってきた。
「……多少は」
「そうか」
「多少じゃ」
「分かった」
まるで子供をあやしているようなやり取りだった。
だが大和にそのつもりはないらしい。
声色はどこまでも自然で、特別扱いしているようには聞こえなかった。
そのまま少しだけ沈黙が落ちる。
夜風が枝葉を揺らし、焚き火が小さく音を立てた。
すると大和の手が再び動く。
羽織の中へ消えた手が何をしているのかは見えない。
だが千代の耳が少しだけ覗き、その先端が赤く染まっている辺り察することはできた。
どうやらまた頭を撫でられているらしい。
「や、大和様」
「なんだ」
「もうよい」
「そうか」
「本当にもうよい」
「そうか」
返事はする。
だが手は止まらない。
千代も途中から諦めたのか、それ以上は何も言わなかった。
代わりに聞こえてきたのは小さな溜め息だった。
呆れているようにも見えるし、安心しているようにも見える。
少なくとも嫌そうではない。
隣ではしゆらが羨ましそうに眺めていた。
先程から何度目か分からない視線だ。
こちらへ身体を預けたままなので隠す気もないらしい。
むしろ近い。
研究所にいた頃から近かったが、最近はさらに近い気がする。
本人に自覚があるのかは知らない。
「気になるか」
そう聞くと、しゆらは素直に頷いた。
「少しだけ」
その答えに苦笑する。
どう見ても少しではない。
だが指摘すると拗ねそうなので黙っておいた。
その時だった。
ふと視線が合う。
大和だった。
こちらを見ている。
正確には、俺としゆらを見ていた。
敵意はない。
警戒もない。
ただ静かに観察しているような目だった。
だから少し気になった。
「一つ聞いてもいいか」
そう声を掛けると、大和は小さく頷いた。
「構わない」
「俺達は人間だ」
その言葉に周囲の住人達が少しだけこちらを見る。
だが誰も口を挟まない。
大和も黙って続きを待っていた。
「千代は信用してくれた。だが普通は違うだろ」
夜哭きの森は人間に追われる側だ。
人間を嫌う者がいても不思議ではない。
むしろその方が自然だ。
だからこそ疑問だった。
なぜこの男は俺達を受け入れているのか。
俺の問いに対し、大和は少しだけ考えるように視線を伏せた。
そして。
「簡単な話だ」
そう言って羽織の中へ視線を向ける。
千代は何も言わない。
ただ少しだけ顔を逸らした。
「千代が信用している」
大和は静かに続けた。
「それだけで十分だ」
予想していた答えではなかった。
もっと長としての判断があるのかと思っていた。
危険性だとか。
利害だとか。
そういう話になるのだと思っていた。
だが違う。
大和はあまりにも自然に言った。
「俺が見ていない場所を千代は見ている」
焚き火の明かりが黒い瞳を照らす。
その視線は真っ直ぐだった。
「俺が知らないことを知っていることもある」
だから、と大和は続ける。
「千代が信じた相手なら、俺が疑う理由はない」
迷いのない声だった。
それは理屈ではない。
信頼だ。
長としてではなく、一人の人間として口にした言葉だった。
羽織の中から小さく布が揺れる音がした。
千代が何か思ったのかもしれない。
だが顔は見えない。
見えなくても分かることはある。
耳がまた赤くなっていた。
どうやら今日は本当に忙しい日らしかった。
コメント
1件
大和の「千代が信じているから」って言葉、すごく重くて温かかった……。理屈じゃなくて信頼で結ばれてるんだなって。千代が照れて騒がれてるのも可愛かったけど、最後に大和の細さに気づいて眉を曇らせるところが気になった。しゆらが「羨ましい」って素直に言えるのもいいな。2人の距離感が少しずつ変わってくのがじわじわ来る話だった。