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22
にじ𐙚 ̊🎼
203
スタジオには、いつもの熱が満ちていた。
スピーカーから鳴るビートに床が細かく震えて、何度も踏み込まれたソールの跡が照明を鈍く反射している。鏡の前ではメンバーたちの汗が飛び、誰かの笑い声が重なり、途中で飛んだ振りの確認にまた別の誰かが笑う。デビューしてからも変わらない、いや、デビューしたからこそ少しずつ磨かれてきた日常だった。
休憩を挟んでも空気は途切れない。
カノンが冗談を投げれば、ゴイチが呆れた顔で拾って、アダムが短く的確な一言を差し込む。その横で、ルイはやわらかく笑っていた。
誰に向けても感じが良くて、距離の取り方がうまい。
疲れているはずなのに、それを見せない。
一つひとつの仕草が自然で、視線の置き方まで綺麗だった。
スタッフに話しかけられれば穏やかに応じ、後輩が近づけば優しく聞く。
歌の確認でワンフレーズ流しただけで、その場の空気が少しだけ変わる。
光の集まり方を知っている人間の立ち方だった。
タイキも、笑っていた。
笑って、踊って、返して、また笑った。
メンバーの中で一番空気を明るくする役目を、体に染みついたみたいにこなしていた。
息が上がっても、汗が額を伝っても、その笑顔は崩れない。
けれど、練習が終わりに向かう頃だった。
最後の立ち位置確認を終えて、タオルを首にかけたタイキが、背を向けたまま汗を拭う。
白いタオルに湿った髪が触れて、首筋を汗がつたった。
“……今日も家に帰ったら……”
心の中でだけ、そう思う。
その瞬間だった。
表情から、すっと色が引いた。
誰も気づかない。
気づかれないようにするのが、もう上手くなっていた。
タイキの視線の先には、ルイがいた。
また誰かに笑いかけている。
変わらない顔。
変わらない声。
変わらない日常。
喉がひとつ、上下する。
タオルを握る指先に、少しだけ力が入った。
俯いた横顔にだけ、曇りが落ちる。
ルイは笑っていた。
いつもと変わらない、日常の中で。
⸻
練習が終わると、みんなそれぞれの方向へ散っていった。
「おつかれー」
「また明日」
軽い声が夜にほどけていく。
タイキも手を上げて応じて、歩き出す。
スタジオの熱気を抜けた外の空気は少し冷たくて、火照った体にはちょうどよかった。車のライトが湿ったアスファルトに長く伸び、ビルの窓には夜の色が映っている。
人通りの多い歩道を、タイキはひとりで歩いた。
イヤホンはつけない。
何かを聴く気にもなれなかった。
ポケットの中でスマホが震える。
足が止まる。
画面を開く。
表示された名前を見た瞬間、息が浅くなった。
ルイ
『今日も来い』
それだけだった。
短い。
理由もない。
選ぶ余地もないみたいな文面。
タイキはしばらく画面を見たまま動かなかった。
唇を噛む。
信号の変わる音が、やけに遠く聞こえる。
断ろうと思えば、断れる。
そう思うたび、胸の奥が冷える。
指先は返信を打たないまま、画面を落とした。
そしてまた、歩き出した。
向かう先は、もう決まっていた。
⸻
ルイの部屋のチャイムが鳴る。
数秒置いて、玄関の向こうから足音が近づいた。
鍵の外れる音。
ドアが開く。
風呂上がりだった。
黒いルームウェアに、首にはまだタオルが掛かったまま。濡れた髪先から落ちる水気が、鎖骨のあたりをわずかに濃くしている。
ルイは何も言わず、目の前のタイキを見た。
タイキは少し俯いていた。
視線は上がらない。
ふたりの目は、合わない。
ルイが無言で壁側へ寄る。
それだけで、入れという意味になる。
タイキは靴を脱いで、静かに部屋へ入った。
後ろで玄関ドアが閉まる。
音は小さいのに、やけに重く響いた。
部屋の中は整っていた。
余計なものが少なくて、生活感はあるのに乱れていない。
照明は明るすぎず、食卓にはもう二人分の皿が並んでいた。湯気の立つ味噌汁。焼いた魚。簡単な副菜。白いご飯。
何度も見た景色だった。
ルイがキッチンのほうへ向かいながら、低く言う。
「……飯、食うぞ」
タイキはワンテンポ遅れて頷いた。
「あ、うん」
それだけ。
向かい合って座る。
