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急な事態の転換にグリュエーの頭の回転が後れを取る。
「ユカリさん!」とグリュエーが叫んだのはユカリが完全に深奥の暗闇へと吸い込まれた後だった。
「ベルニージュ! あの子を頼んだよ!」と叫んだのはユカリの義母ジニだ。
その名を呼んだ時には既にベルニージュもユカリを追って深奥に飛び込んでいた。
辺りを払う威厳に満ち、目を奪う神秘を纏った巨大な虎メーグレアが荘厳な衣を振り乱し、ベルニージュを追うように深奥の穴に飛び掛かるがその爪の届く前に異界へ繋がる闇は消え失せた。魔導書の解呪によって嵐は既に収まっており、風は鳴りを潜めているが聖獣の衣は生を得ているかのように一人でにはためいている。雪明かりの如く仄かに輝き、呼吸の拍で明滅している。どの瞬間も絵画の題材になるだろう美と己の矮小さを知らしめる恐怖の権現だ。
メーグレアは衣を纏った途端、ユカリだけを獲物と見定めたかのように襲い掛かった。グリュエーはその意味するところを考えるが、どれも推測の域を出ない。
この中でグリュエーほどクヴラフワに満ちた数多の呪いに詳しい者もいないが、そのような呪いについては聞き覚えがなかった。たとえば残留呪帯であればグリュエーの知らない呪いが溢れている。あの空間において呪いは混沌だ。呪いは呪い同士で影響を与え合い、変質している例も数多い。可能性は否定できないが、『ユカリ一人を執拗に攻撃させる呪い』が存在するとは思えない。
それとは別の異常にも気づく。嵐が解呪されたのにすぐそばにいる本体の元に未だに魂も記憶も戻ってきていない。焦りが冷や汗になって滲み出る。
考えてみれば、これはずっと自分が行ってきたことではないか。少量の魂を身代わりにして呪いから身を護る。身代わりになった魂が戻ってきたことはない。少なくとも呪われている間の記憶を得てはいない。解呪されたなら戻ってきて然るべきだが、しかし、事実、魂は戻ってきていない。ユカリと一年余りを旅したという記憶が蘇らない。
呪いから身を護る方法をグリュエーから聞いた時のユカリの表情が否応なしに思い浮かんでくる。心の底から相手を思いやり、心配する者の表情だった。今になってグリュエーは胸の締め付けられるような罪悪感を覚えた。ユカリはこういう事態を懸念していたのだ。
「さあ、あたしらで何とかするしかないよ!」
ジニの掛け声を受けてグリュエーははっと我に返り、ごちゃごちゃに散らばった想念を一つに纏めてメーグレアに集中する。
「いや、交戦する意思はなさそうだ」そう分析しつつもソラマリアは油断なく剣をしっかりと構えたままだ。「ユカリが戻ってくるのを待つつもりだろうか」
たしかにメーグレアは困惑した様子で鼻を鳴らし、深奥の闇のあった場所を嗅ぎながらぐるぐると回り、時折助けを求めるように低く小さく唸って空を見上げている。かといって緑の空が応えるわけでもない。メーグレアの思惑など知りようがないが、ユカリ以外には何の目的もないのかもしれない。その様子を見るに、どうしたものかと思い悩んでいるようだ。
「だとしてもあの子が戻って来た時に一呑みされないように何か対策を打っておかなきゃね」とジニは気合を入れる。
「檻の神殿に戻せたならそれが一番ですわ。元々そこで飼われていたそうですから」とレモニカが提案する。「しかし先ほどの跳躍程度ではあの柱を跳び越せませんわね」
「残念ながらあの檻には錠が下りてるんだ」とジニが説明する。グリュエーたちがレウモラク市にたどり着くまでにユカリとジニが聞き知ったことだ。「そしてその鍵をかけたのがメーグレア、をさっきまで操っていた呪い『爛れ爪の邪計』ってわけさ」
