テラーノベル
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翌日のスタジオは、いつも通りだった。朝の空気は少し乾いていて、開けたばかりのスタジオには床用ワックスと機材の熱が混ざった匂いが薄く残っている。
スピーカーの電源が入る音。
スタッフが資料を揃える音。
誰かの「おはようございます」に、別の誰かが重ねる声。
何ひとつ、昨日と変わらない。
タイキは少し早めに入った。
キャップを深めに被って、ペットボトルの水を片手に持ったまま、鏡の前で軽く首を回す。
寝不足ではない。
眠れなかったわけでもない。
ちゃんとシャワーを浴びて、ちゃんとベッドに入って、ちゃんと朝起きてここへ来た。
それでも身体のどこかに、昨夜の名残みたいな重さが沈んでいた。
ストレッチをしながら、タイキは鏡越しに入り口の方を見ないようにしていた。
見たところで何も変わらない。
わかっている。
「おはよー」
先に入ってきたカノンが明るい声を投げる。
タイキはすぐに顔を上げて笑った。
「おはよ。今日早いじゃん」
「そっちもね」
いつも通りだ。
声も、返しも、テンポも。
カノンは特に違和感を持たなかったみたいに荷物を置いて、すぐに別の話題を振ってくる。
その何気なさに、タイキは少しだけ救われた。
ゴイチが来て、アダムも来る。
空気が少しずつ出来上がっていく。
誰かが音源を流して、誰かが昨日の振りの確認を口にする。
いつもの朝だ。
そして最後に、ルイが入ってきた。
「おはよう」
柔らかい声だった。
それだけで、タイキの指先がわずかに止まる。
ルイはいつも通りだった。
黒のラフなトップスにキャップ、肩にかけたバッグを自然な動作で下ろしながら、近くにいたスタッフにも穏やかに会釈をする。
目が合えば笑う。
誰に対しても感じがいい。
近づきすぎず、でも冷たくもない。
その場にいる全員が安心して受け取れる温度で、ちゃんと“ルイ”をしている。
完璧だった。
昨日の夜、タイキの顎を掴んだ男と同じ人間だなんて、たぶん誰も思わない。
「おはよ、ルイ」
カノンが先に返す。
ゴイチも短く手を上げて、アダムが「おはよう」と落ち着いた声で続ける。
タイキも、返さなきゃいけない。
「……おはよ」
ちゃんと普通の声で言えた、と思った。
けれど最後の音だけ、少しだけ軽く掠れた。
ルイの視線が一瞬だけこっちを捉える。
ただそれだけで、タイキは無意識にペットボトルを持ち直した。
視線を合わせる前に、ほんの少しだけ逸らす。
本当に、少しだけ。
誰にも気づかれない程度。
でも、自分にはわかるくらいには確かだった。
ルイは何も言わない。
いつものように笑って、近くのスタッフに「今日の流れ、先に確認してもいいですか」と穏やかに声をかける。
その横顔には、昨夜の影なんて一つもなかった。
タイキは喉の奥がかすかに詰まるのを感じた。
腹が立つ。
何事もなかったみたいな顔をしていることに。
それができてしまうことに。
そして、そんなルイを見て少しだけほっとしてしまう自分にも。
「タイキ?」
不意にアダムの声が飛んでくる。
「ん?」
「首、まだ固い?」
鏡の前で止まっていた手元を見られていたらしい。
タイキは一瞬だけ間を置いてから、すぐに笑った。
「あー、ちょっと。昨日変な寝方したかも」
「珍しいね」とカノンが横から笑う。
「タイキ、寝相良さそうなのに」
「いや、わかんないじゃん。俺、自分の寝てるとこ見たことないし」
そう返すと、カノンが吹き出した。
ゴイチも「そりゃそうだろ」と呆れた顔をして、空気が少し緩む。
その会話の端で、ルイが小さく笑った。
ごく自然な笑い方だった。
誰が見ても、ただ会話に乗っただけの軽い反応。
なのにタイキは、その声にだけ敏感に反応してしまう。
耳が熱くなる。
嫌になるくらい、身体が勝手だった。
練習が始まる。
立ち位置について、音が流れて、各々が一気に仕事の顔に切り替わる。
リズムを取る音。
床を踏む音。
息を吸う音。
デビュー後の現場に慣れた彼らの動きは、もう最初の頃みたいなぎこちなさがない。
それぞれが自分の役割を理解していて、全体の見え方も知っている。
ルイは、やっぱり完璧だった。
一つひとつの振りが無駄なく綺麗で、抜くところと魅せるところの切り替えが鮮やかだ。
歌の確認で軽く声を乗せただけなのに、空気がその一瞬だけ彼に引っ張られる。
スタッフが見ている前でも、ルイはきちんと期待以上のものを返してくる。
「今のルイくん、すごくいいですね」
モニター前にいたスタッフがそう言うと、ルイは汗を軽く拭きながら笑った。
「ありがとうございます。もう一回やったら、もう少し揃えられると思います」
言い方まで綺麗だった。
タイキは自分の立ち位置に戻りながら、その声を聞いていた。
何度も聞いてきた声なのに、今日は妙に遠く感じる。
「タイキ、さっきのサビ終わり、もうちょい左かな」
スタッフに呼ばれて、タイキはすぐに返事をした。
「はい、わかりました」
身体を向ける。
確認する。
笑う。
ちゃんとやる。
それなのに、移動の途中でルイとすれ違いそうになった瞬間だけ、足が一瞬詰まりそうになった。
ほんのわずかだ。
本当に、コンマ何秒。
ルイは気づいたはずだった。
距離の取り方が、不自然じゃない程度に少しだけ大きいこと。
タイキが真正面から視線を合わせないこと。
笑っていても、どこかひとつ薄い膜があること。
でもルイは、それにも触れない。
