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<前回までのあらすじ>
若井が疲労で倒れ、一晩元貴と過ごした藤澤は、二人が共依存関係だと気づく。
藤澤は、何とかして友だちである若井の目を覚まさせるため、作戦を立てた。その一つとして、 元貴と連絡先を交換することに成功する。
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あれから、元貴と藤澤は二人で出かけることが多くなった。初めは躊躇していた元貴も、だんだんと出かける時の表情が明るくなっていった。外に出るのも苦手だった元貴の大きな成長は、若井にとっても喜ばしいことだった。
そんなある日、リビングの隅にあるソファーに丸まって座る元貴が、何やらぶつぶつと呟いているのに気づく。
「ぅ、ぁあ…ぃ、うぁ……」
掠れた、湿った音。形を成さない母音の断片。
手に持ったスマートフォンを食い入るように見つめ、画面の中の誰かが教える「口の形」を、必死に模倣していた。自分の喉仏に指先を当て、微かな震えを確認し、何度も、何度も、喉の奥を絞るように音を出している。
「もーとき。何してるの」
トントンと肩を叩くと、振り返った元貴の瞳には、さっきまで画面に向けていた見たことの無い種類の熱量が宿っている。
「話す練習!」
元貴が嬉しそうに手を動かす。
その瞬間、胸の奥にどろりとした、正体不明の不快感が沸き上がった。
練習する理由となる矛先が自分ではないことに何となく勘づいてしまったからだ。その指先が、どこか誇らしげに弾んでいるのが気に食わない。
「……? 別に手話で話せるからいいじゃん」
モヤモヤしたものを感じていることに気づかれないように何でもない顔をして話す。
手話。それは自分と元貴だけの言語。二人だけで話すにはそれで十分なはずだ。
元貴がわざわざ苦しい思いをして、喉を震わせる必要なんて、どこにもない。
「ううん。涼架さんと、お喋りしたいから」
綴られた名前に、心臓が嫌な音を立てて脈打った。
予感が当たってしまった。
元貴が、自分以外の誰かと通じ合いたいと思うことは素晴らしいことのはずなのに、若井は言いようのない苛立ちを覚えた。
「……ふーん」
視線を逸らし、自分のスマートフォンを取り出す。画面を適当にスクロールするが、文字の意味なんて一つも入ってこない。
元貴は若井の沈黙を気にする様子もなく、また画面に集中し始めた。
「今日は、良い天気です」と話している秒数に動画のバーを戻し、タイミングを合わせる。
トントン、と腕を叩かれた。
「なに」
「おれの発音、合ってるか聞いて」
元貴は、キラキラとした期待に満ちた目で若井を見つめている。その瞳があまりに純粋で、若井は逃げ場を失った。スマートフォンを置き、ため息をついて元貴に向き合う。
元貴はごくりと唾を飲み込み、画面の口の形をなぞるように、ゆっくりと口を開いた。
「…ぃょう、あ、…いぃ、ぇん……んぃ、」
大きく口を開き、必死に声を出している。
だが、その音は、到底「言葉」と呼べるものではなかった。 ただの空気の漏れる音と、母音の塊。
「全然分かんない」
若井は、突き放すように手を動かした。
嘘ではない。事実、判別は不可能だ。けれど、その事実を伝える若井の心には、どこか冷酷な快感があった。
(どうせ練習しても意味ないって、)
そんな独りよがりな優越感が、若井の理性の下で鎌首をもたげている。
元貴の手が力なく動いた。
「……まだ終わってないよ、」
悲しげに眉を寄せ、視線を落とす。その萎れた姿を見て、一瞬だけ後悔がよぎる。けれど、口をついて出るのは、やはり彼を自分の囲いの中に引き戻すための言葉だった。
「ごめんごめん。でも文字起こししてくれるアプリあるしさ、いいじゃん喋れなくても。無理することないって」
「ううん。声で話せるようになりたいの。涼架さんと」
また、その名前だ。
元貴がその男の名前を出すたびに、若井の中の名の知れない怪物が、牙を剥く。
「…天気なんて、見ればわかるじゃん」
目を伏せ、投げやりにそう言うと、元貴の表情が曇る。
「そういう問題じゃなくて……え!? 若井、分かったの!? おれの言ったこと!」
途端に元貴の顔一面に笑みが広がり、ソファーの上で弾けるように喜ぶ。
「あ……」
苦虫を噛み潰したような顔になっているのが自分でも分かった。目を泳がす若井に乗っかる勢いではしゃぐ元貴。
「やった、通じた!良かった、これで……」
そう言う元貴の両手を、若井は力任せに抑え込んだ。
「違う元貴、聞いて」