いただきますも小さく、ほとんど息みたいにこぼれた。
食事は静かに始まった。
箸が茶碗に触れる音。
汁椀を置く音。
水の入ったグラスの表面を、指先がかすかになぞる音。
ルイは食べるのがきれいだった。
姿勢も、箸の持ち方も、飲み込む間の取り方も。
外で見せる印象と何ひとつ違わない。
穏やかで、丁寧で、隙がない。
その静かな視線だけが、ときどきタイキに刺さる。
タイキはなるべく顔を上げないようにしていた。
魚の身をほぐして、ご飯を口に運んで、味噌汁をすする。
ちゃんと美味しい。
ルイが作るご飯は、いつだってちゃんと美味しい。
それが余計に苦しかった。
優しさみたいな形をしている。
でも、タイキは知っている。
これは優しさだけではない。
沈黙の中で、ルイがグラスに手を伸ばす。
その指が長くて、節がきれいで、タイキは見てしまったことを少し後悔した。
すぐに視線を落とす。
食器の触れ合う小さな音だけが、部屋を包んでいた。
時計の針が進む音さえ、今日は聞こえそうだった。
ルイは何も言わない。
急かしもしない。
責めもしない。
そのかわり、ただそこにいる。
逃げ道を塞ぐみたいに。
いつも通りの顔で。
誰に見せても問題のない穏やかさをまとったまま。
タイキは箸を置くタイミングを少しだけ迷った。
早すぎてもだめな気がして、遅すぎても意味がない気がした。
けれど結局、食べ終わりは来る。
「……ごちそうさま」
小さく言う。
ルイも少し遅れて箸を置いた。
皿の上に揃えられた箸が、やけにまっすぐだった。
「ん」
それだけ返ってくる。
また沈黙。
タイキの指先が、膝の上でそっと握られる。
自分でも気づかないうちに、肩に力が入っていた。
ルイが立ち上がる。
食器をひとつ持ち上げる動作すら静かで、無駄がない。
流しへ向かう背中を、タイキは見ないようにしたのに、視界の端で追ってしまう。
水道の水が流れた。
さらさらと、一定の音。
その背中に向かって、タイキは何も言えない。
帰りたい、と思う。
帰りたくない、と思う。
どっちも本当で、どっちも半端だった。
やがて水音が止まり、ルイが振り返る。
濡れた前髪の影が、目元を少し暗くしていた。
「……タイキ」
名前を呼ばれただけで、胸が強く縮む。
タイキはゆっくり顔を上げた。
ルイは笑っていなかった。
スタジオで見せていた、あの柔らかい顔ではない。
感情を隠した、静かな目だった。
「食ったなら、こっち来い」
低い声。
それだけ。
タイキの喉が、またひとつ上下する。
返事は、すぐには出なかった。
⸻
「洗い物、する」
タイキは食べ終えた皿を重ねて立ち上がった。
向かいに座っていたルイは止めない。
ただ、静かにその背中を見ていた。
キッチンに立って、水を出す。
蛇口から流れる音がやけに大きい。
スポンジに洗剤を含ませて、皿の縁をこする。
手はいつも通り動いているのに、背中には視線が刺さったままだった。
ルイはキッチンの入り口で、カウンターに肘をついている。
何も言わない。
何も言わずに、ただタイキを見ている。
タイキも、何も言わなかった。
カチャ、という皿の触れる音。
水の流れる音。
それだけが部屋に響く。
不意に、気配が動いた。
タイキは一瞬だけ横目でそれを確認する。
それだけで肩に力が入った。
次の瞬間、背中に腕が回る。
「……まだ、洗い物……」
声が少し震えた。
自分でもそれがわかって、タイキは唇を結ぶ。
ルイは答えない。
ただ後ろから、首筋に口づけた。
湿った呼吸が触れて、タイキの肩がびくりと跳ねる。
「ちょっ……」
小さく身をよじる。
けれど逃げようとした腕は、そのまま掴まれた。
強くではない。
でも、振りほどけないくらいには確かに。
顎に指がかかる。
顔を無理やり後ろへ向けられて、視線がぶつかった。
ルイの目は、笑っていなかった。
「今日、話してたスタッフの男」
低い声だった。
「あれ、いつも?」
タイキは眉を寄せた。
すぐ近くにあるルイの顔は、スタジオで見せる柔らかさとはまるで違う。
「……仕事だろ」
返した声は冷たかった。
自分を守るみたいに。
ルイの目が細くなる。
「仕事で、あんなに触らせんのか」
タイキは視線を逸らした。
流し台に落ちる水滴を見たまま、何も言わない。