「一見、鍵など持っていないな。腹の中だろうか」
ソラマリアの言葉にグリュエーは念のために注意する。「お腹を裂いたりしないでね?」
「ああ、だがどのみち鍵を手に入れなければ檻の中の人々も助けられないのだろう?」
「ともかく」ジニは全員の視線を手繰り寄せる。「メーグレアを大人しくさせなけりゃならないってわけだ。かといって殺すのはまずい。ここの連中にとって神聖な生き物だそうだからね」
「確かにそうですわ」とレモニカが相槌を打つ。「魔導書を得るには信仰を得る必要がありますから、裏を返せば信仰を失えば魔導書を失うかもしれませんわね」
「元々メーグレアは街の連中を『爛れ爪の邪計』から守っていたらしいのさ」ジニがシシュミス教団の信徒から聞いた話を伝える。「つまりもちろん、呪いを解いたにもかかわらずのこの凶行はあの衣が原因に決まってる。となると引っぺがすしかないね」
「私が斬り裂こう」ソラマリアが申し出る。「グリュエー。レモニカ様を頼む」
「それは良いけど、そんなことできるの? メーグレア虎を傷つけることなく衣を切り裂くなんて」
グリュエーはレモニカを庇うように立とうとするが、グリュエーの姿に変身したレモニカは横並びに立つ。
「難しいとは思うが、やる他あるまい」
ソラマリアの言葉は自信のなさそうな言葉だが、自信がなければできる提案ではない。
「じゃああたしは支援に専念するよ」ジニはふわふわと浮きながら両手に光を集中させる。「目眩ましと幻は少なくとも『爛れ爪の邪計』には効いたからね」
そうと決まればレウモラク市の静けさに気づく。嵐の唸りも、呪われた者たちの呻き声も平穏を希求する街から立ち去り、各々の目的に沿ったグリュエーたちの密かな足音とメーグレアの吐息だけが聞こえる。
ジニがメーグレアに対して眩い閃光を放った瞬間、機を見るに敏とソラマリアもまた閃くような速さで飛び出す。光にまごつくメーグレアの隙を突いて素早く接近すると、天から降り注いだ光の衣を一息に引き裂く。見事ソラマリアの剣は聖獣の玉虫色の毛皮を傷つけることなく、不思議な衣装だけを斬ったのだった。獣の衣は力を失ったようにずるりと垂れ下がると、降り注いだ時のような糸へとまるで氷が溶けるように解れてしまう。
聖なる虎のメーグレアはまるで冬眠から目覚めたばかりの獣が新たな春の艶やかな装いに目をぱちくりとさせるようにおっかなびっくり四囲を見渡す。『爛れ爪の邪計』と天から降って来た謎の衣から解き放たれたメーグレアはなお獣の王に相応しい威厳を備えてはいるが、穏やかな顔つきで小さく吼える。
次の刹那、まるで全ての行いを嘲笑うかのように、再び天から光の糸の雨が降り注いでメーグレアを覆い、織り上げ、聖なる虎の王に全く同じ衣を着せてしまった。
メーグレアの心の平穏は再び吹き飛び、血に飢えた獣に相応しい、掠れるような、擦れるような重い雄叫びを喉の奥から響かせる。
ジニが舌打ちをする。「やっぱり元を絶たないとどうにもならないね!」
「糸の元とはどこだ!?」ソラマリアの疑問は全員の疑問だ。「空のどこからあの糸は降ってくるんだ?」
「それを知りたいってことだよ」ジニは八つの太陽が昇る緑の空を見上げて答えた。
「気を付けてください! こちらを見ていますわ!」
レモニカの言った通り、メーグレアはグリュエーたちを呪わしい敵意の眼光で睨みつけ、一瞬の苦痛と永遠の死を予感させる牙を剥いている。
「どうやらただユカリを待つわけにはいかないと気づいたようだ」とソラマリアは冷静に剣を構え直す。
