テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
157
352
「老舗の喫茶店といった感じですね」
工藤が言い、結は店を見上げた。建物はそれほど大きくない。レトロなという言葉が似合う佇まいの店だった。扉のところに「宵の灯屋」という看板が立て掛けられていた。銀色のドアノブを工藤が引くと、扉に取り付けられたベルの音が店内に響き渡った。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中にいた男性がこちらに視線を向けて言う。ロンスグレーの髪に、シルバーの縁のメガネをかけて、きちんとアイロンが当てられたワイシャツに紺色のベストを着て、ベストの胸元にはポケットチーフが入れられていた。向けてくれた朗らかな笑みは、初対面だがほっとさせられるものがあった。
「お好きなところにお座りください」
低めの落ち着いた声も、耳に心地良かった。お湯が沸く音。食器が重なる音。コーヒー豆の香り。店内はちいさなカウンターと四角いテーブル席が3つという小さな店だった。
壁に飾られている絵に優しい温かい色遣いの絵に結は惹き込まれた。
「いい絵でしょう、画伯の作品なんですよ」
「画伯?」
結が聞き返すと、店主は微笑んでくれた。
「そうです、暖人画伯です。コーヒーが冷めないうちにどうぞ」
コーヒーは、まろやかで優しい味がした。
「こちらは長いのですか?」
店主にそう切り出したのは工藤だった。
「もう十年くらいですかね。最初は趣味で始めたことなので、仕事終わりの午後九時から開ける店でした」
夜にしか開かないへんな店なの。
さっき出会った女性もそう言っていた。
「仕事を終えて好きな音楽を聴き、本を読みながら好きなコーヒーをゆっくり味わう。こんな贅沢なことはありません。ここは自分の隠れ家にするつもりでした」
「喫茶店ではなかったのですね?」
店主は「ええ」と笑った。
「あるときここが喫茶店だと思って、ふらっと入ってきてしまった人がいましてね。それならいっそう喫茶店にしたらどうかと妻に言われまして、やってみることにしました」
定年を待たずに会社を早期退職して、この喫茶店を始めたのだという。
「お二人はお仕事ですか?」
店主に聞かれて、結は慌ててまたバッグから名刺入れを取り出して名乗った。
「わたくし、コズカグランドホテルで代表しております小塚と申します。こちらは秘書の工藤です」
工藤が頭を下げる。
「ああ知っていますよ。あの大きなホテルですよね。こんな可愛らしいお嬢さんが代表とは驚きました。私は松本といいます」
手渡されたこの店の名刺には、「宵の灯屋。店主松本恭平」と書かれていた。
それを手にしたまま、結はホテルで開催された絵画コンクールのこと、そこで日下部暖人の作品がグランプリに選ばれたことを話した。すると恭平は、朗らかな笑みをさらに柔らかくした。
「そうでしたか。暖人君の作品がグランプリですか。それはよかった、本当によかった」
「それで連絡を取ろうと試みているのですが、なかなかお電話が繋がらなくて。先程もお宅へ伺ったのですがお留守のようでした。郵便受けに名刺を残してきたのですが」
日下部暖人の家の前で出会った女性に、ここに暖人がよく来ると聞いたことを話した。
「どうしても近日中に連絡を取って、受賞のことをお伝えたいのです」
笑みを浮かべて話を聞いていた恭平が、逆に聞いてきた。
「この店、日曜日は午前八時から開いてるんです。どうしてかおわかりになりますか?」
目を丸くする結に恭平が笑った。
「暖人君の希望だからです。暖人君はいつも同じ時間に、同じルートで、同じところへ行くのです。そうしなければ落ち着かないのです。平日はここから車で三十分ほど離れたところにお父さんの工場があって、毎日お父さんと二人で野球のボールを作っています。日曜日は散歩をして、この店で朝食を食べるのが日課なのです」
判で押したような毎日を退屈だという人もいるだろうが、日下部暖人にとってそれこそが心の安定であり、幸せなのかもしれない。
「日曜日の八時ですね」
工藤に頷きかけたとき、奥の扉が開いてハイヒールの踵が床に響く音と共に声がした。
「こんな時間にお客さんなんて珍しいわね」
顔を上げてその人を見た。背中まで伸びた長い髪を大きな赤いシュシュでまとめていた。暗めの照明のせいで背の高い女性だと思った。
その人が結の方を向いたとき、左耳の小さなピアスが光る。朱赤で塗られた艶やかな唇が動いた。
「なによ」
それが翠(あきら)との出会いだった。綺麗に化粧をした男性だとわかったとき、じっと見てはいけないようで結は思わず視線を落とした。
「こちらに翠さんは、うちでただ一人の従業員です。こちらは小塚結さん。ほら、あの丘の上のグランドホテルの代表をされている方」
「代表…?」
ちょっと眉間を寄せて翠が結をまじまじと見た。それからふふっと鼻で笑った。
「随分お若い代表さんだこと」
嫌味っぽく言われて、そんなことはよくあることでもう慣れているはずなのに、この人のこの言い方には無性にカチンときて、結は席を立った。恭平に礼を言い、日曜日にまた伺うことを約束して店を出た。
雨はまだ降り始めていなかった。
コメント
2件
翠の登場シーンのことを褒めてくれてありがとうございます!嬉しかったです💕
第6話読み終えたよ〜!🌸 宵の灯屋、めっちゃ素敵な喫茶店だね…!松本さんの温かい人柄とか、コーヒーの香りが伝わってくるような描写にほっこりした☕️💕 そして翠さんの登場シーン、ピリッとした空気感が一気に変わって「おっ」ってなったよ!結さんの「カチンときた」気持ち、すごくわかる〜笑 日曜日の朝8時、またこの店に行くんだね。暖人さんとの出会い、すごく楽しみにしてるよ!✨