家に帰ると、信雄が待っていた。
「おかえり」
と言った信雄に、ただいま、と言い、のぞみは洗面所に行く。
戻ってくると、黙ってソファに座っていた信雄が、
「あれからいろいろ考えたんだがな」
と母、浅子が居るキッチンの方を見ながら言ってきた。
「あれだけの男だ。
お前なぞ、騙されても仕方がないのに、最初から結婚結婚と言ってくれていることに、感謝しなければならないのかもしれないなと思って」
あ、また専務の株が上がってる……。
「今度連れてきなさい。
ゆっくり呑みたいから」
と言われてしまった。
うーん。
今のセリフ、専務に伝えるべきか、と悩みながら、次の日は車で会社に行った。
昨日は、専務の車で此処通ったな、と思いながら、町並みを眺める。
今までひとりで走ってたのに。
今日はひとりで走ってるのが、なんだか寂しいな、と思ったとき、昨日の別れ際のキスを思い出していた。
いやいやいや。
夕べからずっと、思い出すまいとしてるのにっ。
あれは酔った弾みみたいなものでしょうしね、ええっ、と思いながら、会社近くの交差点で止まっていると、なんとなくコンビニが目に入った。
中央分離帯の向こう、反対車線側のコンビニの前で背の高い男が、誰か女性と話している。
少しふっくらとしたその女性はこちらに背を向けていたが、男の方の顔は見えていた。
御堂祐人だった。
誰なんだろうな~と思い、つい、見ていると、祐人と視線が合った。
……気がした。
いやいや、そんな莫迦な。
めちゃめちゃ距離がありますよ。
車の中から外はよく見えるが、外から中はガラス窓に朝日が反射して見えづらいはず。
しかも、これだけ距離があるのにっ?
ああでも、車でわかるか、と思ったのぞみは、祐人に目で威嚇された気がした。
いや、距離があるので、気のせいかもしれないが――。
この車、可愛いから、いっぱい走ってるし。
人違いだったフリをしよう。
そう思いながら、のぞみは交差点を右折した。
いや、右折して、会社の地下駐車場に入っていった時点で、かなり相当なアウトだったのだが。
「見たぞ……」
職場に着いて、トイレから出てきたところで、のぞみは祐人に捕まった。
いきなり、見たぞ、と言ってくる祐人に、
いや、見たの、私の方なんですけど……と固まっていると、
「今朝見たものは忘れろ」
と祐人は言ってくる。
見たって言っても、早朝から、コンビニ前に女性と御堂さんが居たのを見たってだけなんだけど、と思いながら、コクコクとのぞみは頷く。
「さもなくば、専務に、お前が俺に騙されて、専務の秘密をペラッと軽く話してしまったことをバラすぞ」
うっ。
祐人にバレたという話はしたが、自分が乗せられて、ペラッとしゃべってしまったということは、京平にはまだ白状していなかった。
「昼、ちょっと付き合え」
と言って、祐人は消えていた。
……私は、一体、なにを見てしまったのでしょうね、とのぞみは怯える。
結局、昼まで、京平には会えなかった。
専務室用秘書室には行ったが、中まで入る用事がなかったからだ。
まあ、いいか……。
どんな顔して会ったらいいのかわからないし。
照れて、逆ギレして来そうな人だしな。
赤くなって怒鳴りだす京平を想像し、ちょっと笑ってしまった。
昼、祐人に連れられ、のぞみは会社から、少し離れた店にランチに行った。
近いと誰かに遭遇しそうだからだろう。
でも、みんな結構遠出してますけどね、と思いながら、誰か来るんじゃないかと、チラチラ駐車場の方を窺っていると、
「大丈夫だ。
出くわしたら、出くわしたときのことだ。
専務の用で、この近くまで来たついでに食べに来たと言えばいい。
来たのが、専務だったら……」
と言ったあとで、少し黙り、メニューに視線を落として、
「お前、なんとかしろ」
と言う。
あっ、投げましたねっ、と思うのぞみに、
「なんでも食え。
奢ってやる」
と祐人は言ってきた。
「えっ、いいですっ」
タダより高いものはないですっ、と思いながら言うと、チラと目を上げてこちらを見た祐人が、
「……口止めするのに、買収されるのと、撲殺されるのと、どっちがいい?」
と訊いてくる。
答えないでいると、
「買収されるのと、撲殺されるのと、絞殺されるのと、薬殺されるのと……」
と危険な方が増えていったので、
「で、では、買収されます。
Aランチで」
ともっとも手頃なのを頼んでみたのだが、
「すみません」
と店員さんを呼んだ祐人は、
「Cランチ二つ」
と一番高いのを頼んでいた。
「二つも食べるんですか?」
「莫迦か、ひとつは、お前のだ」
「えっ、私、そんなに食べられませんっ」
と言うと、
「残ったら、食べてやるよ」
と祐人は言う。
そんなによくしてくださるなんて。
一体、どんな重大な秘密が……と怯えながら、
「あのでも、私、御堂さんが女性の方と早朝、コンビニの前にいらしたのを見ただけなんですけど」
と言うと、腕を組んで椅子に背を預けた祐人は、
「その相手がまずいんだ」
と言ってくる。
「具体的に言うと、主に、万美子に知れたらまずい」
と祐人は言う。
え、じゃあ、もしかして、と思うのぞみに、祐人は、案の定、
「あれは別れた昔の彼女で、万美子の姉、睦子だ」
と言ってきた。
「あー……」
そうなんですか、と言おうとしたところで、
「人妻だ」
と言ってくる。
……そうなんですか。
それは切ないですね。
「まあ、バッタリ会って話しただけなんだが、万美子に知れたら、また、
『お姉ちゃんに未練があるんでしょー』
とか言ってきて、うるさいからな」
「あるんですか?」
とつい、訊くと、
「ない」
と祐人は言ったが、それが本当かはわからなかった。
「万美子はしつこいからな。
延々と絡んで来られるとめんどくさいんだよ」
と祐人は溜息をついたあとで、
「絶対、万美子にバラすなよ。
そのために、睦子にも口止めしてあるんだから」
と睨んで言ってくる。
「はあ、もちろん、話しません。
っていうか、その程度のことで奢ってもらっては、かえって悪いですね」
と言ったあとで、
「でも、永井さんは、なんで、そんなにお姉さんのことで絡んでくるんですか?」
と訊くと、祐人は沈黙する。
おや……、もしかして、この話題の方が危険だったか? と思った。
「……大丈夫ですか?
私は、今の質問により、撲殺されたりしませんか?」
思わず防御するように、まだテーブルの上にあったメニューをつかむのぞみに、
「訊くな。
今、悩んでるところだ」
撲殺するかどうか、と祐人は言ってきた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!