「ごめん」
立ち位置を入れ替わるとき、ルイは自然にそう言った。
肩が触れそうなくらい近くで、いつもの穏やかな声で。
タイキは反射みたいに首を振る。
「ううん」
短い返事。
それだけ。
目は合わせない。
ルイは一瞬だけ黙った。
たぶん、タイキが避けたことをちゃんと受け取っている。
でも次の瞬間にはもう、何事もなかったみたいに前を向いていた。
音がまた流れる。
鏡の中、並んだ五人の姿は綺麗だった。
誰が見ても順調で、息が合っていて、いいチームに見えるだろう。
タイキもそう見えるように立っていた。
笑うところでは笑って、抜くところでは抜いて、決めるところではちゃんと決める。
それが自分の仕事だとわかっているから。
けれど曲が止まり、小休止になったときだった。
スタッフが別件でルイを呼ぶ。
ルイは「はい」と返してそちらへ向かう。
その後ろ姿を、タイキは無意識に目で追ってしまった。
追ってから、はっとして水を飲むふりをした。
冷たい水が喉を落ちていく。
でも胸の奥のざらつきは消えない。
避けたい。
これ以上、近づきたくない。
ちゃんとそう思ってる。
なのに目では探してしまう。
そのどうしようもなさに、タイキは小さく息を吐いた。
「タイキ、大丈夫?」
今度はゴイチだった。
タオルを肩にかけたまま、まっすぐこっちを見ている。
「え、なにが?」
「いや、ちょっとぼーっとしてた」
タイキは一瞬だけ間を置いて、それからすぐに笑った。
「ごめん、昨日ちょい寝不足かも」
「珍し」
カノンがまた口を挟んでくる。
「タイキって、寝不足でも元気そうなのに」
「ひど。俺だって人間なんだけど」
そう言うと、みんなが少し笑う。
その輪の中に、自分もちゃんと入れる。
それがありがたいのに、少しだけ苦しかった。
視界の端で、スタッフと話し終えたルイが戻ってくる。
また、いつもの顔だ。
整った笑み。
柔らかい目元。
気遣いのある声。
表のルイ。
タイキは今度こそ目を合わせないようにして、タオルで首元を拭った。
その動作は自然だったはずなのに、心臓だけが不自然に早かった。
ルイは何も言わない。
何も言わずに、定位置に戻る。
そしてまた、何事もなかったみたいに隣に立つ。
それが、たまらなく息苦しかった。
ルイが笑うたび、少しだけ昔を思い出す。
スタジオの鏡越しに見えた横顔。
スタッフに向ける、やわらかい声。
誰に対しても角がなくて、穏やかで、ちゃんと感じがいいあの笑い方。
あれを見ると、タイキはいつも少しだけわからなくなる。
どっちが本当なんだろう、じゃない。
たぶんどっちも本当だ。
昔から、ルイはこうやって笑えていた。
⸻
高校三年、同じ教室だった。
朝のホームルーム前、まだ半分眠そうな空気の中で、ルイは窓際の席で頬杖をついていた。
眠そうなのに顔は整っていて、前髪の隙間から見える目元に、女子がちらちら視線をやる。
でも本人はそんなことまるで気にしてなくて、タイキが「おはよ」って声をかけると、少し遅れて顔を上げて笑う。
「おはよ。今日、一限なんだっけ」
「英語。最悪」
「昨日やっとけよ」
「やったし。やったけど、わかんないんだって」
「それはやってないのと一緒」
「ひど」
そんな、他愛もないやり取りで朝が始まった。
トレーニーとして一緒に過ごす時間も、オーディションの期間も、学校にいる時間も、気づけばルイはずっと隣にいた。
昼休み、購買のパンを分け合って。
空き時間、机をくっつけて課題をやって。
ダンスの振りを確認して、歌の録音を聴き返して、どっちが上手くできたとか、そんなことで本気で張り合って。
タイキが勝手に悔しがって、ルイが呆れた顔で笑って、それでも次の日にはまた同じように競い合う。
「お前、そこ音ずれてた」
「え、うそ。ルイの方が怪しかったし」
「いや、俺は合ってた」
「絶対うそ」
「じゃあ後で録る?」
「録る。負けないし」
そう言って睨むと、ルイがちょっと嬉しそうに笑う。
あの頃は、それが全部わかりやすかった。
ムキになるとことか。
負けず嫌いなとことか。
褒められてちょっと照れるとことか。
眠い日の顔とか。
疲れてるのに「大丈夫」って言うとことか。
今よりずっと、近かった。
オーディションの間もそうだった。
しんどい課題のあと、二人で階段に座ってスポドリを回し飲みしたこと。
本番前、タイキが落ち着かなくて足を揺らしてたら、ルイが「うるさい」って言いながら膝を軽く蹴ってきたこと。
結果が出るたび、一緒に喜んで、一緒に悔しがって、誰かの成長に焦って、それでも結局は二人で前を向いていたこと。
何にも縛られてなかった。
もちろん、現実はあった。
審査も、順位も、将来も、簡単じゃないことくらいわかってた。
それでもあの頃の二人には、まだ“余白”があった。
帰り道に寄り道して、コンビニの新作アイスで盛り上がる余白。
授業中、ノートの端にどうでもいい落書きをして笑う余白。
音楽の話をしてるはずが、いつの間にか全然関係ない話になってる余白。
ただ、親友として。
仲間として。
一番近い場所で、一緒に青春をやっていた。
タイキはあの時間が好きだった。
ルイの隣にいるのが、自然だった。
どこにいても、なんとなく最後はルイのところに戻る。
ルイもたぶん同じで、何かあると結局タイキを探していた。
そういう関係だった。
誰かに説明する必要もないくらい、当たり前に。
⸻
デビューが決まって。
そこから、少しずつ変わっていった。
