大家さんとの話を終えた後、僕は部屋に戻り支度を始めた。洗面台へ向かって鏡を見ると、そこには酷くやつれた顔色の悪い男性がいた。伸び切った髭を整えて、髪をセットする。そして、顔色が少しでも良く見えるように軽くメイクをした。この日のためにネットショッピングで購入した安物のスーツを身にまとい、鞄の中に書きためた原稿を詰め込む。
遂に、この日がやってきた。
明らかにスーツとは不釣り合いなボロボロのスニーカーを履いて、玄関のドアノブに手をかける。
『いってらっしゃい!君は天才だから、きっと大丈夫!肩の力抜いて、リラックスして臨むんだよ!』
部屋の方から君の声が聞こえた気がした。いるはずもない君の声。振り返りたい気持ちをグッと堪えて、僕は深く深呼吸をする。息を整えた後、僕は力強く扉を開き、一人小さく呟いた。
「いってきます。」
久しぶりに歩いた外の世界は、君との思い出で溢れていた。8年前、初めて君の食べる姿を見たラーメン屋さんは、今でも行列ができるほどの人気店だ。初めて君の歌声を聴いたカラオケボックスは、相変わらず無愛想な店員がカウンターに立っているみたいだ。君と初めて歩いた繁華街は、若いカップルとスーツを見に纏った人間たちで溢れかえっている。大丈夫かな。スーツなんて着たのは成人式以来だ。ちゃんと、似合っているかな。変じゃないかな。
『大丈夫。すっごく似合ってる。すっごく、かっこいいよ。さすがだねえ君は。なんでも似合っちゃうんだもん。』
また、君の声が聴こえた。君は、あの日からも僕の心の中で生き続けている。空を見るたび、原稿を書き進めるたび、こうして外に出るたび、君は優しく僕を励ましてくれる。その言葉に救われて、僕は今まで頑張って生きてこられたんだ。
溢れ出しそうな涙を堪えながら、一人ゆっくりと足を進める。
病院で目を覚ましてからリハビリを終えるまで、僕は自分が生き残った意味を必死に考えた。
ただ運が悪かっただけなのか?違う。
心のどこかで生きたい願ってしまっていたのか?違う。
君が僕をかばってくれたのか?違う。
そんなことじゃない。まだ、僕には、僕らにはやり残したことがあったはずだ。
誰もいない大きな映画館で、僕らの物語を描いた映画を二人だけの客席で鑑賞する。
君は、僕ならこの夢を絶対に叶えられると信じてくれていた。この命は、君が僕にくれた最後のプレゼントなんだ。
「初めて君の書いた話を読んだときにね、私直感で感じたんだ。君には才能がある!私、素人だし、うまく説明できないけど…演劇のこととかも、映画のこととかも、全然わからないんだけど…君は絶対に成功させてくれる。夢を叶えてくれる。私はそう信じてる!心から信じていれば、きっとどんな夢だって叶う日が来るよ!」
君が言ってくれた言葉が、頭の中をループする。その言葉が、僕の背中を押してくれた。一度は諦めてしまった夢を、再び全力で追いかけると決心した。できっこないと思うのは、もうやめた。僕ならできる。そう心から信じていれば、絶対に叶えられる日が来るんだ。
リハビリを終えてからの一年間、僕は自分の抱える病気と闘いながら、君と見るはずだった映画の脚本を必死で書き進めた。君が僕と出会うまでの物語と、僕と君がと出会ってからの物語。楽しかったことや、辛かったこと、苦しかったこと。全部包み隠さず脚本に書いて映画にするんだ。何度も何度も書き直して、やっとの思いで完成したその脚本は、僕らの思い出そのものだった。
どうすればこの脚本を映画にすることができるんだろうか。制作会社に直接持って行ったところで、どうせ読まれっこない。素人が出てきてあれこれとわかりもしないことでダメ出しをされてそこで終わりだ。そんなことがしたいわけじゃない。修正も加筆も必要ない。ハッピーエンドにするつもりもない。このままのストーリーで、僕らに起こった出来事をそのまま映画にするんだ。
今どきはすごい時代だ。インターネットを漁っていると、注文があった分だけ製作してくれて、自分では一切払わないまま製本できるサービスを見つけた。もちろん、売れ行きに応じてきちんと作家に還元されるらしい。そのサービスを利用して、僕は誰の力も借りずに本を作ることにした。
今まで使ったことのなかった掲示板やSNSを駆使して、僕は毎日少しずつ、原稿を投稿した。予測できない展開と親近感が湧くストーリーは瞬く間に反響を呼び、ネットを利用するものなら知らない人はいないほどに人気の作品になった。テレビでは謎に包まれた新人作家として連日報道され、大家さんの元に連日届くファンレター。もちろん、その内容はいいものばかりではない。批判的な意見も多かった。
