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「さて、深奥の外に戻るわけですが」ユカリは明後日の方向を見ているエイカの焦げ茶色の瞳を覗き込む。「まだ周りが見えませんか? ……そうですか。まあ、見えなくても大丈夫だと思います。私が案内しますのでしっかりつかまってください」
ユカリはエイカの手を取って、そこでようやく気付く。レウモラク市は霧のように姿を消していた。一時、遥か彼方を繋いだ深奥の奇跡は、ほんの少し目を離した隙に途切れる、脆く儚い仕組みなのだ。ベルニージュも置いて来てしまったらしい。今頃、驚き、慌てふためき、寂しい思いをしているだろうか、とユカリは想像してみて、勿論そんなことはないだろう、と苦笑する。
レウモラク市とエイカの囚われていた夜との境目だった所には、動いたり消えたりするはずのない立派な門に変わっている。古い岩に入った亀裂のような幾何学模様の中に『珠玉に神秘あり』の標語が紛れ込んでいる鉄の格子はまさに腕の確かな職人による細工の施された宝石のようだ。その優美な門の向こうには深い轍の刻み込まれた道がなだらかに曲線を描いている。そしてずっと向こうには闇の中に珠玉の如く灯火の瞬く街も見えるが、やはりレウモラク市ではない。
ほんの一瞬ユカリは怯み、まるで吹き渡る風が水面を揺するようにその魂を微かに震動させるが、しかし慌てはしない。この夜闇に聳える巨大な館とてさっきまで影も形もなかったのだ。そしてエイカの蝶がここへと導いてくれた。蝶が彼方への扉を開く鍵なのだ。今度はベルニージュの蝶を探す。探すまでもなく見つかる。まるで初めからずっとそこにいたかのように、ユカリの視界の真ん中に陣取っていた。滾る真紅と輝く黄金の宝石細工の如き煌びやかな蝶が優雅にひらひらと舞っている。その向こうにベルニージュがいるはずだ。
ユカリがそっと蝶を手に包むと目の前の門が溶けるように消え去り、再び輝かしいレウモラク市の魂が現れ、ベルニージュはまるでその時を知っていたかのようにユカリを待ち受けていた。
「なるほどね。大体わかった。突然消えるからびっくりしたよ」ベルニージュはいつも通りの声色で冷静に分析する。「蝶はその人物の記憶であり、かつ関係性、縁のようなものなんだね。そしてその縁の強さ、関係性の距離がそのまま物理的な距離として繋がっている、深奥では。いや、ワタシたちが見えていなかっただけで宇宙はそうなっていたということか」
「あとは戻るだけだね、えっと、浅い方向に」ユカリはしっかりとエイカの手を握ったまま疲労の籠った溜息と共に呟いた。
「え? もう? まだ蝶についても実験したいんだけど」ベルニージュは眉根を寄せて当然の権利だとでも言うように不平を零す。
ベルニージュの姿は冬の篝火の炎のように明々と燃えているが、視覚的に見えないその表情がユカリには感じ取れてしまう。
「いつでも戻って来れるでしょ。そもそも浅い方向深い方向を移動するって具体的にはどうすればいいの? 想像するって話だったけど、そもそも知らない方向に移動する想像なんてできないよ。先にそれを解き明かさないと。ああ、いや、ごめん。私がいきなり深奥に飛び込むことに決めたんだったね」
「いいよ。ワタシもそのつもりだったし、結局事故みたいな形だったし。で、戻る方法だけど、ここに来た時に周りの風景を見出したように元のレウモラク市を想像すればいいんだと思う。でもそれはそれとして、もっといい方法をユカリが解き明かしちゃったじゃん。蝶をたどればいいんだよ」
「ああ、そっか。言われてみればそうだね。地上にいる誰かの蝶に頼ればいいんだ」
関係の深い人物に限られるが深奥を自由に使いこなせるようになれば世界は一変するのではないだろうか。いつでもどこにでも横たわる距離を飛び越えられるなら、魔導書探しもさぞ捗ることだろう。ユカリの気楽で楽天的な想像はエイカの言葉で途切れる。
「ねえ? 誰? 誰と話してるの? わたしが知ってる人?」エイカはきょろきょろと辺りを見渡しながら尋ねた。
「ベルニージュですよ。何度か会ってたと思いますけど」
「ああ、赤い髪の子? あ、ちょっと待って。こっちもぼんやり見えてきた。ラミスカの友達だよね?」
「そうです。この旅で私を一番助けてくれている友人です」
ベルニージュは何も言わず、態度にも出さないが照れていることがユカリには分かった。
「そうなんだ。そうなんだろうね。その旅に関しては私も色々と言いたいことがあるけど、まあ、それはそうとして」エイカはベルニージュの手を握る。「色々あったけど、改めて、いつもラミスカと仲良くしてくれてありがとうね」
ユカリにはその言葉が妙に癇に障った。間違っているとは言えなくとも、相応しくないように思えた。
「まるで母親みたいですね」と刺々しく呟いてユカリはエイカに冷ややかな眼差しを向ける。
「みたいじゃなくて母親なんだけど。クオルに聞いたんでしょ?」とエイカも食って掛かる。「そりゃ私だって自分が良い母親だとは思ってないけどね。良かろうが悪かろうが母親だよ」
積年のやりきれない思いが今更言葉になって溢れ出る。「義母さんに私をくれてやったんじゃないんですか? それでもあなたは母親なんですか?」
「はあ!? 誰かがそう言ったの? 私にはやるべきことがあったんだよ。母親だから、母親として、娘のために」