言い返したところで、意味がない。
そんなことは、もう何度も思い知っていた。
背後の体温が離れない。
腕も、視線も、声も。
「お前、そんなんしてまで」
ルイがわずかに口元を歪める。
「みんなに好かれたいわけ?」
その言い方が、タイキは嫌いだった。
何も知らないくせに、全部見抜いたみたいな顔をするから。
自分だけは違う場所にいるみたいに、余裕ぶって見下ろしてくるから。
タイキはゆっくりと目だけを戻した。
「……別に」
そう返した声は、思ったより掠れていた。
ルイはそれを聞いて、ほんの少しだけ笑う。
温度のない笑いだった。
そのまま顔を寄せてきて、唇が重なる。
優しくはない。
確かめるみたいでも、愛しむみたいでもない。
ただ自分のものだと示すためだけの、押しつけるようなキスだった。
タイキは目を閉じない。
閉じたら終わる気がして、閉じられなかった。
けれど、抵抗もしない。
腕を掴まれたまま、ただそこに立っていた。
それが終わると、ルイは何も言わずにタイキを引いた。
リビングの方へ。
ソファへ。
そこから先は、いつもと同じだった。
キスも、触れ方も、優しくない。
かといって、愛がないと割り切れるほど単純でもない。
ルイの中にある苛立ちや独占欲や、名前のつかない感情だけが一方的に向けられて、タイキはそれを黙って受け止める。
ルイが満足すれば終わる。
それだけの時間。
冷たい関係だ、と思う。
ちゃんと傷つくくせに。
ちゃんと苦しいくせに。
それでも呼ばれれば来てしまう自分がいる。
本気で抵抗したことは、一度もなかった。
できなかったのか。
しなかったのか。
その違いを、タイキはもう考えないようにしていた。
ルイの指が離れたあと、部屋はまた静かになる。
食卓には洗いかけの皿。
流しにはまだ水滴が残っている。
さっきまで、いつも通りの夜だったはずなのに。
タイキはソファの端で浅く息をしながら、ぼんやり天井を見た。
スタジオで笑っていたルイの顔が、頭から離れない。
誰にでも優しくて、穏やかで、隙がなくて。
みんなが知ってるルイは、あっちだ。
じゃあ今、自分の前にいるこの男は何なんだろう、と時々思う。
思うのに。
答えが欲しいとは、なぜか思えなかった。
ルイはひとしきり自分の欲をぶつけ終えると、何も言わずにタイキから離れた。
ソファの背にもたれ、長い息をひとつ吐く。
タイキはそのまま、しばらく動けなかった。
胸だけがまだ浅く上下している。
視線は天井に向いたまま、焦点が合っていない。
部屋は静かだった。
エアコンの低い音と、どこか遠くを走る車の気配だけが、夜を途切れさせずにいる。
優しい声は、かからない。
「大丈夫?」とも聞かれない。
抱き寄せられることもなければ、髪を撫でられることもない。
甘い言葉なんて、最初から期待していない。
この時間が終わったあとは、いつも同じだった。
タイキはゆっくり息を整える。
乱れた服を引き寄せて、袖を通す。
少しだけずれた裾を直して、ソファの下に落ちていた上着を拾う。
床に置いていたリュックを肩に掛ける頃には、もう表情は消えていた。
「……帰る」
短く、それだけ言う。
ルイは返事をしない。
聞こえていないわけじゃない。
ただ、何も返さない。
タイキも、それ以上は何も言わなかった。
玄関へ向かう足音。
靴を履く音。
ドアノブが静かに下がる。
そして、ぱたりと閉まる玄関の音だけが、部屋の中に小さく残った。
ルイはソファに座ったまま動かない。
視線だけが、ぼんやりと天井を仰いでいる。
さっきまであれほど熱を持っていたはずの部屋が、急に広く感じた。
テーブルの上には飲みかけのグラス。
キッチンには途中まで片づけられた食器。
タイキが立っていた場所にだけ、まだ薄く気配が残っている気がした。
ルイは目を閉じるでもなく、ただ天井を見ていた。
いつもそうだ。
引き止めない。
優しくもしない。
自分から呼んでおいて、最後には何も渡さない。
それなのに、玄関が閉まる音を聞くたびに、胸の奥だけが少しずつ削れていく。
自業自得だとわかっていた。
こんなやり方しかできない自分が、いちばん最低だということも。
けれど今さら、何をどう変えればいいのかもわからない。