「こんな作品を世に拡めないでくれ。」
「自ら命を投げ出す人が増えたらどうするんだ。」
相変わらずこの世界には、偽善を騙った人間たちで溢れている。世の中に溢れる正解や不正解が、必ずしも正解じゃない。乗り越えられる人間もいるかもしれない。僕らだって、一度は乗り越えようとした。ただ、頑張りすぎて糸がほつれてしまっただけなんだ。例えどんなに悲しい結末であったとしても、僕らが決めた正解はそれしかなかったんだ。
毎日のように届く取材の依頼を断り続けていた僕はある日、一度だけコメントだけなら構わないと承諾し、押花を添えてテレビ局へと送った。
“ この作品は、決して自ら命を断つ人を肯定するようなものではありません。
この作品の最後では、確かに二人とも身を投げ出してしまいます。ただ、結末だけじゃなくて、二人が生きてきた過程を見てあげてください。二人で過ごした五年間を見てあげてください。死にたいと言った日から、生きてみようと思えた事実が大事だったと、僕は思っています。
もしこの作品を読んでくれている人の側に似た境遇の人がいれば、そっと寄り添ってあげてほしい。優しく手を差し伸べてあげてほしい。でも気をつけて。「頑張ろう」って言葉は誰にでも響く言葉じゃない。時には凶器になることだってある。だからそのときは、ただその人を肯定してあげてほしい。それだけで、救われる人もいます。
もしその人が「死にたい」と言ったときは、「死ぬな」とは言わないであげてください。その人にとっては、それしか正解がないほどに追い込まれているんです。だから、生きる意味を見つけてあげてください。どんなことだっていい。この作品と同じように生きる意味を書き殴るでもいい。ペットを飼ってみるでもいい。一緒に探してあげてください。
彼女のように、辛い過去を持っている人は、この世の中にごまんといます。しかしながら、綺麗事ばかり言って偽善振りかざす人間だって腐るほどにいる。そんな人間たちが、少しでも人に寄り添えるようになれば、彼女も救われたはずです。僕は、彼女を救うことはできませんでした。変えることはできませんでした。でも、この作品を読んでくださった人たちなら、救うことができるかもしれません。
少しでもこの作品が心に響いたあなた。
少しでもこの作品が頭の片隅に残っているあなた。
彼女のような人たちを救えるのはあなただけです。
彼女たちが笑顔で過ごせる世界を作ることができるのは、あなただけです。
僕にはできなかったことを、あなたに託します。”
このコメントが更に話題を呼び、僕たちの本は史上類を見ないほどのベストセラーとなった。気づいた頃には、僕の銀行口座には数千万円ほどの売上が貯まっていた。僕は、この売上を使って自分の力で映画を作ることに決めた。とは言ったものの、僕は病気の影響で、人と関わってしまうと迷惑をかけてしまいそうで怖かった。そこで僕は、劇団の監督へ事情を説明して、現場監督を依頼することにした。配役は、子役時代からドラマで活躍し続ける実力派女優と、独特な顔立ちと演技力から名脇役として名を残す個性派俳優の二名に依頼をした。なんで話題のアイドルグループに依頼しないんだと、劇団の監督からは猛反対を受けたけどね。僕は、この作品にリアリティを追求したかった。僕なんて、お世辞にもイケメンとは程遠い顔面をしている。女優の方だって、君に顔立ちがそっくりな人を起用した。顔だけではない。子役の頃から活躍しているからこそ、君の気持ちに通じる部分があるだろうと僕は信じていた。スタッフの話によると、脚本を初めて読んだとき、二人とも涙を流してくれていたらしい。
劇中BGMには、先日メジャーデビューしたばかりのギターロックバンドを起用し、エンディングテーマには新人ボカロPを起用。メインカメラマンはテレビ局から数名派遣してもらい、サブカメラマンやスタッフは可能な限り劇団から起用したため、手元には一千万円ほどの資金が残った。残った資金は、ただ一言のメッセージを添えて、全額君が育った児童養護施設へ寄付をした。
“彼女と同じ境遇の子らが、少しでも生き易い環境を作れますように。”
映画の制作に取り掛かってから一年を経て、ようやく僕らの映画が完成した。気付けば、君と会えなくなってから三年、僕らが出会ってからは八年という歳月が流れてしまっていた。
