テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
520
31
168
#シクフォニ
ふきゃ
148
コメント
1件
うわ、めちゃくちゃ引き込まれました。設定の密度も、キャラの立ち方も、一話とは思えないほど丁寧で——特に「暇」と「碧海」の距離感と、組の空気に飲み込まれそうになる少年たちの孤独感が痛いほど伝わってきました。梅の花と血の匂いの対比がすごく印象的で、日常と非日常の境界に立つ二人の立ち位置が美しく描かれてる。碧海の「自分のすべてを知った時も手を取ってくれるのか」という問いが、もう既に読者に突き刺さってます。続きが気になる…!
暫く更新止まっていて申し訳ないです。
どうしても書きたい設定を思いついてしまったので。
一話一話もかなり長く、長編になるかと思いますが、
私の拙い文章にどうかお付き合いいただけると嬉しいです。
◆
梅の花が咲き始めた頃、紅瀬組の屋敷は珍しく騒がしかった。
まだ時計の針は十二時を回っていない。
にもかかわらず、大広間では既に酒が振る舞われ、組員たちは肩を組んでは笑い、盃を掲げては大声を張り上げている。
普段ならば張り詰めた空気が漂う屋敷も、この日ばかりは違った。
怒鳴り声さえ祝いの囃子のように響き、廊下を駆ける女中たちの足音すら慌ただしくも心地よい。
その中心で、休む間もなく指示を飛ばしている一人の女性がいた。
組長・紅瀬柊の妻、翠である。
「そのお膳は奥へ。⋯⋯そっちはまだ運ばないで。若がお見えになってからよ。」
女中たちは一斉にそれぞれの持ち場へ散っていく。
ようやく一息ついた翠のもとへ、赤ら顔の組員が酒瓶を抱えて歩み寄った。
「姐さん、悪ぃんだがもう一瓶──」
「駄目です。」
最後まで言わせることなく、翠はぴしゃりと言い切った。
「宴はまだ始まってもいないのですよ。」
「祝い酒ってやつでさぁ。」
「貴方たちは祝いを理由に飲みたいだけでしょう。」
図星を突かれた男は頭を掻き、大広間には笑いが起こる。
翠は呆れたように息を吐いた。
この騒がしさも、今日だけは悪くないと思った。
◇
屋敷の喧騒とは対照的に、奥座敷は静まり返っていた。
障子の向こうから吹き込む風が、畳の上を静かに撫でていく。
「若。」
襖越しに、控えめな声が響く。
「そろそろお時間です。」
返事はなかった。
しばらく待ってから、護衛である柚葉みことは静かに襖を開ける。
陽の差し込む縁側に、一人の青年が腰を下ろしていた。
紅瀬暇。
本日、十六歳の誕生日を迎える青年だった。この日のために仕立てられた緋色の袴を纏っているにもかかわらず、その横顔に浮かぶのは晴れやかな色ではなかった。
「……あいつは?」
短く問われ、みことは言葉を詰まらせた。
「若……。」
「……分かってる。」
暇は困ったように笑う。
みことは小さく目を伏せ、それ以上は何も言わない。
暇は縁側へ視線を戻した。
梅の枝が風に揺れる。
屋敷の中へ流れ込む風は酒と煙草の匂いを運び、その奥には消えきらない血の臭いがこびり付いていた。
暇は、その匂いが嫌いだった。
幼い頃から当たり前のように嗅いできたはずなのに、一度だって慣れたことはない。
人を傷付けることも、人に傷付けられることも、この世界では日常だった。
それを当然のように受け入れている大人たちのことが、暇にはどうしても理解できなかった。
跡取りだから。
若頭だから。
危険だから。
そう言われ続けて、自由に外を歩くことも、学校へ通うことも許されなかった。
組の仕事についても同じだった。
組の者たちが何をして生きているのか。
父が死んだ時のこと。
時折、血をつけて帰ってくる人たちが、どこへ行っているのか。
聞こうとすれば、周りの者たちは決まって笑う。
――若は心配しなくていい。