最初は本当に、少しずつだったと思う。
忙しくなったから。
見るものが増えたから。
背負うものが重くなったから。
たぶん、それだけだ。
レッスンが増えて、取材が増えて、移動中も台本や資料を確認するようになって。
学校帰りにだらだら喋る時間なんてなくなって、コンビニに寄る余裕も減って、誰かと笑っていても、どこかで次の予定を考えてる自分がいた。
ルイも、変わった。
いや、変わったというより、隠していたものが見えるようになったのかもしれない。
前よりずっと、人前での振る舞いが上手くなった。
愛想がよくて、気が利いて、誰に見られても隙がない。
求められるルイを、ちゃんとやれるようになった。
歌も、表情も、立ち姿も、どんどん洗練されていった。
周りがルイを見る目も変わった。
「華がある」とか、「色気がすごい」とか、そんな声を耳にするたび、タイキまで少し誇らしかったのを覚えてる。
でもその頃から、ルイの視線が少しだけ変わった。
タイキが誰かと話している時。
スタッフと笑っている時。
他のメンバーとふざけている時。
ふとした瞬間に感じる目が、前よりずっと重くなった。
最初は気のせいだと思った。
疲れてるだけ。
余裕がないだけ。
こっちだってピリついてたし、ルイだけじゃない。
みんな少しずつ変わっていった。
デビューってそういうものなんだと、自分に言い聞かせていた。
現実は甘くない。
芸能界はもっと甘くない。
求められることに応えなきゃいけないし、期待を裏切れない。
結果を出さなきゃいけない。
忙しい中でも笑って、気を遣って、空気を読んで、ちゃんとしていなきゃいけない。
そういう日々が、俺たちを変えた。
それだけだ。
タイキは何度も心の中でそう繰り返した。
それだけだ、って。
ルイが夜に連絡してくるようになったのも。
二人きりの時だけ妙に静かになるのも。
タイキが他の誰かと近いと、少しだけ機嫌が悪くなるのも。
前みたいに軽口で済まない沈黙が増えたのも。
全部、きっと。
疲れていたからだ。
余裕がなかったから。
現実が重かったから。
俺たちはもう高校生じゃなかったから。
そう思っていないと、たぶんうまく立っていられなかった。
あの頃は楽しかった、と思う。
何にも縛られずに笑っていられた。
ただ一緒にいるだけでよかった。
音楽の話をして、夢の話をして、勝った負けたで本気になって、それでも最後には二人で笑えていた。
あの頃のルイを、タイキは今でもはっきり思い出せる。
教室で眠そうにしてた顔。
本番前、わざと軽い口調で緊張を誤魔化してた声。
悔しい時ほど余計に笑う癖。
タイキが落ち込んでると、遠回しにしか励ませない不器用さ。
全部、本物だった。
だから今でも、時々わからなくなる。
あの頃のルイは、どこに行ったんだろうって。
それとも最初から、全部同じだったんだろうか。
自分が見えていなかっただけで。
気づいていなかっただけで。
そこまで考えて、タイキは小さく首を振る。
違う。
そんなふうに考えるのは、ずるい。
変わったのはルイだけじゃない。
自分だって変わった。
環境も、立場も、世界の見え方も、全部変わった。
芸能界という現実と。
多忙な日々が。
俺たちを変えた。
それだけだ。
そう思った瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
納得したいだけの言葉だと、自分がいちばんわかっていたから。
⸻
「タイキ?」
誰かに呼ばれて、回想が切れる。
スタジオの空気が戻ってくる。
鏡。照明。汗の匂い。スタッフの声。
そして、少し離れた場所で誰かに笑いかけているルイの横顔。
昔と同じように、綺麗に笑う。
タイキは一瞬だけその横顔を見て、すぐに視線を逸らした。
あの頃は楽しかった。
その事実だけが、余計に今を苦しくする。
休憩に入ったスタジオは、少しだけ空気がゆるんでいた。
さっきまで鳴っていた音源が止まり、床を踏む足音も途切れる。
誰かがタオルで顔を拭いて、誰かが床に座り込んで水を飲む。
スタッフも次の確認に向けて少し散って、鏡張りの室内には束の間の雑談が戻ってきていた。
タイキは壁際に寄ってペットボトルの水を飲んでいた。
喉は乾いているのに、胸の奥に残るざらつきは消えない。
笑っていれば大丈夫。
いつも通りでいれば、誰にも何も気づかれない。
そう思っていた時だった。
「そういえばさ」
床に座ったカノンが、ふとタオルを首にかけたまま顔を上げる。
「ルイとタイキって高校一緒だったもんな」
その一言は、本当に何気なかった。
場を繋ぐみたいな。
ただの雑談の延長みたいな。
悪気も意図もない、軽い言葉。
でも、タイキの心臓はその瞬間、わずかに強く打った。
「あー、そうだったね」
ゴイチが思い出したように頷く。
アダムも壁にもたれたまま、静かに視線を向けてくる。
「いいな。そういうの」
カノンが笑う。
「高校から一緒って、もう普通に青春の共有財産じゃん」
タイキはペットボトルを持ったまま、小さく笑った。
「共有財産って言い方なんだよ」
「いや、だってそうじゃん。教室で会って、スタジオでも会って、オーディションでも一緒でしょ?」
「まあ……そうだけど」
口ではそう返しながら、タイキの中では別の時間が静かに開いていた。
春先の教室。
窓際の席に座るルイ。
昼休み、机をくっつけて食べたパン。
課題が終わってないって騒ぐ自分に、呆れながらノートを寄こしてきた手。
レッスン帰り、コンビニの前でどうでもいいことで笑い転げた夜。
