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第3部 非公開
第15章 余白
一月十八日。山梨から戻った翌日。アトリエの窓の外には、まだ昨日の雪が残っていた。
柔太朗は、作業台で、石を留める前の指輪の台座を磨いていた。
「柔太朗」
仁人がアトリエの入口に立っていた。目の下の影が、少し薄くなっている気がした。
「土産だ」
差し出された小さな包みを、手を拭いてから受け取った。中に水晶の原石が一つ。透き通っていて、光を通すと内側に細い筋が見えた。
「きれい」
「そうだろう。いくつも見て、決めた」
仁人は少しだけ得意そうだった。それから、もう一つの袋をちらりと見せた。
「舜太には、干し柿だ」
「干し柿」
「好きだろう」
「……好きだっけ?」
「多分」
柔太朗は、小さく笑った。仁人が真面目な顔で、確かでもない理由を言うのが好きだった。
水晶を作業台の隅に置く。ライトの下で、小さな虹が机に落ちた。
「ねえ、仁ちゃん」
「何だ」
「他の作り手と、何か共同で作るのって。僕が勝手にしてはいけないの?」
仁人の手が、止まった。
「……何かあったのか」
「ううん。ただ、知りたくて」
仁人は、少し考えてから答えた。
「取締役は、会社と競合しうる仕事をするとき会社の承認が要る。法律上な。取締役は、会社の経営に責任を持つ立場だから。お前も、舜太も、俺もそうだ」
「取締役か」
「創業のときから、そうだ」
書類に名前を書いた記憶がある。何のための署名なのか、深く考えたことはなかった。
「承認するのは、三人の取締役だ。つまり、お前自身もその一人」
自分自身。
その言葉が、胸に静かに残った。
「……そっか」
「何かあったら、俺に言え。隠すなよ」
仁人は、いつもの平らな声で言った。柔太朗はその顔を見た。
「仁ちゃんも、ね」
仁人の目が、ほんの少し大きくなった。
「……何が」
「ううん。なんとなく」
仁人は咳払いをして、「干し柿を、渡してくる」と言って、アトリエを出ていった。その背中が、少し慌てていた。
柔太朗は、水晶を指の腹で撫でた。
周りのことはよく見える。舜が、何かを持っている。仁ちゃんも、何かを持っている。二人とも、僕には言わない。
責める気は、なかった。ただ、少しだけ寂しかった。
その夜、自宅の作業机で、柔太朗はスマートフォンの通知に気づいた。
知らない海外のアドレスだった。件名は空白。
開く。英語だった。
『柔太朗へ。突然ごめんなさい。授賞式の主催者から、あなたの連絡先を教えてもらいました。無礼を許してください。
一月の初めに、あなた宛の手紙をLueurに送りました。届きましたか。
会社からは、丁寧なお断りの返事をいただきました。けれど、あなた自身の返事は聞けていません。
急がなくて、いいの。ただ、あなたの言葉で聞きたかった』
差出人は、あの女性だった。
柔太朗は、画面を、もう一度最初から読んだ。
手紙。あなた宛の手紙。
舜が「何も来てない」と言った夜が、蘇った。あの夜、廊下の窓に映っていた、冬の街。舜の、優しい笑顔。「来たら、すぐ言う」。
嘘は、滑らかだった。あまりにも、滑らかだった。
のんの
410
こりん
602
レタス
5,005
#ご本人様には関係ありません
狐十@アイコン変えた!!