その一言で話は終わる。
だから暇も、それ以上は聞かなかった。
知ってしまえば、きっと今までと同じではいられなくなる。
そんな気がしていた。
それでも鼻にこびり付くあの臭いだけは、何も知らないふりを許してはくれない。
この屋敷が綺麗な場所ではないことくらい、幼い頃から分かっていた。
大人たちは言い聞かせるように口を揃える。
「若のためです。」
その優しさが、時折ひどく息苦しかった。
「若。」
再びみことが口を開く。
「皆様、お待ちです。」
暇は小さく頷いたものの、立ち上がろうとはしなかった。
みことは何も言わない。
暇が宴を好まないことは、幼い頃から知っていた。
大勢に囲まれ、笑顔を求められ、期待を背負う。
それは祝いの席であると同時に、若頭としての務めでもある。
だからせめて、その前くらいは。
みことは暇の少し後ろへ控えた。
護衛とは、命を守るだけが役目ではない。
こうして何も言わず傍にいることも、自分の務めだと思っていた。
春を乗せた冷たい風が、二人の間を静かに吹き抜けていった。
◇
屋敷から少し離れた路地裏には、春の気配はなかった。
アスファルトには黒ずんだ血が広がり、鉄錆の臭いが冷えた空気に溶け込んでいる。
誰も近寄らない裏路地は、今日もまた静まり返っていた。
「……汚ぇ。」
足元を見下ろし、杜若いるまは短く吐き捨てた。
視線の先には、返り血を浴びた一人の青年が立っている。
肩で息をすることもなく、ただ静かに俯いていた。
スーツの袖口から一滴、二滴と血が滴る。
「少し派手にやり過ぎたな。」
苦笑混じりに呟きながら近付くと、いるまは青年の袖を掴んだ。
袖口についた血を乱暴に拭う。
乾き始めたそれは、思うようには落ちなかった。
「……すみません。」
青年は申し訳なさそうに目を伏せる。
「少し、苛立っていて。」
いるまは鼻で笑った。
「少し、で済むか。」
その頭へ無造作に手を置く。
子どもをあやすような手つきだった。
「怪我は。」
「ありません。」
「そうか。」
短い返事に頷き、煙草へ火を点ける。
紫煙がゆっくりと立ち上った。
黙って煙を吐き出してから、いるまは青年へ目を向ける。
「後は俺がやっとく。」
「ですが……」
「大事な日なんだろ。」
その一言で、青年の動きが止まった。
視線だけがゆっくりと上がる。
どこか迷うような、躊躇うような目。
いるまは煙草を咥え直す。
「急げ。」
その言葉に、青年は小さく笑った。
ようやく年相応の表情だった。
「……ありがとうございます。」
深く頭を下げる。
踵を返そうとした背中へ、いるまは思い出したように声を掛けた。
「おい。」
青年が振り返る。
「その格好で行くな。」
返り血に染まったスーツを顎で示す。
「若は何も言わねぇだろうが、周りが黙っちゃいねぇ。」
「……そうですね。」
分かっている。
それでも急ぎたかった。
今日という日だけは、一分でも早く屋敷へ帰りたかった。
いるまはそんな青年を横目に、小さく息を吐く。
若が笑う日は決まっている。
あの青年が屋敷へ戻る日だ。
だからといって、それを歓迎する者ばかりではない。
若頭と、汚れ仕事を請け負う組員。
あまりにも不釣り合いだと陰で囁く者は少なくなかった。
――若に近付き過ぎだ。
――身の程を弁えろ。
そんな言葉を、青年は何度も浴びてきた。
それでも暇は呼ぶ。
青年もまた、その声に応え続けた。
九年。
それだけの歳月が、二人の間には流れていた。
「……行ってきます。」
小さく頭を下げ、青年は駆け出す。
その背中を見送りながら、いるまは静かに煙を吐き出した。
「ったく。」
呆れたような声とは裏腹に、その目はどこか穏やかだった。
青年は一度も振り返らない。
振り返る余裕など、きっとなかった。
◇
宴が始まる頃には、屋敷はすっかり熱気に包まれていた。
祝いの盃が交わされ、あちこちで笑い声が弾む。
