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藤代の顔には、相変わらず怖いくらい穏やかな笑みが浮かんでいる。
「始業前とはいえ、そのくらいにしておきましょうか」
「……はい、申し訳ありません」
「俺も……悪かった」
またやってしまった。
瑠璃香は晴永と顔を見合わせたあと、今度こそ気持ちを引き締める。
元々同じ部署で何年も上司と部下として働いてきた二人なのだから、多少気安いやり取りをしたところで、それだけなら不自然ではないだろう。
けれど、どこからが〝以前から親しい元上司と部下〟で、どこからが〝恋人同士の距離感〟なのか。
自分たちにとっては当たり前になっているだけに、案外その境目は分かりにくかった。
(私、企画宣伝課では晴永さんと、どう接してた?)
ほんのちょっと前のことなのに、思い出せない。
だからこそ、意識して線引きをするように心掛けねばならないのだ。
瑠璃香は小さく息を吸うと、改めて晴永へ向き直った。
そう、まずは呼び方の徹底と、口調から。
「新沼社長補佐」
「ん?」
返事をした晴永が、すぐに「あ」とでも言いたげな顔をする。
そんな姿にまた笑いそうになりながらも、瑠璃香は今度こそ専属秘書としてきちんと頭を下げた。
「本日から、よろしくお願いいたします」
晴永がほんの少しだけ目を見開く。
けれどすぐに、彼の表情も仕事のものへと切り替わった。
「ああ。よろしく、小笹さん」
恋人としてではなく、社長補佐とその専属秘書として。
今日から瑠璃香は、晴永の隣で働く。
***
そうして始まった、専属秘書としての初日。
始まるまではあれこれ考えて緊張していた瑠璃香だったけれど、いざ仕事が動き出してみれば、いつまでも晴永を意識している余裕などなかった。
「小笹さん、十時からの会議の資料なんだけど」
「はい、こちらに……」
言われて、瑠璃香はデスクの上に準備しておいたファイルを手に取った。
晴永が一瞬、口を閉ざす。
「……これ」
「昨日、最終版が共有されていましたので、今朝印刷しておきました。念のため、修正前のものと差し替わっていることも確認済みです」
「そうか。助かる」
「はい」
受け取った晴永が、その場で資料を確認していく。
「すげぇな。完璧だ」
たったそれだけのことなのに、瑠璃香は胸の奥がくすぐったくなった。
(ちゃんと、役に立てた……!)
秘書としてなら当たり前の仕事なのかもしれない。
けれど、自分が支えると決めた相手に「助かる」とか「すごい」とか「完璧だ」とか言ってもらえたことが、素直に嬉しかった。
その後も、思っていた以上に仕事はスムーズに進んだ。
理由のひとつは、やはり企画宣伝課時代の経験にあるのだろう。
瑠璃香は何年もの間、晴永――新沼課長――の部下として、彼のすぐそばで働いてきた。
晴永がどんな順番で仕事を片付けていくのか。
急な予定変更が入った時、何を優先するのか。
資料に目を通す際、どこを重点的に確認するのか。
秘書として研修を受けるよりずっと前から、瑠璃香は〝上司としての晴永〟を深く理解している。
そして晴永の方もまた、瑠璃香の仕事ぶりをよく知っていた。
最初のうちこそ心配そうに瑠璃香のことを気にしていた藤代だが、阿吽の呼吸で仕事をこなしていく二人の姿にホッとしたのだろう。こちらを窺う頻度は、次第に減っていった。
***
午後になってしばらくした頃、社長補佐室の電話が鳴った。
コメント
2件
るりかちゃん、誰に認められより、はるながさんに認められるのが一番嬉しいんじゃないかな!?
鷹槻れんさんの第146話、拝読しました。 藤代さんのあの「怖いくらい穏やかな笑み」、一瞬で空気が変わりますね。瑠璃香さんが「元上司と部下」と「恋人」の境目に戸惑う気持ち、すごく分かります──当たり前になってる距離感って、後から線引きしようとするほど難しく感じますよね。でも、改めて「小笹さん」と呼ばれて背筋が伸びるような切なさもあって。 そして「完璧だ」の一言に胸がくすぐったくなる瑠璃香さんの反応が、本当に愛おしかったです。二人の阿吽の呼吸、読んでいて心地良かったです。