14,368
指先が冷たくなった。けれど、怒りはこなかった。代わりに、いくつもの断片が、静かに並び始めた。
名刺。パリのレセプションで、少しずつ舜のポケットに消えていった、あの名刺。まだ、共有されていない。
「うちの仕事として」。あの車の中で、二度続いたその言葉。
窓口は、俺が。デザイナー本人には、会わせない。柔は、余計なこと考えんでええ。
全部、優しい言葉だった。全部、柔太朗のための言葉だった。
そして、全部が同じ方向を向いていた。
閉じ込められている、と思った。
それは、檻ではなかった。鍵も、かかっていなかった。柔らかい壁が、少しずつ、自分の周りに立てられている。壁を立てている人は、それが壁だ、気づいていない。
柔太朗は、右手の指輪に触れた。
二年半前に、舜がはめてくれた。世の中に出さなあかんと言った、あの夜。あの声は、嘘ではなかった。だから、なおさら分からなかった。
あの人は、何を考えているんだろう。
その問いを、頭の中で回し続けても答えは出ない。
聞く。責めずに聞く。答えが返ってくるまで、何度でも。
翌日の夕方、柔太朗は、舜太を会議室に呼んだ。
窓の外はもう暗かった。蛍光灯の白い光が、長机を平らに照らしている。
「柔。話って、何や」
舜太は、いつもの笑顔で椅子に座った。手には、缶コーヒーを二本、持っていた。一本を、柔太朗の前に置く。
「ありがとう」
柔太朗は、缶を手に取った。冷たくてぬるくなりかけていた。
「舜」
「ん」
「僕に、言ってないこと、ある?」
短い静寂が落ちた。
舜太の笑顔が、一瞬だけ止まった。それから、いつもの顔に戻った。
「……ない」
答えは早かった。
柔太朗は、何も言わなかった。缶を置いて、ポケットからスマートフォンを出す。画面を開いて、机の上を滑らせた。
舜太はそれを見た。
読んでいるのが、分かった。目が、上から下へ動く。途中で、止まる。もう一度、戻る。
三十秒。一分。
会議室の、時計の音だけが聞こえた。
「……手紙は」
舜太が、口を開いた。
「来てた」
「うん」
「開けた。窓口として、確認せなあかんと思って」
声は、低かった。目は、スマートフォンから動いていなかった。
「買収の交渉中に、相手グループの人間が、直接オファーを出すのは、引き抜きに近い。交渉の前提を崩される。それに、パリで三か月も過ごしたら、新作が止まる。柔のキャリアのためにならんと」
「うん」
柔太朗は、頷いた。
「理由は、正しいと思う」
「そうやろ」
「でも、読んだのは、舜だけだよね」
舜太が、顔を上げた。
「僕は、読んでない」
責める声ではなかった。ただ、事実を並べただけだった。
「断るなら、僕が、断りたかった。……読んで、それから」
舜太の口が動いた。言葉は出なかった。
「すまん」
やっと出た言葉は、それだった。
「謝ってほしいんじゃないんだ」
柔太朗は、静かに言った。
「ただ、聞きたいんだ。何が、怖かったの?」
舜太は、目を見開いた。
「……怖い?」
「うん」
「怖いことなんか、ない」
嘘だ、と柔太朗は思った。けれど、その言葉は口に出さなかった。舜太の手が、缶コーヒーを握りしめていた。関節が白かった。
「そう」
柔太朗は、それだけ言った。
「じゃあ、もう一つ。その手紙、今、どこにあるの?」
舜太は、一瞬目を逸らした。
「……捨てた」
それも、嘘だった。
柔太朗は、分かった。舜太が、目を逸らすとき。声のトーンが、半音上がるとき。何度も、何度も、見てきた。この人は、嘘をつくのが下手なわけじゃない。上手すぎるのだ。上手すぎて、自分が嘘をついていることに、気づいていない。
「……そう」
柔太朗は、缶を手に取り、一口飲んだ。ぬるくて少し苦かった。
「また、聞くね」
「え」
「舜が、話してくれるまで。何回でも」
柔太朗は、立ち上がった。
「怒ってないよ。本当に」
そう言って、舜太を見た。涼しい目元が、いつもより少しだけ柔らかくなっていた。
「ただ、僕の返事は、僕に出させてほしい」
会議室を出る。廊下の空気が冷たかった。
帰宅した柔太朗は、作業机に、スタンドライトを点けた。
スマートフォンを開き、あの女性への返信を書く。日本語で書いて、翻訳の助けを借りて英語にする。何度も消した。短い言葉を選んだ。
『お手紙は、まだ読めていません。
でも、あなたの言葉は、届きました。
いつか、必ず、自分の言葉で、お返事をします』
受けるとも、断るとも、書かなかった。
送信した。
画面が暗くなる。
机の隅で、水晶が、ライトを受けて小さく光っていた。仁人が選んでくれたもの。透き通っているのに、内側に細い筋がある。何も隠していないように見えて、ちゃんと、何かがそこにある。
右手の指輪に触れる。
余白を描く人ね、と、あの人は言った。何もない場所がいちばん雄弁だと。
今夜、自分の中にも余白ができた気がした。舜が、何も言わなかったその場所に。
その余白を、自分の手で埋めよう。
柔太朗は、そう決めて図面を広げた。
コメント
1件
柔太朗があの手紙のことを舜に問い詰める場面、すごく良かった。「何が、怖かったの?」って聞くのが、責めるでもなく諦めるでもなく、ただ舜をちゃんと見ようとする優しさで。あの人は嘘が上手すぎて自分でも気づいてない、っていう洞察も鋭くて、胸に刺さりました。「また聞くね。何回でも」の静かな強さに、ぐっときました。仁ちゃんとのやりとりも含めて、それぞれの「余白」がどう埋まっていくのか、続きが楽しみです。