親戚団体である朱雀組の者たちも席に着き、大広間は普段以上の賑わいを見せていた。
上座には組長・柊が静かに腰を据え、その傍らでは翠が女中たちへ絶えず指示を飛ばしている。
誰もが忙しなく動いていた。
ただ一人を除いて。
暇は広間を抜け出し、再び縁側へ腰を下ろしていた。
障子越しに漏れる笑い声は、どこか遠い。
庭に目を向けると、梅の花が風に揺れていた。
穏やかな景色だった。
この屋敷で、唯一好きな景色でもある。
「若。」
背後から聞こえた声に振り返る。
みことだった。
「皆様がお探しです。」
「……もう少し。」
それだけ言って、暇は庭から目を離さない。
みことは小さく息を吐く。
叱ることも、急かすこともしなかった。
若がここで誰を待っているのか、知っていたからだ。
だからこそ、複雑だった。
あの青年が暇にとって大切な存在であることは、誰の目にも明らかだった。
幼い頃、遊び相手になったのも。
父を亡くして塞ぎ込んでいた若を、何度も庭へ連れ出したのも。
笑わなくなった彼を、もう一度笑わせたのも。
すべて、あの青年だった。
だからといって、その関係を歓迎する者はいない。
血を浴びる役目を負っているあの青年は、暇が肩を並べるには、あまりにも危うい存在だった。
それでも。
若は気にしなかった。
いや、気付いていないのかもしれない。
自分がどれほどあの青年を特別扱いしているのか。
その時だった。
庭の向こうに、一つの人影が現れる。
門をくぐり、息を切らしながら屋敷へ駆けてくる。
暇はゆっくりと立ち上がった。
その目だけが、先ほどまでとはまるで違っていた。
草履を履くことも忘れ、縁側から庭へ降りる。
青年もまた、足を速めた。
互いの距離が縮まる。
あと数歩というところで、青年は立ち止まった。
返り血は洗い流してきたのだろう。
それでも、微かな血の匂いが風に混じる。
「ただいま戻りました、若。」
穏やかな声だった。
その一言を聞いた途端、暇は緊張の解けたように駆け寄った。
あと一歩のところで、足が止まる。
その距離を埋めたのは、青年だった。
暇は堪えるように、その胸へ額を預ける。
「おかえり。」
たった一言。
それだけで十分だった。
青年――碧海すちは、小さく目を細める。
宙へ浮いていた両手は、やがて恐る恐る暇の背へ添えられた。
「お誕生日、おめでとうございます。」
暇は何も答えない。
答える代わりに、もう一度だけ強く抱き締めた。
ようやく帰ってきた。
そんな安堵だけが、その腕に込められていた。
「……血の臭いがする。」
胸元に顔を埋めたまま、暇がぽつりと呟く。
すちは困ったように笑った。
「急いで戻ってきたものですから。」
それ以上は聞かない。
聞けば、この穏やかな時間が壊れてしまう気がした。
「若。」
みことが静かに声を掛ける。
暇は名残惜しそうに身体を離した。
その手は自然と、すちの袖を掴む。
「一緒に行こう。」
子どもの頃から変わらない癖だった。
すちは小さく笑い、「はい」とだけ返した。
二人が並んで広間へ入ると、一瞬だけ賑やかな空気が止まる。
すぐに笑い声は戻る。
けれど、その奥に向けられる視線まで消えたわけではなかった。
若頭はまた、あの青年を連れている。
誰かが小さく目を逸らす。
誰かが苦々しく盃を傾ける。
それでもすちは何事もないように笑う。
自分へ向けられる視線には、もう慣れていた。
暇だけは、変わらないでいてほしかった。
それだけでよかった。
十分だった。
――もし。
いつか若が、自分のすべてを知ってしまったなら。
その時も、この手を取ってくれるのだろうか。
答えを求めることすら、許されない気がした。
隣では、暇が穏やかに笑っている。
その笑顔だけは、何に代えても失いたくなかった。
梅の花びらが、二人の間へ静かに舞い落ちた。