再び剣と牙が火花を散らす。ジニの閃光と合わせて天に座す偽りの太陽よりもずっと眩い光を放っている。一進一退すら起こらない完全な拮抗だ。一切その場を動くことなく、剣と牙と爪が打ち合い、滝の水滴の如く途切れることなく鳴り響く。たとえ光を放っていなくてもグリュエーの目には追い付くこともできない神速の一戦だ。ソラマリアは巨大な獣と剣劇を演じたことがあるのだろうか、はたまたメーグレアは人間と剣を交えたことがあるのだろうか。まるでお互いの手の内を知り尽くしているかのような反応速度だ。
しかしメーグレアは徐々にジニの閃光に慣れて見切り始める。光が放たれる直前に瞬きに近い速度で目を瞑って凌ぎ、閃光を防ぐ。そうしてメーグレアが上がり調子となり、余裕を見せ始めたのを見計らってジニは幻を展開する。それはソラマリアの幻影だ。十数人のソラマリアと見紛う幻がメーグレアを囲んだ。
閃光を浴びた時よりも虚を突かれたらしいメーグレアは一瞬躊躇し、その隙を突かれてソラマリアに衣を切り裂かれる。
しかし光の糸は再び天より供給される。今度は切り裂かれる度に逐次、服が修復される。ソラマリアが切り裂けば切り裂くほど魔法の糸が降り注ぎ、縫い合わせ、織り、着せる。
衣の出所が分からないままでは防戦一方だ。しかし空を見上げても糸の伸びる先がどこへ繋がっているのか分からない。ただ緑の空から光の糸が垂れ下がってきているように見える。
「そうですわ。グリュエー」レモニカが声を弾ませて閃きを披露する。「先ほどのように嵐を呼んで黒雲で空を覆うというのはどうでしょう? 誰が糸を放っているにせよ目隠しをすれば手出しできないかもしれません」
「良い案だと思う」と言いつつもグリュエーの方は声が落ち込んでいる。「だけどグリュエーには力が足りないよ」
「足りないも何も先ほどまで随分暴れていたではありませんか。ましてやユカリさまが連れていたグリュエーと合わせて倍の力になったはずでは?」
「ううん」グリュエーは力なく首を振る。「解呪した後も魂が戻ってこないんだよ。もしかしたら呪いの身代わりにした魂はもう死んでしまったのかも」
「そんな、まさか」レモニカは息を呑み、しかしすぐに勢いを取り戻す。「そんなはずはありませんわ。ユカリさまがグリュエーとハーミュラーさまの旅路を読み取ったそうではありませんか。魂が今も地上を離れず、このクヴラフワを彷徨っているということです」
「だったらいいけど、だとしたらなんで戻ってこないんだろう」
「それこそユカリさまがお戻りになれば記憶を読み取るか、いつもみたいにお話して分かるかもしれませんが……あ!」
まさにソラマリアとメーグレアの相争うすぐそばにユカリとベルニージュとグリュエーの知らない誰かが現れた。しかしその姿を見れば、ユカリの、ラミスカの母エイカだとすぐに分かる。グリュエーにも二人の間に確かな血の繋がりを感じた。
事態が大きく変動する。メーグレアはすぐさまユカリの方に飛び掛かり、ベルニージュが立ちはだかって容赦なく炎を吹き付ける。エイカはユカリを庇うように覆いかぶさり、当のユカリは初めから意識を失っているようだった。
グリュエーがその名を叫ぼうとしたその時、想いに呼応するように記憶が溢れ返る。
それはシグニカ統一国の中央高地ジンテラから旅立った風が巡り巡って、グリシアン大陸の辺境オンギ村へと至り、そこで出会った魔法少女ユカリと共に、ミーチオン、アルダニ、サンヴィア、シグニカを巡り、そしてクヴラフワへと至る数えきれない冒険の数々だった。
もう一度、今度は万感の思いを込めてグリュエーは叫ぶ。
「ユカリ!」