無理やり自分の方を向かせる。元貴の肩が、その剣幕に小さく震えた。
「俺はいつも元貴の声を聞いてるから分かるの。俺だからわかるだけ。他の人はわかんないよ。涼ちゃんだって、わかるわけない」
言い聞かせるような、呪うような言葉。
元貴は、握られた自分の手を見つめたまま、凍りついたように動かなくなった。しかし諦めたくないと言いたげに拘束からパッと手を引き抜いた。
「聞いてるって言ったって、そんなに普段声で話してないじゃん」
「話してるよ。泣いてる時とかよく話してるじゃん。なんでか知らないけど」
「それはっ…喧嘩してる時は若井が手話見てくれないからだろ、っ!」
主旨とは異なる部分でヒートアップする元貴にヘラヘラとした笑みを浮かべる。
「ごめんね、そうだね。俺が見てないから悪いね、ごめんごめん」
若井は、元貴の頭を撫でた。
愛おしくてたまらない。自分だけが理解者であればいい。
その思いが隠しきれないほど滲み出る。そんな若井を元貴は怒りを顕に上目遣いで見つめた。
「触んなっ、」
「ねえ元貴」
体をよじって嫌がる元貴の身体を抱きしめる。
驚いて動きを止めたのをいいことに抱きしめたそのままの距離で話す。
「俺はね、元貴に無理してほしくないの。頑張って、ダメだったってなってほしくない 」
「………」
「最近ずっと落ち着いてるじゃん。わーってなっちゃったのってもうどれくらい前?って感じだし」
「…うん」
若井に迷惑をかけている自責の念があるのか、元貴は下唇を噛み締め、子犬のように頷く。
事実、癇癪を起こしたのはもう遠い記憶だった。夢に魘されることも減ったし、自殺未遂なんて、そんなこと元からしなかったんじゃないかというほど、落ち着いていた。そのきっかけが藤澤かもしれないなんてことは思いたくもない。
「元貴は、このままでいいんだよ」
「……でも、おれは、」
「もとき」
いつになく暗い目をした若井に元貴はもうそれ以上言えなかった。
「…わかった……」
元貴は力なく項垂れた。その瞳から光が消える。若井は満足して、彼をぎゅっと抱きしめた。腕の中で震える元貴の体温を感じながら、自分の心にあるこの濁った感情の正体に、まだ気づかないふりをしていた。
その夜。
静まり返った寝室に、元貴は一人ベッドの上に座り込んでいた。
若井がなぜこれほどまでに頑なな態度をとるのか分からない。ただ、リビングでのあの居心地の悪さだけは鮮明に覚えていた。
元貴はこびりつくような不安を振り払うように、若井が風呂に入っている隙を狙って、ベッドの上で一人、練習を再開した。しかし、耳が聞こえない彼にとって、自分の声の大きさを調整するのは至難の業だった。喉を震わせ、形を探るその響きが、廊下までどれほど鮮明に響いているのか、知る由もなかった。
「ぉ、ぉう、ぁ、…ぃう、…」
一生懸命に空気を形にしようとする元貴の背後から、不意に気配が忍び寄る。
何の前触れもなく肩を叩かれ、元貴は心臓が口から飛び出るほど激しく跳ねた。
「元貴」
振り返ると、湯気を纏った若井が冷めた瞳でこちらを見下ろしていた。
「ごめん、」
元貴は咄嗟に手を動かした。悪いことをしたわけではないはずなのに、反射的に謝罪の言葉が漏れる。若井は何も言わず、ベッドの端から這い上がるようにして隣に座った。その動作はどこか重苦しく、圧迫感を孕んでいる。
「…よっぽど話したいんだね。すごいね」
若井の唇はそう動くが、その眼差しには明らかな拒絶の色が混じっている。矛盾した言葉の刃に、元貴は言葉を失い、ただ深く俯いた。
「…上手くなって、若井とも話せるように頑張るから」
沈黙を埋めるように、元貴は静かに手話をした。自分を繋ぎ止めるための精一杯の献身。ふんわりと影が落ちたような、今にも消えてしまいそうな笑みを浮かべる。しかし、若井の言葉は、氷のように冷たく、容赦がなかった。
「……いいよ。俺とは別に」
元貴の顔から一瞬で血の気が引いていく。そのまま目を伏せ、何も言えず俯いた。
「…なんでそんなやる気なの」
追い打ちをかけるような若井の言葉に、元貴は顔を上げ訴えるように手を動かした。
「動画で、小さい子も上手に話せてた。おれも、ああいう風に話してみたい」
「そういう子は、小さい時から教えてもらってるんでしょ。元貴は違うじゃん」
若井の態度は驚くほど投げやりで、トゲトゲしい。いつもなら「頑張れ」と背中を押してくれるはずの若井が、今は何故か頑なに自分を否定している。その違和感に戸惑いながらも、元貴は食い下がった。
「……そんなに言うなら若井が教えてよ。口の動かし方とか。おれじゃ合ってるか分かんないもん」
「やだよめんどくさい」