そんなものが、一瞬で胸の奥に戻ってくる。
「どんな感じだったの?」
今度はゴイチだった。
興味本位の、でも自然な聞き方。
「高校の時のルイとタイキ」
「えー」
タイキは少しだけ肩をすくめた。
どう説明すればいいのか迷う。
“今みたいじゃなかった”
真っ先に浮かんだのは、その言葉だった。
でももちろん、それをそのまま口にはできない。
「普通に……」
言いかけて、タイキは少し笑った。
「普通に、ずっと一緒にいたかも」
その言葉は、自分で思ったより柔らかく出た。
少し離れた位置で、ルイがスタッフと話していた。
資料を片手に、穏やかに頷いている。
柔らかい笑み。
落ち着いた声。
誰が見ても“ちゃんとしてるルイ”だった。
その視線に気づいたみたいに、ルイがこちらを見る。
「何?」
自然な声だった。
少しも構えていない顔。
カノンがすぐに笑って言う。
「いや、ルイとタイキの高校時代の話してた」
「へえ」
ルイはそれだけ返して、スタッフに軽く会釈してからこっちへ歩いてくる。
歩き方まで落ち着いていて、タイキはそれだけで少しだけ息が詰まる。
「高校一緒だったんでしょ?」
ゴイチが言う。
「どんな感じだったのか気になって」
ルイはペットボトルのキャップを開けながら、ほんの少し考えるみたいに目を伏せた。
タイキはその横顔を見ていた。
ほんの少しでいい。
「よく一緒にいた」とか。
「タイキは昔からうるさかった」とか。
「勉強教えてやってた」とか。
なんでもいい。
昔がちゃんとここに繋がっているってわかるような、そんな一言がほしかった。
でも。
「別に、普通だよ」
ルイは軽く笑った。
その言い方は、あまりにもさらっとしていた。
角がなくて。
嘘っぽくもなくて。
ただ、すごく綺麗に整っていた。
タイキの指先が、ペットボトルの表面で止まる。
「スタジオでもいつも一緒だっただろ」
カノンが言う。
「それで同級生って、だいぶ濃くない?」
「まあ、期間は長かったけど」
ルイは肩をすくめる。
「昔の話だし」
昔の話。
たったそれだけの言葉なのに、タイキの胸の奥に小さく、でも確かに刺さった。
昔の話。
それはそうだ。
間違ってない。
高校のことなんて、今となっては過去でしかない。
みんなそうやって整理して大人になっていく。
そんなこと、わかってる。
でもタイキの中では、あの時間はそんなふうに軽く畳めるものじゃなかった。
「へえー」
カノンはまだ面白がるみたいに笑う。
「なんかもっとあるかと思った。高校のルイとか絶対モテてたでしょ」
「それはモテてたでしょ」
ゴイチもさらっと乗る。
「それは、そうでもない」
なんて冗談めかして言うルイにまたまたぁ〜と言うカノンがいつもの日常らしくて。
その苦笑の仕方まで、今のルイだった。
「タイキもずっとうるさかったんじゃない?」
カノンが茶化すと、ルイは小さく笑った。
「それは今と変わんないかも」
みんなが少し笑う。
タイキも、笑った。
笑わない方が変だから。
ここで空気を止める方が嫌だったから。
「ひど」
ちゃんといつも通りのテンポで返せた。
声も自然だったと思う。
でも胸の内側だけが、少しずつ冷えていく。
“同じクラスの同級生”
それだけ。
何にも間違ってない。
何にも嘘はない。
なのに、その言い方には、あの時間の熱も、近さも、特別さも、何ひとつ残っていなかった。
まるで最初から、その程度だったみたいに。
タイキは視線を落とした。
ペットボトルのラベルの端が、爪に当たる。
それを無意識にこすりながら、笑い声の中に紛れる。
「タイキさ、高校の頃も今と同じで太陽だったんじゃない?」
ゴイチのその言葉に、タイキは顔を上げた。
少しだけ救われるような、くすぐったいような言い方だった。
「いや、どうだろ」
「いや絶対そうでしょ」
カノンが言う。
「なんか想像つくもん。教室でもスタジオでもずっと明るいやつ」
「それは褒めすぎ」
「でも実際そうだったんじゃない?」
そう言ってカノンがルイを見る。
ほんの一瞬、空気が静かになった。
ルイは水を一口飲んでから、短く笑った。
「まあ……元気だったんじゃない」
それだけだった。
タイキはその言葉に、今度こそ何も言えなかった。
元気だった。
うるさかった。
同級生だった。
昔の話。
全部、正しい。
全部、軽い。
たぶんルイは、本当に軽く流しただけなんだろう。
変に掘られたくなかっただけかもしれない。
自分たちの過去を、みんなの前でわざわざ特別扱いするのが嫌だっただけかもしれない。
そう思おうとするのに。
タイキの中では、それが“切り離された”感じとして残った。
あの頃の俺たちを、今のルイはそんなふうに置けるんだ。
その事実が、想像以上に痛かった。
「はい、じゃあ五分後戻りでお願いします」
スタッフの声がかかる。
雑談の空気はそこで自然に切れた。
「はーい」
「了解です」
みんなが立ち上がって、軽く身体をほぐしたり、立ち位置の確認に戻ったりする。
さっきまでの会話は、もうその場の空気の中に溶けていた。
タイキも遅れて立ち上がる。
その時、すぐ横をルイが通った。
「タイキ」
低い声で、名前だけ呼ばれる。
反射みたいに肩が強張る。
でも振り向くと、ルイはもういつもの顔だった。
「次、サビ前の移動だけもう一回合わせよ」
仕事の声。
穏やかで、冷静で、何の揺れもない。
タイキは一瞬だけルイを見た。
昨夜の顔でもなく、さっき昔話を軽く流した顔でもなく、今ここで求められている“STARGLOWのルイ”の顔。
