テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
カラン、と軽やかな音を立てて、ガラス戸が開いた。
木の匂いがほんのり混じる空気と、ふわりとした焙煎コーヒーの香りが迎えてくれる。
私――宮崎羽月は、白いシャツにエプロン姿のまま、深呼吸をひとつした。
「……今日からここで働かせていただきます。宮崎羽月と言います。ご迷惑をおかけするかもしれませんが、よろしくお願いします。」
頭を下げた声が、少しだけ震えていた。
バイトの初日。高校を卒業したばかりの春。大学に入り、生活に慣れるために選んだのは、家の近くにあるこの喫茶店だった。
けれど、胸の鼓動は落ち着かない。初めての職場に、初めて会う人たち。
「大丈夫、ちゃんとできる」と心で繰り返しても、手のひらにはじんわり汗がにじんでいた。
「羽月ちゃん、よろしくな!」
明るく弾んだ声が、すぐに返ってきた。
振り向くと、茶色がかった髪をラフにセットした男の子が、カウンターの向こうからにかっと笑っていた。
「俺ら同い年やんな? いや〜、同い年の子おらんかったけん、めっちゃ嬉しいで!」
勢いよく近づいてくる彼の雰囲気に、私は一瞬固まった。
――え、誰? こんなに距離感近い人、久しぶり。
「あ、俺は橘柊月。なあ、“羽月”って、漢字どう書くん?」
グイッとこちらに顔を寄せてくる。初対面なのに、距離が近い。
「あ……羽に、月です。」
「おお! なら“月”、一緒やなぁ!」
柊月は、心から嬉しそうに笑った。
その笑顔があまりにもまっすぐで、私は思わず視線を逸らしてしまう。
(な、なんで直視できないんだろう……)
恥ずかしいというより、胸の奥がざわざわと落ち着かない。
人懐っこくて、太陽みたいな明るさを持っている――そんな印象だった。
初日の研修は、先輩スタッフに教わりながらレジやホールを覚えることだった。
けれど慣れない動きに、私の手はぎこちなく、注文を取るときも声が上ずってしまう。
「す、すみません……あの、アイスコーヒーが……」
「落ち着いて。大丈夫や、メニュー番号ここにあるから見たらええで。」
耳元でさりげなく教えてくれる声に振り向くと、そこには柊月がいた。
にっと笑いながら、手元の伝票を指差してくれる。
「こういうんは慣れや。俺も最初、めっちゃ噛みまくっとったし。」
「……ほんとに?」
「ほんまほんま! 客に“にゃんこコーヒーください”って言われて、“あ、はい、にゃんこですね!”って復唱してもうて、めっちゃ恥かいたんやから。」
「……ふふっ!」
思わず吹き出してしまった。
さっきまで強張っていた胸が、少しだけほぐれる。
「お、笑ったな。よっしゃ、ええ感じや。」
彼は軽く親指を立てて見せた。
その仕草が、少し子どもっぽくて――でも、不思議と安心させてくれる。
休憩時間、カウンターの奥の小さな休憩室で水を飲んでいると、柊月が隣に腰を下ろした。
「なあ羽月ちゃん、出身どこなん?」
「ここの近く。高校も、この辺りだった。」
「へえ、そうなんや。俺は大阪。大学でこっち出てきてん。」
「大阪……だから関西弁なんだ。」
「そうそう。気ぃ抜いたら、もっとゴリゴリになるけどな。」
そう言って笑う彼に、私は少し戸惑いながらもうなずいた。
彼は人見知りという言葉を知らないのかと思うくらい、最初から自然に話しかけてくれる。
私が返事を少し迷っても、すぐに次の言葉を繋いでくれる。
――正直、最初は苦手だった。
ぐいぐい踏み込んでくる感じが、落ち着かなくて。
けれど。
彼の明るさに触れていると、不思議と肩の力が抜けていくのを感じた。
その日の勤務が終わり、制服を脱いで更衣室を出ると、彼が先に出てきて待っていた。
「おつかれさん! 初日どうやった?」
「……すごく緊張した。でも、なんとか。」
「いや、よう頑張っとったやん。えらいえらい。」
にかっと笑って、頭を軽くぽんと叩かれる。
「ちょ、なにそれ。」
「ご褒美やって。俺の“よくできましたスタンプ”や。」
