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約束の日が近づくにつれて、胸の奥はざわざわと落ち着かなくなっていった。 「水族館」という言葉を思い出すたびに、頬がほんのり熱を帯びる。
(私、何着て行けばいいんだろう……)
前日の夜、鏡の前で服を並べながら、ため息が漏れた。
大学に入ってから買ったブラウス、スカート、シンプルなワンピース。どれも無難すぎる気がして、決めきれない。
「羽月、またため息?」
ルームシェアしている友人の芽衣が、呆れ顔で部屋に入ってきた。
「……だって、初めての……デート、かもしれないんだよ?」
「“かもしれない”じゃなくて、完全にデートでしょ。水族館なんて。」
「そ、そうかな……」
「そうだって。で、相手ってあの喫茶店の子? 関西弁の。」
「……うん。」
「なるほどね〜。羽月って、そういうタイプ好きなんだ。」
「ち、ちがっ……!」
言い訳しようとしても、芽衣のにやにや顔に遮られる。
「まあまあ、いいじゃん。素直になりなよ。それより服は……これだね。」
芽衣が選んだのは、薄いブルーのワンピースだった。
裾がふわりと広がり、涼しげで清楚な雰囲気を持っている。
「これ……似合うかな。」
「絶対似合う! 柊月くん、絶対惚れ直すって。」
芽衣の言葉に、胸の奥が熱くなる。
惚れ直す、なんて。まだ何も始まってないのに――。
当日の朝。
待ち合わせ場所に向かう足取りは、やけに軽く、そして重かった。
心臓がばくばくして、息が落ち着かない。
「羽月ちゃん!」
手を振る声に顔を上げると、そこには彼がいた。
白いシャツにジーンズというラフな格好なのに、不思議と爽やかで絵になっている。
「……お待たせ。」
「いや、俺も今来たとこや。おー、めっちゃ似合ってるやん!」
「えっ……!」
唐突な言葉に耳が赤くなる。
彼はにっと笑い、何事もなかったように「行こか」と歩き出した。
水族館の入り口をくぐると、ひんやりとした空気が頬を撫でる。
青い光に包まれた大きな水槽には、色とりどりの魚が泳いでいた。
「うわー、きれいやな!」
彼は子どものように目を輝かせ、水槽に顔を近づける。
その無邪気さに、思わず笑ってしまう。
「羽月ちゃん、これ見てみ! 魚、めっちゃ群れとる!」
「ほんとだ。光に反射して……きれい。」
「なあ、一緒に写真撮ろか。」
「えっ……写真?」
「せっかくやし、記念に。」
彼のスマホを向けられ、戸惑いながらも並ぶ。
シャッターの音が響き、画面に映った自分は、少しぎこちなく笑っていた。
けれど、その隣で満面の笑みを浮かべる彼を見て――胸がくすぐったくなった。
館内を巡り、イルカショーで笑い合い、ペンギンを眺めて声を揃えて「かわいい」と言った。
そして、静かな展示室に入る。
薄暗い照明の中で、無数のクラゲがふわりふわりと漂っていた。
「……きれい。」
思わず漏れた声は、ひどく小さかった。
青白い光に照らされたクラゲは、夢の中の存在のようで、現実感がなかった。
「せやな。なんか、時間忘れるわ。」
隣に立つ彼の声も、どこか柔らかくなっていた。
ふと、手に触れる温もり。
驚いて振り向くと、彼の手がそっと私の手を握っていた。
「……柊月くん?」
「羽月ちゃん。俺な、ずっと思っとったんや。」
彼の声が少し震えているのが分かった。
その真剣さに、胸が強く締めつけられる。
「羽月ちゃんのこと、好きや。もしよかったら……俺と付き合ってくれへん?」
クラゲの光が揺れる中で、彼の瞳は真っ直ぐだった。
心臓が大きな音を立て、呼吸が浅くなる。
――どうしてだろう。
答えは、とっくに自分の中で決まっていた。
「……はい。私も……好きです。」
かすかな声だった。けれど、確かに言えた。
次の瞬間、彼の笑顔が弾け、手をぎゅっと握り返してくれた。
「よっしゃ! めっちゃ嬉しい!」
その声に、思わず笑ってしまう。
クラゲが漂う水槽の前で、私たちはそっと寄り添った。