「……うん」
短く返す。
ルイはそれ以上何も言わず、先に定位置へ向かった。
タイキはその背中を見たまま、少しだけ立ち尽くした。
高校の頃。
教室で、自分にだけ向けていた笑い方。
オーディション前、緊張してるのを見抜いて「大丈夫でしょ」と低く言ってくれた声。
帰り道、音楽の話で言い合いになって、結局コンビニ前で笑って終わった夜。
あの頃の距離は、たしかにあった。
自分の中だけの勘違いじゃない。
ちゃんと、あったはずだ。
なのに今のルイは、それを簡単に“昔の話”にする。
タイキはゆっくり息を吸った。
うまく吸えた気がしない。
「タイキ?」
少し離れたところからアダムが呼ぶ。
「位置、こっち」
「……あ、うん」
タイキは我に返って、すぐにそっちへ向かった。
笑える。
動ける。
いつも通りできる。
でも胸の奥には、さっきの一言がそのまま残っていた。
昔の話だし。
それはたぶん、ルイにとっては本当にそれだけなんだろう。
そう思った瞬間、喉の奥がきゅっと狭くなる。
練習用の音源がまた流れ始める。
メンバーが位置につき、鏡の中で五人が並ぶ。
タイキもいつもの場所に立つ。
斜め前にはゴイチ。
隣にはカノン。
少し離れてアダム。
そして、視界の端にはルイ。
曲が始まる直前、ルイが一度だけこちらを見た。
ほんの一瞬。
何かを確かめるみたいな、静かな目だった。
でもタイキは、その視線を受け止められなかった。
すぐに逸らして、前を向く。
スタッフの「お願いします」で、曲が走り出す。
身体はちゃんと動く。
笑顔も作れる。
音にも乗れる。
なのに胸の奥のどこかだけ、まだ教室に置き去りのままだった。
休憩が明けると、スタジオはまた仕事の空気に戻った。
音源が流れ、立ち位置の確認が始まる。
さっきまでの昔話は、もう誰も引きずっていないみたいに、会話の熱だけを残して消えていた。
タイキも前を向く。
考えない。
考えたら動きが鈍る。
今は仕事だ。ちゃんとやる。それだけ。
「じゃあ次、サビ前からお願いします」
スタッフの声で音が走り出す。
タイキはカウントを取りながら身体を入れる。
足運び、上半身の角度、目線。
何度もやってきた流れなのに、今日は妙に身体が重い。
少しでも雑念が入ると、タイミングが半拍だけ遅れそうになる。
「ごめん、タイキくん、そこ一回止めていい?」
前方にいた男性スタッフが手を上げた。
音が止まる。
タイキはすぐに「はい」と返して、その場で向き直る。
「ここの入り、たぶん振り自体は合ってるんだけど、肩の角度がちょっともったいないかも」
スタッフはモニターを指しながら近づいてくる。
現場ではよくあることだった。
見え方の調整。ニュアンスの修正。距離感の確認。
別に珍しくもない。
「ここ、こう入るときに」
そう言って、スタッフの手がタイキの肩に軽く乗る。
「肩をもう少しだけ前じゃなくて、落とす感じで」
腕に触れられて、角度を直される。
二の腕を軽く押されて、肘の位置も修正される。
「で、このまま腕入ると綺麗」
「……あ、はい」
タイキは言われた通りに身体を動かした。
仕事だ。
ただの振り確認。
何でもない。
なのに、その瞬間だった。
背中の奥が、ひやりとする。
昨日の声が、何の前触れもなく蘇る。
仕事であんなにべたべた触らせんのか
息が、ほんの少しだけ浅くなる。
「タイキくん、ここ、腕の力ちょっと抜いていいかも」
スタッフは気づかないまま続ける。
「そうそう、その感じ。あ、でも今度は肩上がっちゃうから——」
もう一度、肩に手がかかる。
その感触に、タイキの指先がわずかに強張った。
鏡の向こうに視線が流れる。
そこに、ルイがいた。
少し離れた位置。
次の確認まで待機していたはずの場所で、ルイは何も言わずにこちらを見ていた。
表情は、いつも通りだった。
目立って険しいわけでもない。
不機嫌そうにも見えない。
ただ静かに、状況を見ているだけ。
それなのに。
タイキは、その目の奥だけが妙に冷えているのを知っていた。
「ルイくん、このサビ終わりの抜き方、あとで一回確認いい?」
別のスタッフに呼ばれても、ルイはすぐには返事をしなかった。
ほんの一拍遅れてから、やわらかく笑う。
「はい、大丈夫です」
声は穏やかだった。
どこにも棘なんてない。
誰が聞いても、いつものルイだ。
それが余計に、タイキの喉を締めつける。
「タイキくん、もう一回だけいい?」
男性スタッフが言う。
「ここ、俺が肩持つから、そのまま力抜いてみて」
「あ、はい」
そう返した瞬間、ルイが動いた。
音もなく近づいてきて、自然なタイミングで二人の間に入る。
顔にはいつもの感じのいい笑み。
目元も柔らかいまま。
「すみません」
ルイはまず、スタッフに向かって丁寧に言った。
「そこ、たぶん俺が一回一緒にやった方が早いです」
あまりに自然だった。
横取りというほど強くもない。
でも断る隙はないくらい、綺麗な入り方。
スタッフが「あ、ごめん、お願いしていい?」とすぐに引くのも無理はなかった。
「もちろんです」
ルイは軽く笑う。
「ありがとうございます。細かいとこ拾ってもらえるの、助かります」
言い方まで完璧だった。
感じがいい。
礼儀正しい。
現場受けする、信頼されるルイ。
誰も何もおかしいと思わない。
けれどタイキだけは、すぐ近くに来た気配で身体が固くなる。
ルイはタイキの前に立つと、まるで何事もないみたいに穏やかな声で言った。