「子ども扱いしないで。」
ぷいっとそっぽを向くと、彼はまた笑った。
「ほな、また明日な!」
手をひらひらと振って去っていく背中を見送りながら、私はふと胸に手を当てた。
――なんでだろう。
会ったばかりなのに、あの笑顔が頭から離れない。
コーヒーの香りがまだ漂う店内の前で、私はひとり、小さく息をついた。
(あの人といると、なんだか……落ち着かない。)
だけど同時に、その落ち着かなさが、ほんの少し心地よいと感じていた。
バイトを始めて数日。
まだ制服のエプロンにもぎこちなさが残っている頃だった。
「羽月ちゃん、ちょっとお冷や追加で運んどいて!」
店長の声に「はい!」と返事をする。
けれどグラスを持つ手は緊張で微かに震え、運ぶ途中で水がこぼれそうになる。
「あっ……!」
慌ててバランスを立て直した瞬間、横からすっと手が伸びてきた。
トレイの端を支えてくれたのは彼だった。
「おっと、危ない危ない。大丈夫か?」
「……っ、ありがとう。」
「おう。ほら、落ち着いて。深呼吸してから行こ。」
そう言って私の前でおどけるように胸を大きく膨らませ、ふうっと息を吐く。
思わず同じようにしてしまい、緊張がほんの少し解けた。
「よし、それでええやん。な? 羽月ちゃん、意外と真面目すぎるんちゃう?」
「……真面目なの、だめ?」
「いや、ええことや。でもな、肩に力入りすぎやで。力みすぎたら逆に失敗する。野球と一緒や。」
「野球?」
「そうそう。バッターボックス立って、ガチガチになっとったらバット振られへん。リラックスして、ヒョイって振ったら当たることもあるんや。」
「……分かるような、分からないような。」
「まあ要するに、“ええ加減”が一番やってことや。」
彼はにっと笑い、軽く肩を叩いた。
その温かさに、胸の奥がじんわりとほどけていくのを感じる。
ある日、私は注文を取り間違えてしまった。
ホットコーヒーを頼まれたのに、アイスを入力してしまったのだ。
「す、すみません! すぐに作り直します!」
焦って謝る私に、お客さんは「大丈夫よ」と微笑んでくれた。
けれど心臓は早鐘を打ち、涙がにじみそうになる。
「羽月ちゃん、任せとき!」
彼がすかさずフォローに入り、アイスを受け取りながら軽口を叩いた。
「いや〜、今日暑いからアイスでもいけると思ったんかな? でもお客さんはちゃんとホット派やな!」
お客さんは思わず笑い、空気が和らぐ。
その隙に私はホットを素早く準備し、無事に出すことができた。
「……ほんとにありがとう。」
「おう。失敗なんか誰でもするやん。大事なんは、それをどうリカバーするかやで。」
彼の言葉に、胸が温かくなる。
閉店後、片付けをしていると、彼がふいに話しかけてきた。
「なあ羽月ちゃん、彼氏とかおるん?」
「……え?」
思わず持っていたカップを落としそうになる。
突然すぎる質問に、心臓が跳ね上がった。
「い、いない!」
「ほんま? そっか〜。なんや意外やな。かわいいのに。」
「かっ……!」
耳まで赤くなるのが分かった。
彼は悪びれもせず、カウンターに肘をついてにやにやしている。
「な、なんでそんなこと聞くの?」
「いや、気になっただけや。」
軽い調子で言われても、胸の奥はざわついて落ち着かない。
それは嫌悪じゃなく、むしろ……自分でも説明できない感情だった。
「今度の休み、予定あるん?」
「え、特にないけど。」
「ほな、一緒に水族館行かへん?」
「……えっ?」
あまりに唐突すぎて、頭が真っ白になる。
けれど、彼の瞳は真剣で――断れない何かに引き寄せられた。
「……考えとく。」
「お、ええ返事待っとるで!」
彼は満足そうに笑い、ほうきを回しながら片付けを続けた。
帰り道、夜風に吹かれながら、私は胸に手を当てる。
(なんで断らなかったんだろう……)
彼といると、心が落ち着かなくなる。
でも、その落ち着かなさは、なぜか嫌ではない。
街灯に照らされた歩道を歩きながら、私は小さく息をついた。
(少しずつ……近づいているのかな、私たち。)