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第3部 非公開
第16章 持ち分
二月三日。勇斗は、ヴェルディエ本社の会議室で、事業開発担当役員と向き合っていた。
「ベンチャーズの、過去の記録を見せていただきたいんです」
役員は、湯呑みを持つ手を止めた。
「ベンチャーズ。うちの投資部門の」
「はい。Lueurとの間に、二年近く前、NDAが一件、記録されています。その経緯を確認しておきたくて」
「……そんな協議があったのか」
役員は静かに言った。
「知らなかった。私は、初回の面談で、弊社とは今回が初めてのご縁だと言ってしまった。事実と違ったのか」
「グループとしてはそうなります」
勇斗は頷いた。
「ただ、事業開発の部署としては、初めてで間違いありません。部署が別なので」
「そうか……。訂正が必要かな」
「私から確認します。まずは経緯を」
役員はしばらく考えてから、頷いた。
「分かった。ベンチャーズの責任者に連絡しよう。記録も見られるように」
「ありがとうございます」
勇斗は頭を下げた。頭を下げたまま、自分の手のひらが、汗ばんでいることに気づいた。
ヴェルディエ・ベンチャーズは、本社の別の階にあった。
責任者は、五十代の痩せた男だった。無駄のない動きで、机の引き出しから一冊のファイルを出した。
「これですね。二年前の投資検討メモ」
投資検討メモ。投資部門が出資を検討するとき、社内の判断用に作る資料のことだ。会った相手の様子、提案の中身、担当者の所感が、率直に書かれている。外に出ることのない、内輪の記録だった。
「覚えていますよ、この件は」
責任者は、ファイルを勇斗の前に置いた。
「三人で創業した会社なのに、一人で来た。若いCOOでね。二十五、六だったかな」
勇斗はファイルを開いた。
最初のページに、日付があった。創業から十か月目。あの月だった。
面談者の欄に、一名。COO、仁人。
「資料は完璧でした。数字も、市場の見立ても。ただ、提案の中身が変だった」
「変、というのは」
「読んでもらえば分かります」
勇斗は、読み始めた。
のんの
410
こりん
602
レタス
5,005
#ご本人様には関係ありません
狐十@アイコン変えた!!
14,368
『運転資金として三千万円を希望。ただし、新株は発行しない』
新株を発行しない。
その意味を、勇斗はすぐに理解した。
会社が、新しく株を発行して外部から資金を受けると、全員の持ち分の割合が薄まる。希薄化という。たとえば、三割持っていた人が、新株の発行で二割五分になる。創業者にとって、自分の持ち分が薄まることは、会社への支配力が薄まることでもある。
『COO氏は、新株の発行ではなく、自身の保有する株式の一部を当方に譲渡する形を提案。理由を尋ねたところ、共同創業者二名の持ち分を、一切薄めたくないため、と回答』
自分の株を譲る。
二人の持ち分を守るために。
勇斗は、ページをめくった。
『個人的な報酬は、一切求めなかった。役員報酬、ボーナス、将来の優遇、いずれも要求なし』
『さらに、会社が回復した際に、共同創業者二名が、譲渡した株式を買い戻せる条項を希望。COO氏は、この権利を、共同創業者二名の名義で設定するよう求めた。自分自身の名義ではなく』
自分の名義では、なく。
勇斗の指が、ページの端を握っていた。
『第二案。資金が、それでも足りない場合の最終案として。Lueurのブランドの独占的な使用許諾を、当グループに二年間与える。デザイナー本人の了承は、未取得』
デザイナー本人の了承は、未取得。
その一行が、重かった。
『COO氏は、この第二案を提示する際、最も苦しそうであった。「これは、できれば、使いたくない」と述べた』
勇斗は、ファイルから目を上げた。
「……これは」
「ええ」
責任者は、静かに頷いた。