「タイキ、ちょっとこっち向いて」
その言い方は優しい。
普段の確認と変わらない。
でもタイキには、逆らえない温度に聞こえた。
「……うん」
返事をすると、ルイの手が伸びてくる。
肩に触れる。
さっきスタッフが触ったのと、同じ場所。
ただ、その手つきはずっと静かで、ずっと慣れていた。
「ここ」
ルイは軽く肩を押さえたまま、もう片方の手でタイキの肘の位置を直す。
「力入りすぎ」
低い声だった。
他の人に聞こえてもおかしくない距離なのに、その一言だけ妙に近い。
タイキは息を止めそうになる。
ルイの指先が、肩から腕へと滑る。
位置を確認するみたいに。
必要な動作のはずなのに、昨日の記憶がそこに重なる。
「この角度で入って」
ルイは鏡越しにタイキを見る。
口元にはまだ薄い笑みがある。
「そう。そしたら綺麗に抜けるから」
タイキは言われた通り動く。
ちゃんとやるしかない。
ここで何か顔に出したら終わる。
「うん、いい」
ルイは満足したみたいに頷くと、そのままタイキの肩から手を離さない。
ほんの一秒。
本当に、ほんの一秒だけ。
でもその“余り”が、タイキには長すぎた。
「さすが」
男性スタッフが笑う。
「ルイくん、メンバーの見え方ほんとすぐ掴むよね」
ルイはそこで初めて手を離し、柔らかく笑った。
「いや、ずっと一緒にやってるんで」
その答え方はあくまで自然で、余裕があった。
感じがいい。
完璧だ。
なのに、最後の一言だけがタイキの胸に沈む。
ずっと一緒にやってるんで。
さっきは“昔の話”みたいに流したくせに。
こういう時だけ、当たり前みたいな顔で近づいてくる。
「ありがとう、助かった」
スタッフが言う。
「いえ」
ルイは穏やかに首を振る。
「こういうの、細かいところが結構大事なんで」
言いながら、ルイはまたタイキの方を見る。
本当に一瞬だった。
誰にも気づかれないくらい短い。
でもその目には、昨日の夜と同じものが確かにあった。
静かな独占欲。
感情を一滴も見せないまま、相手を囲うような目。
タイキの喉が、きゅっと縮む。
「じゃあもう一回いきましょうか」
ルイは何事もなかったみたいにそう言って、自分の位置へ戻っていく。
背筋はまっすぐで、歩き方も整っていて、表情も穏やかなまま。
完璧な“表のルイ”。
タイキはその背中を見たまま、すぐには動けなかった。
「タイキくん、大丈夫?」
さっきのスタッフが気づいて声をかける。
「ちょっと固くなってた?」
「あ、いえ」
タイキは我に返って、慌てて笑った。
「すみません。今の角度、ちゃんとわかりました」
「よかった。じゃ、その感じで」
「はい」
返事はできる。
笑える。
ちゃんと普通だ。
でも心臓だけが、まるで普通じゃなかった。
位置に戻る途中、カノンがさりげなくタイキの横を通る。
何も言わない。
でも一瞬だけ、ちら、と顔を見る。
気づいたのか、気づいてないのか、その境目みたいな視線だった。
アダムも鏡越しに一度だけルイを見る。
表情は変えない。
ゴイチはスタッフの話を聞きながら立ち位置を確認している。
誰も何も言わない。
その“言わなさ”が、余計に現場を仕事の顔に保っていた。
「お願いします」
音源がまた流れる。
タイキは定位置に立つ。
深く息を吸う。
肩の力を抜く。
さっきルイに触れられた場所が、まだ熱を持っている気がした。
カウントが入る。
動かなきゃ。
踊らなきゃ。
見せなきゃ。
前を向いたまま、タイキは腕を上げる。
視界の端で、ルイも同じタイミングで動き出す。
その横顔は、どこまでも綺麗だった。
誰にも何も見せないまま。
ただタイキだけが、さっきの穏やかな声の下にあったものを知っている。
仕事であんなにべたべた触らせんのか
昨日の言葉がもう一度、胸の奥で低く響く。
タイキはそのまま前を見た。
見たまま、踊る。
けれど胸の中では、昨夜と今日がひとつに繋がってしまっていた。
もう、何でもないふりだけでは追いつかないくらいに。
夜は静かだった。
タイキの部屋も、外の通りも、もう少し遅い時間になればもっと音が減るのだろうけど、今はまだどこかで車が走っていて、遠くの生活音が壁の向こうに薄く残っていた。
部屋の明かりはつけたまま。
シャワーはもう浴びた。
ドライヤーで乾かした髪も、少し時間が経って落ち着いてきている。
ベッドの端に腰を下ろしたまま、タイキはスマホを伏せていた。
何をしているわけでもない。
音楽を流す気にもなれない。
動画を見る気にもなれない。
明日のスケジュールは頭に入っているし、準備だってもう済んでいる。
なのに眠るには早すぎて、何かを考えるには胸の奥が重すぎた。
スタジオでのことが、頭から離れない。
昔話のこと。
ルイの「昔の話だし」という軽い声。
男性スタッフが肩に触れた時の、あの視線。
表の顔のまま、何事もないように間に入ってきたルイの手。
タイキは膝の上で指を組んだ。
少しだけ、力が入る。
あんなふうにされる筋合いなんてない。
そう思う。
仕事だ。
ただの振り確認だ。
誰が見てもおかしくない距離で、誰が見ても普通のやり取りだった。
なのに、ルイに見られると全部違う意味になる。
そうやって何でも自分の中に引き寄せて、何も言わないまま、夜になると“続き”みたいな顔で呼ぶ。
それが嫌だった。
嫌だと、ちゃんと思った。
胸の奥でその言葉が形になる。
じわじわと、逃げられないみたいに。
嫌だ。
その時、伏せていたスマホが震えた。
タイキの肩が、ぴくりと揺れる。