30分ほど歩いて辿り着いたのは、ここ一帯の地域で一番大きな映画館。そう。今日は完成した映画の試写会と、舞台挨拶の日だ。そして、その前に劇場を貸し切って、一番に完成した映画を観させてくれることになっていた。
次第に暗くなっていく劇場。ブザーの音が鳴り映画が流れ出す。当然、客席には僕しかいない。一人きりの空間だ。物語が進むたび。君との思い出がフラッシュバックする。
いつしか、僕は隣に君がいるような錯覚に陥っていた。映画の中で僕が笑うたび、隣にいる君が笑うんだ。映画の中で僕が泣くたび、隣の君が涙を拭うんだ。そして僕はそんな君を見て、優しく頭を撫でる。映画が終わり照明で客席が照らされる頃には、隣にいる君が目を輝かせながら言うんだ。
『君は本当にすごい!天才だよ!この映画作るの大変だったでしょ。帰ってコーヒーでも飲みながらゆっくり休もう?』
そうだ。今この映画を見終わった瞬間、僕たちのやりたかったことは全て終わった。ならば僕がやるべきことは、一つだけだ―――。
劇場と外を繋ぐ重い扉をスタッフが開くと、僕は一目散に外へ抜け出した。僕の名前を呼びながら、全力で追いかけて来るスタッフ。僕は追いつかれないように、必死に走り続けた。こんなに走ったのはいつぶりだろう。胸が苦しい。横腹が痛い。口中に溢れる血のような味。懐かしい感覚。僕はまだ、生きているんだ。
何十分走り続けただろうか。後ろを振り返ると、既に追いかけてきていたはずのスタッフの姿はなかった。空を見上げると、そこには紺とオレンジのグラデーションが広がっていた。僕はそのまま、ただひたすらに足を進め続けた。オレンジ色が大半を占めていた空はすっかり紺色に浸食され、気付けば暗闇に光る星が街を照らしていた。
この三年間。君を忘れた日なんて一度たりともない。毎日君との思い出を振り返り、毎日後悔する。今すぐこんな世界から抜け出して、君に会いたくなる。消えたい想いが日々募っていく。僕は残された夢を叶えるために、感情を押し殺した。死んでしまいと思う気持ちから、そっと逃げるように目を瞑っていた。でも、もう僕を繋ぎ止めるものはなにもない。いつの日かまた2人で笑えますように。叶わないはずの想いを抱いて。僕らがひとつになった星空のしたで、ひとりきり星を眺めて進む。
街頭ビジョンでは、早速舞台挨拶を前に僕が逃げ出したことが報道されている。幸いにも、僕はどこにも顔出しをしていない。こんな繁華街のど真ん中にいたって、誰も気づくはずがない。
僕が描いた物語の大部分は、実際に起こったことや君と過ごした時間をもとに制作した。所謂、ノンフィクションの物語だ。ただ一つ。結末だけを除いて。 この物語のラストシーンで、ずっと追いかけていた夢を叶えた主人公の僕は、君を追いかけて再び身を投げる。そして、君と一緒に星になった僕は、ふたりぽっちの世界でいつまでも永遠に幸せに暮らすんだ。この結末は、僕の理想であり、願望である。結末をこうすることで、それは本当になるんじゃないかという期待も込めていた。心から信じていれば、きっとどんな夢でも叶う日が来る。事実、君と最後に誓った夢は叶えることができた。ならば、僕の最後の夢だってきっと叶うはずだ。
この全てを実話とするには、この結末を実現させる必要がある。一人涙を流しながら、君と歩いた街で人混みをかき分けながら、僕はあの屋上を目指した。
やっと会いにいくよ。となりにいくよ。これからはふたりでまた暮らせるから。さみしかったよね。ごめんね―――。
君と会えなくなってから、僕はずっとひとりだった。ずっと、ひとりぽっちは嫌だった。君の声を探していた。君の声が聞きたかった。一人で涙を流しながら歩き続けていると、僕はあの屋上に辿り着いていた。当然、そこに君の姿はない。君のいない屋上で、寒さで冷え切ったコンクリートの地面に一人横たわる。思い出す記憶。思い出す約束。ふたりぽっちの世界にいこう。地面に向かって垂れていく涙をそっと拭って、再び立ち上がった。
これから君に会えるかもしれないんだ。
君に悲しい顔を見せるわけにはいかない。この疲れ切った表情を、君に見せるわけにはいかない。笑わなければ。僕は自分の頬を二度叩いて、気合を入れ直した。
屋上の淵に向かって、ゆっくりと足を進める。あと一歩というところに着いたとき、僕は一人呟いた。
「せーの」
