テラーノベル
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第3部 非公開
第17章 否定
二月四日、午後九時。フロアには仁人しかいなかった。
独占交渉の延長期間は、あと数日で切れる。最終条件の資料は、ほとんど整っていた。価格の着地点。経営体制の案。リテンションの設計。何度も見直して誤字を一つ直した。
価格は、意向表明書のレンジの上のほうに置いた。留任は二年。柔太朗の制作の自由は譲らない。どの数字も、二人を守るために置いたものだ。
直し終わっても、手が次の作業を探した。
仕事をしていないと、考えてしまう。
舜太の顔が、浮かんだ。ここ数週間、あの男の笑顔は少しずつ硬くなっている。「ただの広告や」と、あの日、あの男は言った。柔太朗宛の国際郵便。あれは広告ではない。仁人には分かっていた。
分かっていて、何も聞かなかった。
隠すな、と言ったのは自分だった。あの会議室で、舜太に。その自分に、あの男を問い詰める資格があるとは思えなかった。
柔太朗も、そうだった。あの穏やかな男が、この数日、いつもより静かだった。廊下ですれ違うと、目が合う。優しい目だった。ただ、その奥に腹の決まった人間の静けさがあった。
三人の間で、何かが、静かに軋んでいる。
そして、その軋みの中心に、自分がいることを仁人は分かっていた。
縁側の雪の庭が、頭に浮かんだ。
話したくなったら、いつでも聞きます。今夜でも、明日でも、一年後でも。
あの声が、まだ、耳に残っていた。
話せたら、と思った。あの夜に、話せたら。
けれど、話したあとの世界を、仁人は知らなかった。
ノックの音がした。
「仁人さん」
勇斗が、扉の前に立っていた。コートを着たまま、手に、紙コップを持っていない。それが、少し珍しかった。
「まだ、いらしたんですね」
「ええ。勇斗さんこそ」
「少し、お時間いただけますか」
声がいつもより低かった。表情は笑っていなかった。
仁人は、椅子を示した。
「どうぞ」
勇斗は座った。長机の角を挟んだ位置。ノートPCは、開かなかった。資料も出さなかった。
「仕事の話でもあり、そうでもない話です」
「……はい」
「一つだけ、事実を、置かせてください」
勇斗は静かに言った。
「契約書の、C-016。欠番です。取りやめた契約と伺いました」
「はい」
「相手は、ヴェルディエ・ベンチャーズ。ヴェルディエの、投資部門です。時期は創業から十か月目」
のんの
410
こりん
602
レタス
5,005
#ご本人様には関係ありません
狐十@アイコン変えた!!
14,368
仁人の呼吸が、一瞬止まった。
「これは、取りやめた契約ではなく、締結された契約でしたよね」
来た、と思った。
身体が、先に動いた。背筋が伸びる。顔から表情が消える。銀行員時代に身につけたものだ。追及を受けたとき、感情を皮膚の下に沈める技術。
「いいえ」
仁人は、平らな声で言った。
「締結には至っていません。締結前の草案の段階で、こちらから撤回しました」
草案。ドラフト、とも呼ぶ。契約書の正式版になる前の案のことだ。
「先方の記録に、署名者として私の名前が残っているのは、その草案に、署名の準備が記されていたものではないでしょうか。実際に署名はしていません」
声は滑らかだった。一つの狂いも、なかった。目は、勇斗から逸らさなかった。完璧だった。銀行の、どの審査部の、どの面談でも通用する答えだった。
テーブルの下で、右手の指が震えていた。
止めようとした。左手で、右手を押さえた。それでも、震えは細かくなるだけだった。膝の上で、二つの手がぶつかり合って、かたかたと小さな音を立てそうになる。
勇斗は、仁人を見ていた。
長い沈黙があった。
「……そうですか」
勇斗は、言った。
それだけだった。
嘘を、受け取らなかった。仁人はそう思った。勇斗は、その答えを否定もしなかった。追及もしなかった。ただ、机の上に置いた。受け取らないまま、黙ってそこに置いた。
通った、はずだった。
なのに、勇斗の目は、嘘を受け取っていなかった。
「仁人さん」