それまで冷静だったユカリも熱を帯び始める。
「私のために? 何をしてたんですか? 今まで」
本当はもっと冷静に話し合うべきだとユカリは考えていながらも、堰の崩れたように積年の思いが止め処なく零れ出てくる。
しかしエイカの方は何に気勢を削がれたのか、急速に勢いを失い、そっぽを向いた。
「それはまだ話せない」
ユカリは怒り半分驚き半分で声が跳ねる。「またそれ!? 義母さんもエイカも二人して!? 同じ目的を持ってるってことですね!? いったい何を隠してるんですか?」
「駄目。言ったら全部台無しになるかもしれないし。というかそのエイカって呼び捨てるのやめてくれない? 母さんでしょ」
とうとうユカリは激高する。
「いまさら母親ぶるのやめてよ! 死んだって聞かされていて、そんなことをした理由すら誰も教えてくれないのに!」
「死んだふりに関しては救済機構に戻れば、ラミスカの元に帰れない可能性があったからだよ。メヴュラツィエもクオルもいなくなったから何とか別人で通せたけど。親がいない辛さを娘に味わわせたくなかったから」
ユカリは怒りを抑える。しおらしいエイカの表情を見たからではない。奇しくも情報を引き出せたからだ。やはりクオルの実験、『禁忌の転生』に関わっている何かがエイカの目的なのだ。クオルへの復讐では終わらない何か。魔法少女の魔導書のことか、あるいは『禁忌の転生』の表向きの目的、生まれながらにして力ある子どもを作る魔術の開発に関することか。もしくは聖女アルメノンの語った『禁忌の転生』の本当の狙い、生き残りは唯一ユカリだけだという、特定の人物を生まれ変わらせる魔術だろうか。
「そういえば言ってませんでしたが」と静かに話しながらユカリはエイカを見守る。「エイカがあの暗闇に飲み込まれてから、まあ、今現在も飲み込まれている最中ですが、半年近くが経っています」
エイカは一瞬どういうことか分からなかった様子だが、事態に気づくと自身の腹を触る。
「今何ヶ月ですか?」とユカリは尋ねる。
「……その話が本当なら八ヶ月だね」
ほんの少しのはっきりとは分からないほどの丸みを帯びた腹をエイカは撫でる。
「そうは見えませんね」とユカリは他人事のように呟く。
「一体ここは何なの?」
「私にもベルにもまだ分からないことだらけです」
そう呟いて、ベルニージュの目の前でみっともない姿を見せてしまったことに気づき、ユカリは地の底より深く後悔する。頬に帯びた熱と感じる涼気に気を削がれる。もっと冷静でありたい、と心の中で呟く。
「いずれ分かるけどね」といつものベルニージュ節を利かせる。「それにこの深奥でワタシたちの肉体は魂の状態になっているわけだから、不変なのはそれほど意外でもないよ」
「でも私たちはここに来て色々と発見して会話して推測して、変化してない?」とユカリは指摘する。
「ワタシたちはね。エイカさんは今もまだ景色が見えてないでしょ? 何も感じられずにいたのなら魂にも変化は起きてないんじゃない?」
「そういえば呆けてたね」エイカにじろりと睨まれてユカリは睨み返す。「生きていたんだから良かったじゃないですか。これに懲りて無茶しないことです。結果論ですが深奥に飛び込まなくても赤ん坊が死ぬ心配はなかったわけですし」視界の端でベルニージュがにやにやと笑みを浮かべていることに気づき、ユカリはそれ以上の追撃をやめ、自分に火の粉が降りかかる前に撤退する。「さて、それじゃあ戻ろうか」
ユカリとベルニージュはエイカに人と人を繋ぐ蝶について説明する。理解できたのかどうか分からないぼんやりとした相槌を聞く。
ユカリはユカリを取り巻いて舞い踊る蝶に目を向ける。
「誰のところに行こうかな。レモニカにしようかな。お姫様っぽい蝶があるからきっとこれだね」
「お姫様っぽい蝶なんてないよ」とベルニージュが口を挟む。「これじゃない? ユカリを追いかけ回してる奴」
「私には私の蝶が見えないんだから分かんないよ。じゃあこの強そうな大きいのにしよう。きっとソラマリアさんだよね」
「レモニカを追いかけ回してる奴?」
どうやら蝶の見た目だけではなく振舞いまでもが各々の主観やその人物の印象に過ぎないらしい。
「じゃあ義母さんのにしよう。たぶんこれだよね。魔法使いっぽい幽玄な雰囲気」
「幽玄な雰囲気?」ベルニージュと今度はエイカも声を合わせる。
「絶対別人でしょ、それ」エイカの指摘は確信を抱いている。「口やかましい蝶がどこかに飛んでない? きっとそれだよ」
別に誰でも構わないのだが、エイカの蝶を見つけた時に比べて、ジニの蝶かどうか自信がないことにユカリ自身も気づく。血縁という関係性との差なのだろうか。
「ちなみにベルにはグリュエーの蝶がどう見えてる?」
「えーっと、これかな? なんか普通だね。普通の蝶が紛れ込んでるって感じ」
ユカリもほとんど同じ感想だった。灰色がかった緑色の翅には特別目立つ模様もなく、他にはこれといった特徴もない。あるいは魂を分割できる妖術師としての象徴的な何かが表れているのではないか、とも思ったが特には見出せない。
「それじゃあ、行くよ。二人とも私の腕を掴んで」
ユカリが両手にグリュエーを収めようとしたその時、地面で何かが這っていることに気づく。
それもやはり蝶らしい。ただし薔薇の花弁のように無数の翅が生えた異形だった。目玉の模様と目が合った瞬間、ユカリの意識が途切れる。