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伊織
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朝。重たいまぶたを開け、私は見慣れた寝室の天蓋をぼんやりと見上げた。
(……ここ、夫婦の寝室よね?)
昨夜はたしか、青い薔薇の温室でカイル殿下とお茶をして――そのあと。
「…………」
思い出したくもない。いや、正確には途中から記憶がプツプツと途切れている。
(……いくらなんでも調子に乗りすぎなのよ……!)
昨夜は途中で、完全に体力の限界を迎えた。最後に覚えているのは、温室のソファへ沈み込みながら、
『もう無理……』と力尽きたところまで。
「……ん?」
ふと、自分の胸元へ視線を落とす。着ていたのは、見覚えのない淡い水色のネグリジェ。
(これ、昨日着てたものじゃないわ……!?)
嫌な予感がして、恐る恐る隣を見る。そこには、すやすやと熟睡するカイル殿下がいた。
(…………まさか)
その瞬間、昨夜の記憶のピースが一気につながった。
身体がふわりと宙へ浮く感覚。
『……ソフィア。起きられるか?』
『……むり』
抱き上げられ、温室から寝室まで運ばれた。いわゆる――お姫様抱っこで。
さらに。頬や首筋へ触れた、冷たい濡れタオルの感触。
『汗をかいている。そのままでは気持ち悪いだろう』
『ん……もう、任せるわ……』
『分かった』
そのあと、丁寧に身体を拭かれ。着替えまでさせられて――。
「~~~~っ!!」
両手で顔を覆った。危うく絶叫するところだった。
(何やってんのよ、私!!)
(身体まで拭かれて、着替えまでさせてもらったってこと!?)
完全敗北。昨夜の私は、文句なしの完全敗北だった。
ちらりと隣を見る。長いまつ毛を伏せた寝顔は、やっぱり腹が立つほど整っている。
(あいつの前で、どんな醜態さらしてんのよ……!)
けれど――。ふと、別の記憶まで蘇ってしまった。
『カイル……っ』
名前を呼んだときの、あの嬉しそうな顔。たった名前ひとつで、あんな顔をするなんて。
(まあ……あれは、ちょっと可愛かったけど……)
(って、違う違う違う!!)
ぶんぶんと首を横に振る。今はそんなことを考えている場合ではない。
もし今、彼が目を覚まして、『昨夜はよく眠れたか?』
なんて爽やかな顔で聞いてきたら――。
(羞恥で爆発するわ!!)
(よし、まだ寝てる……今しかない!)
私はそっと布団をめくった。
抜き足。差し足。忍び足。物音を立てないよう、そろりそろりと寝室を抜け出す。
(あいつが起きる前に逃げるわよ!!)
***
一方、その少し後。目を覚ましたカイルは、無意識に隣へ手を伸ばした。
「……ソフィア?」
返事はない。すでに布団は冷たくなっている。
(……また、俺が起きる前に行ったのか)
一瞬だけ、表情が曇った。だが――。
『カイル……っ』
「…………」
昨夜の記憶が蘇り、思わず口元が緩む。
(名前を呼んでくれた)
それも。
(何度も……!)
胸の奥が、じんわりと熱くなる。しかも今日は、これから二人で城下町の宝石店へ出かける約束までしているのだ。
「…………」
カイルは真剣な顔で顎へ手を当てた。
(二人きりで買い物……)
しばし考え込む。
(これは、世間一般でいうところの『デート』なのではないか……!?)
***
(……うぅ、気持ち悪い……)
私は揺れる馬車の隅で、死んだ目をしながら窓の外を眺めていた。
(馬車に酔ったのかしら……?)
朝から胃がむかむかする。けれど、原因には心当たりがあった。
(昨日、あの体力おばけに付き合わされたせいよ! 絶対そう!)