喉がわずかに動く。
名前を呼ぶ代わりみたいに、息だけが漏れた。
もういない相手に向かって。
ルイの顔には、感情を消しきれなかった名残があった。
苦しいとも違う。
後悔とも、少し違う。
ただ確かに、切なかった。
ルイの家を出て、しばらくは何も考えずに歩いていた。
夜の空気は少し冷えていて、火照った頬に触れるたびにひりつく。
さっきまで室内にいたせいか、外の匂いがやけに生っぽく感じた。アスファルトの湿った匂いと、どこかの店から流れてくる油の匂いと、遠くを走る車の排気。
交差点をひとつ過ぎる。
コンビニの前を通る。
信号待ちの人の横を抜ける。
ちゃんと歩いている。
ちゃんと前に進んでいる。
なのに、どこにも向かえていない気がした。
ルイの家から少し離れたところで、ふいに足が止まる。
自分で止まろうと思ったわけじゃなかった。
ただ、もうこれ以上は無理だと身体が勝手に決めたみたいに、ぴたりと動かなくなった。
街灯の下だった。
白っぽい光がアスファルトに落ちていて、タイキの影が細く伸びる。
肩で息をするほどじゃない。
でも呼吸がうまく深くならない。
胸の真ん中あたりに薄い板みたいなものが挟まっていて、それが息をするたび少しずつ痛んだ。
タイキはリュックの紐を握ったまま、俯いた。
手が、少し震えていた。
寒いからなのか。
違うことくらい、わかっていた。
唇を噛む。
けれど、痛みで何かが紛れるほど簡単じゃない。
さっきまでのことが、頭の中で途切れ途切れに戻ってくる。
背中に回った腕。
低い声。
冷たい目。
押しつけられた唇。
名前を呼ばれるたびに、身体の奥が勝手に固くなる感じ。
思い出したくないのに、消えてくれない。
タイキはゆっくり息を吐いた。
白くはならない。
もう春なのに、身体の内側だけ冬みたいだった。
なんで、また行ったんだろう。
何回も思ったことを、また思う。
断れたはずだ。
今日は疲れたとか、明日早いとか、適当な理由はいくらでもつけられた。
既読をつけないまま家に帰ることだって、本当はできた。
できたはずなのに。
『今日も来い』
たったそれだけの言葉で、足が向いてしまう。
腹が立つ。
自分に、いちばん腹が立つ。
タイキはその場で顔を上げた。
ビルの窓に映る自分が目に入る。
帽子も被っていない、マスクもしていない。
見慣れたはずの自分の顔が、なんだかひどく遠かった。
スタジオでは笑えていた。
ちゃんと楽しかった。
カノンの冗談に吹き出して、ゴイチの返しにまた笑って、アダムの一言に空気が締まって、ルイはいつも通り優しく笑っていた。
あの時間は嘘じゃない。
自分だってちゃんと笑ってた。
なのに夜になると、全部別の顔を見せるみたいに世界が変わる。
ルイのことを思い出す。
テレビでも、現場でも、誰に対しても感じが良くて、空気が読めて、声をかけられればちゃんと返して、近づきすぎず遠すぎず、人の懐に入るのがうまい。
歌えば一瞬で空気を持っていくし、笑えばみんなが見る。
そういう人だ。
タイキも知ってる。
誰より知ってる。
そのくせ、自分に向けられる目だけは、あんなに静かで、あんなに狭い。
好きとか嫌いとか、そういう言葉で片づけられない。
もっと面倒で、もっと息苦しいものだった。
街の向こうで、救急車のサイレンが鳴る。
それが近づいて、離れていく。
タイキはそれを聞きながら、ふっと笑いそうになった。
笑えるようなことなんか、何もないのに。
「……なにやってんだろ、俺」
声に出すと、思ったより小さかった。
すぐに夜の音に混ざって消える。
泣きたいわけじゃない。
泣くほどでもない、と思いたい。
大げさにしたくない。
被害者みたいに考えるのも嫌だった。
だって本気で拒んでないのは、自分だ。
ドアを開けて、部屋に入って、向かい合って飯を食って、呼ばれたら動く。
毎回そうしてるのは自分で、最後に「帰る」って言うのも自分だ。
誰のせいにもできないように、自分でしてる。
なのに、苦しい。
その矛盾が、いちばんしんどかった。
タイキはポケットからスマホを取り出した。
画面は暗いままだ。
開く気にもなれない。
でもそこに、まだルイのメッセージが残っていることはわかっていた。
『今日も来い』
たった一行。