見なくてもわかった。
わかってしまうことに、まず腹が立つ。
数秒、手を伸ばせなかった。
震えは止まって、部屋はまた静かになる。
でもその静けさの中に、通知ひとつ分の重さだけが残る。
タイキはゆっくりスマホを裏返した。
画面が光る。
表示された名前を見た瞬間、喉が浅く鳴った。
ルイ
プレビューに見える短い文。
“来い”
それだけ。
やっぱり、と思う。
やっぱり今日も、説明もない。
昼間のことも、昔話のことも、何もなかったみたいに。
たったそれだけで、自分が動くと信じてる。
タイキはしばらく画面を見つめた。
既読はまだついていない。
通知のまま残っている。
指を乗せればすぐ開く。
その先も、たぶんいつも通りだ。
行ける。
行こうと思えば行ける。
いつもみたいに立ち上がって、上着を取って、靴を履いて、歩いて、呼び鈴を押して。
そうすればまた、あの部屋に入れる。
入れてしまう。
タイキは小さく息を吐いた。
吐いた息が少しだけ震えた。
行きたくない。
今度ははっきりそう思った。
その気持ちが浮かんだ瞬間、逆に怖くなる。
言ってしまったら、戻れない気がした。
今までみたいに曖昧なままではいられなくなる。
ルイがどう出るかわからない。
怒るかもしれない。
笑うかもしれない。
何も返してこないかもしれない。
でも。
このまま、また行ったら。
きっと自分はまた何も言えなくなる。
タイキは通知をタップした。
トーク画面が開く。
一番下にある最新のメッセージ。
短い二文字みたいな命令。
来い
既読がつく。
それだけで、胸がどくんと鳴った。
しばらく何も打てなかった。
カーソルだけが点滅している。
何て返せばいいのかわからない。
怒らせないように?
角が立たないように?
適当な言い訳をつけて、今日は無理だと誤魔化す?
違う。
今日はそれじゃだめだと、タイキは思った。
言い訳をしたら、きっとまた次が来る。
曖昧な返し方をしたら、また今度でいいみたいな顔をされる。
ちゃんと言わなきゃいけない。
指先が、少し震える。
画面にひとつずつ文字を打ち込んでいく。
“今日は行かない”
それだけ。
打ち終わった文を、タイキは見つめた。
短い。
冷たいかもしれない。
でも、これ以上削れない気がした。
これ以上足したら、自分の覚悟が薄まる気がした。
送信ボタンの上で、親指が止まる。
怖い。
送った瞬間、何かが変わる。
たぶん、確実に。
でももう、わかっていた。
変わらないままの方が苦しい。
タイキは息を止めて、送った。
小さな送信音。
それだけで、心臓が跳ねる。
画面の中に、自分のメッセージが並ぶ。
今日は行かない
初めてだった。
ルイに対して、はっきりとそう返したのは。
送った直後、手のひらにじわっと汗が滲む。
すぐに取り消したくなる衝動が喉元まで上がってきて、タイキは思わずスマホをベッドの上に投げるみたいに置いた。
呼吸が浅い。
やばい、と思う。
何がやばいのか自分でもわからない。
でも身体が、何か大きなものを越えたみたいに緊張していた。
画面を見ない。
見たらだめだ。
すぐ返事が来るかもしれない。
電話が来るかもしれない。
怒った文面が飛んでくるかもしれない。
見たくない。
でも気になる。
タイキは両手で顔を覆った。
そのまま深く息を吐く。
怖い。
怖いけど。
少しだけ、ほんの少しだけ。
胸の真ん中に空気が入った気もした。
ずっと締めつけられていた場所に、初めて細い隙間ができたみたいに。
⸻
その頃、ルイは自分の部屋にいた。
リビングの照明はいつも通り落ち着いた明るさで、ソファの前のローテーブルには飲みかけの水と、途中まで目を通していた資料が置いてある。
テレビはつけていない。
静かな部屋の中で、ルイはスマホを片手にソファへ浅く腰掛けていた。
もう送る時間は決まっているみたいなものだった。
何時ならタイキが帰っていて、何時ならシャワーを浴び終わっていて、何時ならまだ寝ていないか。
そんなこと、考えなくてもわかるくらいには染みついていた。
打つ文も同じだ。
余計なことは書かない。
説明もしない。
誘う言葉にもしない。
来い。
それで通じる。
通じてしまう。
今までずっとそうだった。
ルイは送ったあと、しばらく画面を見ていた。
既読がつくまでの、ほんの短い時間。
いつもなら、ここで大きくは揺れない。
少し待てば、動く。
それがもう半分、習慣みたいになっていた。
けれど今日は、既読がなかなかつかなかった。
ルイは無意識に画面を見直す。
送れていないわけではない。
表示はちゃんとある。
数分。
たったそれだけなのに、妙に長い。
タイキが風呂に入っているのかもしれない。
スマホを見ていないだけかもしれない。
そう考えようとして、なぜか落ち着かない。
昼間の、あの視線を思い出す。
スタジオで少しだけ避けられたこと。
昔話のあと、タイキの笑顔が薄くなったこと。
肩に触れられて、ほんの少しだけ固くなった身体。
ルイはスマホを持つ手に力を入れた。
その瞬間、既読がついた。
小さな表示ひとつ。
ただそれだけで、胸の奥がきゅっと締まる。
次の瞬間には、タイキの入力中の表示が出た。
ルイの視線が止まる。
返信が来る。
たぶん、いつも通り。
少し遅れるとか、先入っててとか、そんな一言かもしれない。
あるいは何も言わずに、しばらくしたらチャイムが鳴るか。
そう思った。
思ったのに。
表示されたメッセージは、見慣れたどれとも違った。
今日は行かない