恨めしく隣を睨みつける。当のカイル殿下は、朝から見えない花でも背負っているのか、ご機嫌そのものだ。時折こちらをちらちら見ては、妙に嬉しそうに口元を緩めている。
「……何ですの?」
「いや」
「さっきから見すぎですわ」
「見ていない」
「ガン見してますわよ?」
「……少しだけだ」
(何なのよ、こいつ……)
昨夜の余韻にでも浸っているのか知らないけれど、私には浮かれている暇なんて一ミリもない。今日の目的は、ただ一つ。
(いかに換金しやすい高額宝石をゲットするか――それだけよ!)
***
王都でも指折りの高級宝石店へ到着した。馬車を降りた途端、さっきまで見えない花を背負っていた男の上機嫌がさっと消えた。
いつもの、隙のない『氷の皇太子』の顔だ。
(切り替え早っ!)
店内へ入った途端、待ち構えていた店主や従業員たちが一斉に頭を下げる。
「皇太子殿下、皇太子妃殿下。本日はご来店いただき、恐悦至極に存じます」
「挨拶はいい」
カイル殿下が淡々と告げる。店主の肩が、びくりと跳ねた。
「ソフィアが気に入りそうなものを見せてくれ」
「は、はい!」
(……怖がられすぎじゃない?)
「こちらなどはいかがでしょう、妃殿下?」
店主が恭しく差し出したのは、繊細な金細工に無数のダイヤモンドをあしらった、これでもかというほど豪華絢爛な首飾りだった。
「王室御用達の職人が三年がかりで仕上げた逸品でございます。妃殿下のお好みにも、きっと――」
「もっとシンプルなものがいいわ」
「…………え?」
店主が目を丸くした。
(今ほしいのは装飾品じゃないのよ! 逃走資金よ!!)
(そんな凝った細工があったら、鑑定に手間取って闇市ですぐ売れないじゃない!)
私はショーケースへ顔を近づけ、目を皿のようにして、お目当てを探す。
(狙うは、余計な細工なし! 石が大きくて、すぐ換金できそうなもの!)
そして――見つけた。
「殿下」
「何だ?」
「私、あれがいいですわ♡」
奥の目立たないショーケースに飾られた首飾りを、びしっと指差した。プラチナのチェーンに、卵ほどもある超特大のエメラルドが一粒。余計な装飾はほとんどなく、宝石そのものの存在感が際立っている。
「1000万ルクほどかしら?」
「はい。ちょうど一千万ルクでございます」
(――これよ!!)
(余計な細工なし! 石が大きい!)
(めちゃくちゃ換金しやすそうじゃない!!)
カイル殿下はエメラルドを眺め、満足そうに目を細めた。相変わらず、表情は硬い。けれど――。
「……なるほど」
ほんのわずかに、口元が緩んだ。
「お前の瞳のように美しいな」
「まあ、嬉しいですわ♡」
「…………!?」
店主が目を見開いた。従業員たちまで、ぴたりと固まっている。
(……何よ、その反応)
ちらりと隣を見る。カイル殿下は、すでにいつもの無表情へ戻っていた。
(……いや、全然隠せてないからね!)
宝石商が首飾りを箱へ収める。私は満面の笑みを浮かべた。
(ついに手に入れたわ……)
(私の、1000万ルクちゃん……!)
これさえあれば、いざというときに即換金。そして、皇宮から身一つで高飛びできる。
(さらばブラック皇宮!)
(今日こそが、私の『独立記念日』よ!!)
そう確信していた。皇宮へ帰る、その時までは。
コメント
1件
ああ、もう、ソフィアの完全敗北っぷりが可愛すぎます……!「お姫様抱っこ」で運ばれて、着替えまでさせられてたなんて、起きた時の羞恥、痛いほど伝わってきました。でも、カイルの「名前を呼んでくれた」にちょっとデレてるところがまた良いんですよね。そして宝石店でのエメラルド選び!「1000万ルクちゃん」って呼ぶソフィアの現実的な目線と、カイルの「お前の瞳のように美しい」という不意打ちの甘い言葉のギャップにやられました。次のエピソードも楽しみにしてますね!