勇斗が声を落とした。
「俺は、あなたを責めたいんじゃないんです」
仁人は、答えられなかった。
「それだけは、信じてください。……この前、縁側で言ったこと、変わってません」
「……」
「コーヒー、淹れてきます」
勇斗は、席を立った。
扉が、閉まった。
廊下の足音が、遠ざかっていく。勇斗の歩幅は、いつもより、ゆっくりだった。急がなかった。仁人に考える時間を置いていくように。
一人になった会議室で、仁人は、両手を机の上に出した。
まだ、震えていた。
指を開く。閉じる。震えは止まらなかった。細かい、規則のない震え。自分の意思で動かせない、自分の手。
嘘は完璧だった。
なのに、震えた。
こんなことは、なかった。二年前も。あの日、ヴェルディエ・ベンチャーズの会議室で、あの第二案を提示したときも、声が少し震えただけだった。その後は震えなかった。何度思い出しても、震えなかった。一人で抱えていた間は、この手は、一度も震えなかった。
あの月末の夜。口座の残高を、三回確認した。三回見ても、数字は変わらなかった。翌日は、給料日だった。二十人分の給料。舜太は、融資の交渉で、連日、銀行を回っていた。決まる保証は、なかった。柔太朗は、アトリエで、新作を削っていた。あの静かな背中に、この数字を見せられなかった。
だから、一人で、ヴェルディエの門を叩いた。
震え始めたのは、あの縁側の夜からだ。
誰かに、聞かれた夜から。話したくなったら、いつでも聞きます、と言われた夜から。
舜太に話す場面を、頭の中で何度も再生してきた。二年間。
二年前。あの月に、あの部屋で、俺は。……そう、切り出す。
舜太の顔が、変わる。あの底抜けに明るい男の顔から、笑顔が消える。そして、必ずこう言う。
「なんで、俺に相談せんかったんや」
その声が、頭の中でいつも同じ調子で響く。傷ついた声だった。怒った声ではなかった。傷ついた声。
それを、聞きたくなかった。
だから、言わなかった。一人で背負えるなら背負う。二人を傷つけずに済むなら。
それが、守ることだと思っていた。
隠すな、と舜太に言った、あの会議室の自分の声が、今になって耳に返ってくる。人に言えることを、自分は、一つもしてこなかった。
扉が開いた。
勇斗が、紙コップを二つ持って戻ってきた。何も言わずに、一つを仁人の前に置いた。
もう一つを、自分の前に置く。それから、ただ、隣に座った。
何も、聞かなかった。
仁人は紙コップを見つめた。湯気は、立っていなかった。
手を伸ばす。震えている指で、掴む。紙コップが少し揺れた。
一口、飲む。
「……ありがとうございます」
声が、掠れた。
「いえ」
勇斗は、それだけ言って、窓の外を見ていた。
しばらく、二人は何も言わなかった。夜の街の光が、ガラスに滲んでいた。
震えは、少しずつ収まっていった。
勇斗が席を立ったのは、それから十分ほどあとだった。
「今日は、帰ります。おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
扉の前で、勇斗が振り返った。何かを言いかけて、やめた。代わりに、小さく笑った。
扉が閉まる。
一人になった。
仁人は、空になった紙コップを両手で包んだ。まだ、少しだけ温かかった。
守るために、隠した。
その言葉を、心の中で繰り返した。二年間、繰り返してきた言葉だった。
けれど、今夜、初めて、別の言葉がその隣に浮かんだ。
隠すために、守ってきたのではないか。
答えは、出なかった。
ただ、右手の指の震えが、また、少しだけ戻ってきた。
コメント
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読了。仁人が勇斗の前であれだけ完璧に嘘を通したのに、指の震えだけは止まらなかった場面、本当に胸に来たよ。自分を守るためじゃなくて、誰かを守るための嘘。でもその裏側で、隠すために守ってきたのかもしれない——その反芻が仁人の内側で静かに響いてくる。勇斗が何も言わず隣に座ってくれた時間、あの沈黙が大きな救いだったんだろうな。震えが収まっていく描写、好きだ。