ルイは、一瞬それを読めなかった。
意味はわかる。
言葉だって簡単だ。
短い。曖昧さもない。
なのに、頭のどこかが受け取るのを拒む。
もう一度、見る。
今日は行かない
見間違いじゃない。
打ち間違いでもない。
絵文字もない。
言い訳もない。
“今日は無理”でも、“また今度”でもなく。
行かない
ルイの呼吸が、止まりかける。
そのまま数秒、まったく動けなかった。
部屋が急に静かになる。
いや、最初から静かだったはずなのに、今初めてその静けさが耳につく。
ルイはゆっくりと背もたれから身体を起こした。
スマホを持つ手に力が入りすぎて、指先が白くなる。
タイキが拒否した。
初めて、はっきり。
頭の中でその事実が形になるまでに、わずかに時間がかかる。
今までなかった。
呼べば来た。
曖昧にでも、黙ってでも、最後には来た。
それが今日は来ない。
しかも、理由もつけずに。
自分に判断を委ねないまま。
たった一言で。
ルイの喉が動く。
苛立ちが先に来るかと思った。
「何で」とか、「今さら」とか、そういう感情が。
でも実際に胸の奥を突いたのは、もっと別のものだった。
足元が一段抜けるみたいな感覚。
今までそこにあると勝手に思っていたものが、急に自分の手の中になかったと気づくみたいな。
ルイはそのままスマホの画面を見つめた。
返信を打とうとして、親指が止まる。
何で
違う。
昼のこと気にしてる?
違う。
来い
もっと違う。
どの言葉も違う。
何を返しても、自分のほうが先に崩れる気がした。
タイキが“今日は行かない”と打つまで、どんな顔をしていたのか。
どれくらい迷ったのか。
それを考えた瞬間、胸の奥が冷たく軋む。
昼間のあの薄い拒絶は、気のせいじゃなかった。
昔話を流したこと。
スタッフに触れられているのを見たこと。
その全部が繋がって、この一言になったのかもしれない。
ルイは小さく息を吸った。
うまく入ってこない。
自分がしてきたことの重さを、初めて目の前に突きつけられた気がした。
今までタイキが来ていたから。
押し返さなかったから。
最後に何も言わず帰っていったから。
どこかで勝手に、まだ壊れていないと思っていた。
でも違った。
壊れていたのは、とっくに壊れていたのは、
たぶん自分の方だったのかもしれない。
ルイはその場に座ったまま、もう一度タイキのメッセージを見た。
今日は行かない
それは拒絶だった。
でも同時に、初めてタイキが自分の意思をそのままこちらに投げてきた言葉でもあった。
そこまで追い詰めていたんだ、と遅れて思う。
その事実が、じわじわと腹の底を冷やしていく。
ルイは返信画面を開いたまま、何も打てなかった。
怒る資格なんてない。
引き止める言葉もない。
優しく返すには、自分が何をしてきたか知りすぎている。
沈黙だけが、画面の向こうに伸びていく。
こんなこと、今まで一度もなかった。
ルイの世界は、ずっと自分が思っているより狭かったのだと、その時初めてわかった。
タイキが来ることを前提に、静かに成り立っていた。
タイキが拒まないことに、勝手に甘えていた。
その前提が、たった一行で崩れる。
今日は行かない
その一言だけで。
ルイはようやくスマホをテーブルに伏せた。
でもすぐにまた手に取る。
落ち着かない。
何もしていないのに、胸の奥だけがざわついている。
会いたい、と思った。
今すぐ。
声が聞きたい。
顔が見たい。
何で来ないのか聞きたい。
聞いて、どうするのかもわからないくせに。
そこで初めて、自分が思っていたよりずっと深い場所でタイキに依存していたのだと知る。
ルイは目を閉じた。
長く息を吐く。
吐いても、何も整わない。
タイキが初めて拒んだ夜。
それだけなのに。
部屋の広さが、いつもより何倍もある気がした。
⸻
ベッドの上で、タイキはまだスマホを見られずにいた。
返事が来るかもしれない。
来ないかもしれない。
どっちも怖かった。
でも、もう送ってしまった。
取り消さない。
誤魔化さない。
今夜は行かない。
その事実だけを胸の中で繰り返しながら、タイキはゆっくりと膝を抱えた。
怖い。
けれど、戻りたくはなかった。
そしてその頃、ルイもまた、同じくらい静かな部屋の中で初めて知っていた。
タイキが来ない夜が、こんなにも苦しいものだということを。
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あんにんどう腐(ゆ腐)
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さくら(皇千ト君最推し)
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コメント
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ああ、もう……読んでて胸がぎゅっとなりました。特に最後の「今日は行かない」と送るまでのタイキの震えと、その後のルイの静かなパニックが、本当に丁寧で切なかったです。 昔話を「普通だった」と軽く流すルイと、スタジオでは独占欲を見せるルイ。そのギャップがまた苦しくて。タイキが「避けたいのに目で探してしまう」っていう、身体が勝手に反応するところ、すごくリアルでした。ルイが初めて「タイキが来ない夜」を知る描写も、たまらなかったです。 続きが気になります。二人の関係、これからどうなっていくんだろう……。