「彼は、二人に何も言っていませんでした。私は尋ねたんです。共同創業者の方々は、この件をご存知ですか、と」
責任者は、ファイルの最後のページを指した。
『COO氏の回答:「二人には、話していません。これ以上、二人に背負わせたくない」』
勇斗は、その一行を、長い間見ていた。
「結果は」
「数週間後に、連絡が来ました。資金調達の目処が立った、と。協議は中止に」
責任者は、ファイルを閉じた。
「変な男でした」
ぽつりと、言った。
「自分のためには、何も欲しがらない。あの年で、ああいう人間は珍しい。……ああいうのが、いちばん、危ないんですよ」
「危ない」
「自分を、勘定に入れない人間は、どこまでも一人で抱え込む。そして、抱え込んだ荷物の重さに、自分で気づかない」
勇斗は何も言えなかった。
責任者が少し笑った。
「あなたは、あの男を、どうするつもりですか」
「……まだ、分かりません」
それが、正直な答えだった。
夕方の街を、勇斗は歩いていた。
タクシーを使う気になれなかった。ビルの間を抜ける風が冷たかった。ファイルは、コピーも、メモも、許されなかった。全部、頭の中にある。
一字、一字、はっきりと。
自分の名義ではなく、二人の名義で。
デザイナー本人の了承は、未取得。
これは、裏切りだ、と思った。あの人は、確かに、二人に無断で会社の運命を変えようとした。ブランドの権利を、他社に渡そうとした。柔太朗の作品の権利を。舜太に何も告げずに。
裏切りだ。事実としてそうだ。
でも、と勇斗は思った。
自分の株を先に差し出した。報酬を一円も求めなかった。買い戻す権利を二人に与えた。
裏切りに見えない。
裏切りと呼ぶには、あまりに誰も得をしていなかった。
勇斗は足を止めた。ビルの間の小さな公園だった。冬の夕日が、ベンチを橙色に染めていた。
ベンチに座る。
笑えなかった。
普段なら、こういうとき、笑ってやり過ごす。笑顔で感情を隠す。けれど今日は、口の端が上がらなかった。
俺は、欲しいものを、何でも手に入れる。
それが、勇斗のやり方だった。何かを欲しがり、手を伸ばし、手に入れる。そのために、ヴェルディエに通った。
あの人は、逆だった。欲しいものを、全部、人に差し出した。
二人を、守るために。二人には、言わずに。
この事実は、使える。
また、そう思った。今度は、思ったあとで、乾いた笑いが少しだけ出た。
使える。舜太に告げれば、二人の信頼は揺らぐ。ヴェルディエに報告すれば、売り手のCOOの虚偽の説明を突く材料になる。価格交渉で優位に立てる。部長は喜ぶだろう。
でも。
使わない。使えない。使いたくない。
部長への報告も、まだしない。今夜はしない。
この人の隠しごとを、暴きたかった。全部、知りたかった。それは事実だ。今、その全部を知った。
けれど、知ったあとに残ったものは、満足ではなかった。
聞きたかった。
この人の口から。
自分が、二年前、何をしたのか。なぜ、一人で抱えたのか。そのことを、この人は、今どう思っているのか。
資料ではなく。メモではなく。あの、まっすぐすぎる背中の内側から、出てくる声で。
勇斗は、空を見上げた。夕日が、ビルの向こうに沈もうとしていた。
明日、聞こうと思った。
暴くためではない。責めるためでもない。ただ、聞くために。
仕事だ、とはもう言わなかった。
コメント
1件
るりさん、第17話、読みました……。なんか、すごく苦しい回だった……。 仁人が二年前、無断で守ろうとしてたものの重さが、じわじわきたよ。自分の株も報酬も譲って、ブランド権を差し出す覚悟までして……しかもそれを「二人には言わない」って。ちゃんと裏切りでもあるのに、誰も得しないその選択が切なすぎる。 勇斗が「使わない」「聞きたい」って心を動かすところ、好きだな。資料じゃなくて、本人の口から聴きたいって思えたの、彼の中で何か変わったんだね。るりさんの筆がすごく丁寧で、感情が音もなく押し寄せてくる感じがしたよ……。次も大事に読みたい。