突き放すような一言。元貴の胸の奥で、何かがパリンと音を立てて割れた。
「……いいよ、もう。そんなに言うなら」
沈黙が二人の間に横たわる。重苦しい空気が寝具を湿らせていくようだった。若井は視線を逸らしたまま、低く、探るように問いかける。
「……涼ちゃんに、喋れるようになってって言われたの?」
「そんなこと言われてない!」
元貴はムキになって返した。激しい手の動き。その過剰な反応に内心驚きを隠せなかった。
「じゃあなんで」
「……綺麗な声だねって、言われた」
その瞬間、若井の思考が停止する。
「電車に乗ってる時にね、凄い可愛いお家があったの。涼架さんがちょうど違うとこ向いてたから、すぐに気づいてほしくて、いつもの癖で声出しちゃって」
「……」
「やばいと思ってすぐ黙ったんだけど。そしたら涼架さんがおれの目を見たあとに『綺麗な声だね』って笑ったの」
若井の拳が、シーツを掴んで白く強張った。
「ほんと?って聞いたら、ほんとだよって言ってくれてさ。話す練習してみようかなって冗談ぽく言ったら、すごい応援してくれて」
「……ふーん」
「いい人だよね、涼架さん。若井と友だちな理由わかった」
「……まーね、」
若井は暗く目を伏せた。
足元を見つめ、スウェットの袖を何度もいじり回している。元貴は心配そうに若井の顔を覗き込んだ。
「だから……」
「そういうことなら、いいんじゃない」
若井は元貴の言葉を遮るように、素早い手話を返した。
「え」
「頑張って。応援してる」
それだけを言い残すと、若井はくるりと背を向け、逃げ出すように毛布を被って横になった。
「わかい、…?」
元貴が恐る恐るその肩を叩く。けれど、毛布の下の塊は微動だにしない。元貴は、手のひらに残った微かな熱量を持て余し、自分も静かに布団に潜り込んだ。
暗闇の中で、二人の呼吸だけが交わらずに浮いている。
若井は、毛布の中で自分の醜い独占欲と、名前のつかない焦燥感に、ただひたすら押し潰されていた。
自分自身の言葉の軽薄さに、反吐が出る。
元貴が藤澤の名前を出すたび、胸の奥では黒い泥のような感情が逆流していた。
元貴は、俺だけのものだったはずだ。
俺がいないと何もできず、俺の顔色を伺い、俺が差し出す手だけを命綱にして生きていた、あの弱くて愛おしい元貴。
藤澤の一言が、元貴の閉ざされていた世界に光を差し込ませ、彼を自分の手の届かない場所へ連れ出そうとしている。
元貴が「自立」しようとすればするほど、若井の心は歪んでいった。
彼が自分の足で歩けるようになることは、自分という杖が捨てられることを意味する。それが耐えられなかった。
隣で気まずそうに横たわっている元貴の気配を感じる。いつもなら、不安になればすぐに服の裾を掴んできた。パニックになれば、声を上げて助けを求めてきた。
それなのに今の元貴は、若井の拒絶に傷つきながらも、藤澤に言われた言葉を胸に、新しい未来を見ようとしている。
その「前向きさ」が、若井には裏切りのように思えてならない。
暗闇の中、若井はわざとらしく大きな溜息をついた。元貴に聞こえないことは分かっている。けれど、この苛立ちを、停滞した空気にぶつけずにはいられなかった。
元貴が少し動く。寝返りを打ったのか、あるいは若井の機嫌を伺っているのか。
若井は、枕に顔を埋めた。
(勝手にすればいい。どうせ、涼ちゃんなんかに伝わるわけないんだ)
そう呪いながら、若井は自分を安心させようとした。
でも、頭の片隅では分かっている。元貴がいつか本当に、誰の手も借りずに笑えるようになったとき。
その時、自分は元貴にとって、ただの「過去」になってしまうのではないか。
苛立ちと、嫉妬と、そして言いようのない寂しさが、若井の喉を強く締め上げる。
目を強く閉じた。
若井の心は、深い闇の底へと沈んでいった。
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長い間投稿できずすみません…!
期間が空いたのにも関わらず読んで下さり、ありがとうございます!!
そろそろラストスパートに向かいつつあるので、次の展開をお楽しみに…!
コメント
11件
若井さんが自分の独占欲で静かに闇に落ちていく、それに気づけない、気づかない元貴くん。藤澤さんも若井さんに何とか気づいてくれたら…とも思う。更新ありがとうございます!

待ってましたぁぁぁ!終わってほしくない気持ち…なんか、藤澤さんの事が分からんくなってきた…。自分に依存させようとしてるのか?うーん、分からん!今後が楽しみです!
嫉妬祭りやないかい! 感情の行き場が分かんなくて 焦ってる感じ書くの美味すぎる!