優しさも説明もない。
なのに、自分の一日を終わらせるには十分すぎる言葉。
親指で画面の端をなぞる。
開かない。
開いたらまた何か来る気がして、怖かった。
少しだけ、後ろを振り返りたくなる。
今から戻ったらどうなるんだろう、と、ほんの一瞬だけ考える。
戻って、玄関をもう一度鳴らして、ルイがドアを開けて、何かひとつでもまともな言葉を言ってくれたら。
ごめんでも、違うでも、なんでもいい。
せめてあの目の意味を説明してくれたら。
そこまで考えて、タイキは小さく首を振った。
ない。
そんなこと、あるわけない。
ルイはきっと、今ごろもういつもの顔に戻ってる。
ソファに座って、天井を見てるか、スマホを見てるか、何もなかったみたいに水でも飲んでる。
明日スタジオで会えば、たぶん普通に「おはよ」って言う。
あの優しい声で。
誰にもわからない顔で。
それがいちばん、嫌だった。
嫌なのに。
その「おはよ」に少しだけ救われる自分がいることも、タイキは知っていた。
喉がつまる。
うまく息を吸えなくて、タイキは一度、強く目を閉じた。
目の奥が熱くなる。
でも涙は落ちなかった。
泣けたら、少しはましだったのかもしれない。
けれど実際には、何も出てこない。
ただ胸の奥に、言葉にならない重さが沈んでいくだけだった。
タイキはもう一度、ゆっくり息を吐く。
そして、乱れた前髪をかき上げた。
帰らなきゃ。
誰に言うでもなく、心の中でそう呟く。
帰って、シャワーを浴びて、明日の準備をして、寝る。
朝になったらまたスタジオに行って、笑って、踊って、歌う。
みんなの前ではいつも通りでいる。
何もなかったみたいに。
それはもう、決まっている。
足はまだ少し重かった。
けれどタイキは、ようやく一歩だけ前に出た。
アスファルトを踏む音が、やけに乾いて聞こえる。
二歩、三歩。
歩き出せば、身体はまた勝手に進んでいく。
夜の街は何も知らない顔で明るかった。
コンビニの自動ドアが開く音。
自転車のブレーキ。
遠くで笑う誰かの声。
その全部から置いていかれている気がしながら、タイキは歩く。
ルイの家から離れていく。
離れているはずなのに、首筋にも、手首にも、胸の奥にも、まだ残っている。
消えないまま。
抱えたまま。
それでも歩くしかなかった。
タイキは前を向いたまま、もう振り返らなかった。
玄関の閉まる音が、まだ耳の奥に残っていた。
ルイはソファに身体を預けたまま、しばらく動かなかった。
視線は天井に向いているのに、何も見ていない。
部屋の中は静かで、静かすぎて、さっきまでここにもう一人いた気配だけが妙に濃く残っている。
テーブルの上のグラス。
中途半端に片づいた食器。
キッチンの流しに残る水滴。
タイキがいた跡ばかりが目につく。
ルイは浅く息を吐いた。
喉が乾いているのに、水を飲む気にもなれない。
身体の熱はもう引き始めているのに、胸の奥だけが妙にざらついていた。
まただ、と思う。
呼びつけて。
来させて。
目の前に立たせて。
自分の好きなように触れて。
なのに最後には、何も言えない。
引き止めもしない。
優しくもできない。
本当は言いたいことなんて、ひとつも口に出せないくせに、どうでもいい嫉妬だけは抑えられない。
今日、スタジオでタイキの横にいたスタッフの顔が浮かぶ。
肩に触れていた手。
距離の近い笑い方。
タイキが仕事の顔でそれに返していたことも、全部わかっている。
わかっているのに、腹が立った。
自分でも呆れるくらい、くだらない。
仕事だ。
そんなこと、最初からわかっている。
タイキが誰にでも愛想を振りまいているわけじゃないことも、ちゃんと見ていればわかる。
あいつはただ、あいつのやり方で、ちゃんと周りを明るくして、空気を回して、責任を果たしているだけだ。
誰よりも真面目で、誰よりも無防備で。
だから、放っておけない。
そこまで考えて、ルイは眉を寄せた。
放っておけない、なんて。
そんな綺麗な言葉で済む感情じゃない。
自分が抱いているのは、もっと狭くて、もっと醜いものだった。
誰にも向けない顔を、自分には向けてほしい。
誰にも見せない弱さを、自分の前でだけ落としてほしい。
笑わなくていい。
優しくしなくていい。