深く深呼吸をして息を整えてから、再び口を開こうとしたその瞬間。僕の手を誰かが握った気がした。慌てて隣を見ると、そこには君が笑顔で僕の方を見つめていた。泣かないと決めていたのに、笑顔でいこうと決めていたのに、再び涙が溢れ出す。せめてもの気持ちで、無理矢理に口角を上げる。
『もう、心の準備はできた?』
君が僕に優しく問いかける。
「うん。お待たせ。もう、準備できたよ。」
そう言って、僕は君の手を強く握った。
『『せーの』』
二人の声は隣り合うビルの間にこだまし、静寂に包まれた世界に響き渡る。重い一歩を踏み出しながら、僕らは空に向かって再び口を揃えた。
『『いこう』』
二人愛し合って、手を取り合いながら、真っ逆さまに堕ちていく。
『私ね、ずっと君のこと待っていたんだ。何度も、寂しいって思った。正直、君にはもう会えないと思っていた。だけど、君は私を忘れないでいてくれた。また、会いに来てくれた。』
「ごめんね。長い間待たせてしまった。でもね、この間に色んなことがあったんだよ。君に聞かせたい話がたくさんあるんだ。」
『うん。君の話、聞きたい。だから、家に帰ったらゆっくり二人で話そう。』
今度こそいくんだ。僕ら2人だけの世界。ふたりぽっちの世界に。あのとき見た星と同じで綺麗だねと言葉を交わしながら、2人黒い夜空へ溶けていく。僕らは、暗闇に星が灯る空へと、二つの星となって消えていった。
僕が再び目を開けたとき、そこには真っ白な世界が広がっていた。
(そうか。ここが天国なんだ。)
僕は心の中で、そうやってひとり呟いた。
「よかった!目を覚ましたのね!」
聞き慣れた声。落ち着く声。
「おはよう。」
君の声だ。目の前にいた君は、最後に見たやつれていた姿ではなく、出会った頃の僕が一目惚れしたままの姿だった。やっと、来れたんだ。僕ら2人の世界。ふたりぽっちの世界に。
「ぐっすり眠れた?」
「うん。なんだか、長い夢を見ていた気がするよ。」
「どんな夢?良い夢だった?」
「うん。寂しかったけど、良い夢だった。ずっと追いかけていた夢が叶う話。」
「それは最高に良い夢だねえ。聞かせてよ。その夢の話。」
「もちろん。ちょっと長くなっちゃうけど、大丈夫?」
僕は、君がいなくなってからの3年間の話をした。体も動かない。声すら出ない状態から辛いリハビリを乗り越えて、2人で追いかけていた映画を完成させた話。本当に、まるで夢みたいな話だ。君は前のめりになって目を輝かせ、僕の話を真剣に頷きながら聞いてくれた。
「やっぱり、君はすごいよ!天才だよ!」
ずっと探し求めていた君の声。求めていた通りの言葉をかけてくれる君。僕は、また涙を流していた。
「本当、君は泣き虫だねえ。」
「うるさいなあ。君も似たようなものだろ?」
「あ!本当だ!また共通点見つけちゃったね!」
くだらないことで笑い合う。幸せな時間が二人を包み込む。
「そうだ!ここね!すごいんだよ!望んだものがなんでも出て来るの!遊園地や水族館、動物園だって、行きたいところも一瞬で行けちゃうんだよ!」
「本当に?それはすごいね!君はどこへ行きたい?」
「私はねえ、君と行った遊園地にもう一度だけ行きたいな!」
「いいね。遊園地。一度だけとは言わずに何度だって行こう。」
「やったあ!ありがとう!大好き!」
僕らはこれから毎日、ずっと二人でいられる。ここには、病気だって存在しない。ただ、二人で笑って、美味しいものをたくさん食べて、たくさん好きなものを買って、たくさんデートをするんだ―――。
「ねえ。」
「ん?どうした?」
「昔みたいにさ、一緒にせーので感謝を伝えあわない?」
「いいね。それ。懐かしい。」
「でしょ?さすがは私。私も天才かもしれないね!」
誇らしげに鼻を触る君。
「準備はいいかい?」
「もちろん。いつでも大丈夫だよ。」
『『せーの』』
『『ありがとう。』』
“ ありがとう。私のことを忘れないでいてくれて。 ありがとう。こんな世界があることを、私に教えてくれて。 ありがとう。君と出会えて、本当に幸せだよ。”
空も地面も海もない。ただ真っ白で静寂に包まれた世界。僕らはこの新しい世界で、ただ幸せを噛み締めて笑いながら歩んでいく。
きみとふたりで―――。
コメント
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うわぁぁぁ…一部に曲の歌詞があったからまた聴きに行ってきましたが… 感情がぶわっと溢れてきて、言い表せない気持ちになりました。 二人が最後に幸せそうで良かった…そのまま永遠に幸せに過ごして欲しい。 長きにわたり、連載お疲れ様でした!