焔が揺れていた。焼け焦げた大地に、なお這うように残っていた敵は、もはや骸のようだった。
それでも、確かな殺意だけが残っていた。
双方疲弊した身体、決着がつくのはもうすぐだった。
「神官、下がれ!」
勇者の叫びと同時に、敵の腕が神官めがけて闇から伸びた。
ありえない速度。もう間に合わない。
だが――勇者の身体が、神官の前に躍り出た。
「……っ!」
次の瞬間、何かが砕ける音がした。
黒い光が勇者の胸元を貫き、呪詛のような呻き声がした。
世界が止まったようだった。
神官は、呆然と立ち尽くす。
目の前で、勇者が膝をつく。
「……だ、大丈夫、お前は……無事か……?」
かろうじて残っていた敵の身体が崩れ、黒い靄のようなものが勇者に纏わりついていく。
勇者の肌が青白くなり、指先がゆっくりと黒ずんでいく。
瞳の輝きが曇り、歯の間から短く苦痛の息が漏れる。
「あ、やだ……これ……なに、これ……!」
神官が震える。
目の前で、少しずつ“人間”でなくなっていく勇者。人を救けるために修行をしてきたというのに。今までの成果を出すのはこのときじゃないのか。しかし、身体は目の前の光景を拒否するかのように動かない。
勇者は神官の顔を見つめ口を動かす。
「――おまえが、生きててよかった…… それだけで、……もう、いい……んだ……」
。」
神官の顔から、血の気が引いた。
「……なんで……どうして……ぼくなんかのために……!」
神官の声は震え、涙が頬を伝った。
勇者の変異は止まらない。
皮膚はひび割れ、黒い血が指先から流れていた。苦悶の表情を見せる勇者。
それでも、勇者は最後の力で神官の手を取った。
「……ずっと、おまえが好きだった。
こういう言い方、柄じゃないけど……
……光の中で笑うお前が好きだった」
その声はかすかで、それでも、何よりも確かな告白であった。
神官は嗚咽を漏らしながら、勇者の身体を抱きしめた。
次の瞬間、彼の身体がぴくりと痙攣し、勇者の目から光が消えた
神官はその身体を、まるで崩れものを抱きとめるように、強く、強く抱きしめた。
「……おねがい…目を覚まして……。置いて行かないで……」
「おい、神官!もうすぐ洞窟が崩れちまう!早く来い!」
仲間の声が、現実を叩きつけてくる。
神官は顔を上げ、天井から落ちてくる岩塊と、響く崩落音に息をのむ。
迷ってはいけない。だが、動けなかった。
手放すことが、“終わり”のような気がした。
それでも、神官は震える指で勇者の頬に触れ、声にならない声で名前を呼んだ。
唇だけが、確かにその名を形づくっていた。
だが、声は――涙に溶けて、出なかった。
「……ごめん、きみを……」
言いかけた言葉の続きを飲み込んで、神官は立ち上がる。
崩れかけた天井の隙間を走り抜け、仲間のもとへと向かっていく。
洞窟の出口が、遠く、眩しく、痛かった。
その背後に、取り残されたのは、すでに動かない勇者の身体だった。
誰もいない洞窟の奥で、瓦礫がぱらぱらと落ち、微かな風音が残響のように鳴る。
そして――
その沈黙の中で、わずかに“何か”が動いた。
勇者の、指先だった。
崩れ落ちた石の隙間に埋もれていた手が、かすかに痙攣するようにぴくりと動く。
やがて、その身体がゆっくりと起き上がる。
けれど、そこにはもう、彼を知る者がいた“勇者”の面影はなかった。
目は虚ろに開かれ、光を映していない。
顔に浮かぶのは感情でも意思でもなく、ただ“何か”を探すような微かな焦点の揺れ。
その瞳が、洞窟の天井を越えて、遠く――太陽のある方角へと向けられた。
ぐらり、と身体が立ち上がる。
まるで生まれたての獣のようにぎこちなく、だが確実に、足が前へと踏み出した。
引きずるように動く足音が、静かな洞窟の中に残響を作る。
その音に応じるように、崩落の音がさらに深く、重く響いた。
誰の声も届かない。
何者ももう、彼を“勇者”と呼ばない。
ただひとつ、彼を突き動かすのは――
遥か空に昇る、温もりの残像。
太陽の在り処。それだけだった。
そして、“それ”は歩き出した。
まだ誰も知らない、果てのない喪失の始まりだった。
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