好かれなくてもいい。
ただ、自分の前でだけは、他の誰にも向けないものを置いてほしい。
それを望んでいる時点で、もうまともじゃない。
ルイは片手で顔を覆った。
指先が額にかかる。
閉じた瞼の裏に、さっきのタイキの顔が浮かぶ。
何も言わない顔。
抵抗しない顔。
冷たく見返してきた目。
そして最後には、何かを諦めたみたいに静かになる顔。
あの顔を見るたび、胸の奥がきしむ。
嫌なら来なければいい。
本当にそう思うなら、突き放せばいい。
もう終わりだと、そう言えばいい。
なのにタイキは来る。
呼べば、来る。
押し返さない。
何も言わないまま、最後には「帰る」とだけ言って出ていく。
その背中を見るたびに、少し安心して、同じくらい自分が嫌になる。
ルイは目を開けた。
天井の白さが、妙に冷たい。
「……好きにさせてんのは、どっちだよ」
ぽつりと落ちた声は、思ったより低かった。
責めるみたいな言い方になったくせに、向いている先は最初からひとつしかない。
タイキじゃない。
自分だ。
好きにしているのは自分のくせに。
好きにさせてもらっている立場みたいな顔をして、勝手に傷ついて、勝手に苦しくなっている。
タイキが本気で拒まないことに、どこかで甘えている。
あいつの優しさにも、曖昧さにも、逃げきらない弱さにも。
全部わかっていて、そこに手をかけている。
最低だと思う。
けれど同時に、タイキだってわかっているはずだ、とも思ってしまう。
あのメッセージの意味を。
自分がどんな顔でドアを開けるかを。
部屋に入ったあと、何が起こるかを。
わかっていて来る。
その事実だけが、ルイを余計におかしくさせる。
期待してしまうからだ。
もしかしたら。
少しは。
自分だけが一方的なわけじゃないんじゃないかと。
そんなふうに考える資格なんてないのに。
ルイはゆっくりと首を回して、さっきまでタイキが座っていた場所を見る。
そこにはもう誰もいない。
熱も、声も、表情も、全部もうない。
残っているのは、自分がぶつけたものの後味だけだった。
優しくしたいわけじゃない。
違う。
優しくしたら壊れる気がする。
今の距離が変わる気がする。
タイキが本当に離れていく気がする。
だから、できない。
優しくしたら、もっと欲しくなる。
欲しくなったら、たぶん終わる。
ルイは小さく笑った。
自嘲みたいな、乾いた笑いだった。
遅いんだよな、と思う。
とっくに終わってる。
まともな線なんて、もうとっくに越えてる。
それでも、どうしても手放せない。
スタジオで笑うタイキ。
誰かの言葉でころころ表情を変えるタイキ。
必死に食らいついて、誰よりまっすぐ前を見てるタイキ。
その全部を見ていると、眩しくて、腹が立って、どうしようもなく目が離せなくなる。
好きだ、と思う。
こんな言い方しかできないくせに。
こんな触れ方しかできないくせに。
結局それが、いちばんみっともない。
ルイはソファに深く沈み込んだ。
喉の奥が詰まる。
でも、誰もいない部屋で名前を呼ぶほど素直にはなれなかった。
明日になればまた会う。
たぶん何事もなかったみたいに、お互い普通の顔をする。
自分はいつも通り笑うし、タイキもたぶん笑う。
そうやってまた、何もなかったことにする。
その繰り返しの先に何があるのか、ルイにはもうわからなかった。
ただひとつだけはっきりしている。
タイキがいなくなった部屋は、思っていたよりずっと広い。
その広さが、痛かった。
コメント
2件
ひー😭大人な内容も大好きです✨
うわっ…読んだ読んだ…!😭💦 この第2話、めちゃくちゃ重くて苦しくて、でも目が離せなかった…。 スタジオでみんなの前で笑ってるタイキと、ルイの部屋で黙ってすべてを受け入れてしまうタイキのギャップが辛すぎる…。「今日も来い」のたった一言で動いちゃうところとか、断れるはずなのに断れない心情がリアルで胸がギュッてなった。 しかもルイ、外面はあんなに穏やかで優しいのに、タイキにだけは独占地獄で冷たくて…その温度差がもうエモすぎて叫びたくなったわ😭💔 最後の歩き出すシーン、何も解決してないのに前を向くしかない感じがリアルで、続きが気になって仕方ない…!次話も絶対読むからね、Emma&Geneさん!🔥💕