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初秋の太陽はいつまでも遊んでいたい子どものように夜の遅くになっても周囲を照らし出していて、真冬と比べれば雲泥の差の時間で上空に止まっていた。
バルコニーへ出る窓を全開にし、盛夏を思えば冷えている風を室内に招き入れたウーヴェは、部屋の中央に置いた箱の前に座り込んでいるリオンを肩越しに振り返り、無言でその箱を開けろと伝えるとリオンの手が鄭重な動きで箱を包んでいる布を解き箱の蓋を開ける。
長年閉じていた箱が開けられたことによって室内に少しの埃臭さが舞い上がり、それを吸ったらしいリオンが軽く咳き込むのを離れた場所から見ていたウーヴェは、己の過去が今リオンの手によって紐解かれていくのを何処か他人事のように見つめていた。
「オーヴェ、これ、アルバムか?」
「……そうだ」
箱の中に入っていたのは何冊かのアルバムで、その中で最も古そうなものを取りだしたリオンは、開く前にウーヴェを手招きして横に座らせると多少色が悪くなっているがそれでも落ち着いている横顔を見つめて了解を得てくる。
「……うん」
「ん、分かった」
足の上に置いたアルバムを開き一枚ずつ台紙を捲っていくと色褪せたカラー写真が何枚も現れ、その中には良く見る一般的な家族の日常風景が納められていた。
その何枚もの家族の肖像からリオンが感じ取ったのはこの家族が本当に仲が良いという事実だったが、それを感じると同時に今の不仲の原因は何なんだという強い疑問も芽生え、ウーヴェの顔をじっと見ればリオンの疑問を感じ取ったのか伏し目がちに苦笑する。
「ホントに仲が良いよな。やっぱりあの事件があってから仲が悪くなったのか?」
「そう、だな……あの事件で父と……兄が何をしたのかを知ってから、だな」
リオンの問いにウーヴェの声が途切れ途切れになったことから己のことについての本心を語る際にはするりと言葉が出てこないことを思い出し、眼鏡のフレームに手を当てていないことから嘘偽りはないと確信したリオンは、親父と兄貴が何をしたんだと当然の疑問を口にするとウーヴェの肩が揺れて呼吸が荒くなる。
だがその呼吸を何とか鎮めようと深呼吸を繰り返すウーヴェを見守っていたリオンの前、ウーヴェが喉の渇きを癒すためかそれとも心理的に勢いを付けたいからかは分からないが用意してあるジンを飲むと、リオンの目を真っ直ぐに見つめながら口を開く。
「父が……俺を特別な子どもと言ったこと、……覚えているか?」
昨年の夏、リオンとウーヴェが経験した悲しい事件の最中、家を飛び出して行方不明になっていたリオンを発見したウーヴェが何とか宥め賺して連れ帰ろうとしていた時にウーヴェの父であるレオポルドが偶々通りかかり、様子のおかしいリオンを前に怒りを爆発させたことがあった。
その時にレオポルドがウーヴェを特別な子どもと称したのだがそれを覚えているかと問い掛けると、寂しそうな笑みを浮かべて忘れるはずがないと頷かれる。
「そういやあの時、喪われていた家族の絆がどうこうって親父言ってたよな。あれ、どういうことだ?」
「……そのアルバムの写真……何か気付いたか?」
己の疑問に直接答えずに更に問い掛けたウーヴェを訝るように見つめたリオンは足の上のアルバムへと視線を落としておかしな所を探し出そうと、二冊目、三冊目も同じように見ていくがこれと言って一目でおかしいと分かるものを見つけられずに答えを教えてくれと肩を竦めると、ウーヴェの手が一枚の家族写真を指し示す。
その写真は家族揃ってバカンスに出かけたときのものらしく、幼稚園か基礎学校に入りたてのウーヴェが満面の笑みを浮かべて兄のギュンター・ノルベルトに抱きつき、そんな二人を中心にアリーセ・エリザベスがきれいな笑みを浮かべ、子ども達を見守るようにレオポルドとイングリッドが穏やかに笑っていて、リオンはそんな経験がないために良く分からず家族写真であれば当然のもののように感じたが、ウーヴェの指が微かに震えつつ己の顔を指し示した後、一人一人の顔を指さしていったため言いたいことが何となく理解出来て顔を上げ、頷かれて青い目を瞠ってしまう。
いつだったかウーヴェから写真を見せられたことがあり、その時感じたのはウーヴェの髪の色が今の頭髪とはまったく違うという事実だったが、それよりももっと強烈な違和感を抱かせるものであることをよりはっきりと理解したリオンは、ウーヴェの手が写真から離れると同時にその疑問を口にする。
「お前の家族、みんなブロンドだよな。でもオーヴェだけ髪の色が違う。今みたいになる前は栗色の髪だったんだ」
「……ああ」
ドイツ出身のレオポルドは経年の変化はあるもののブロンドで、妻であるイングリッドはスウェーデン出身のためにこちらもまたプラチナブロンドと言えるようなきれいな金髪だった。
その間の子どもであるギュンター・ノルベルトとアリーセ・エリザベスも二人の特徴を引き継いだブロンドだが、末っ子のウーヴェだけは光が当たればブロンドにも見える明るい栗色の髪をしていた。
ブロンドの両親から栗色の髪を持つ子供が生まれる確率は高いのかと遙か昔に授業で習ったことを思い浮かべていると天啓のような言葉が降ってきて、その言葉の重みに気付くと目だけではなく口も丸くなってしまう。
「オーヴェ、もしかして……」
二人とは別の誰かの子どもなのかと問い掛けると一瞬どう答えるべきかを思案するように視線を泳がせたウーヴェだったが、小さな溜息を零しながらアルバムの最後のページを開き、小さなスナップ写真をリオンに指し示す。
そのスナップ写真は今見ていたものと比べれば遙かに古く感じられるもので、その中では若い頃のレオポルドが生後間もない子どもを抱いて前途洋々たる顔をこちらに向け、そんなレオポルドの横には控え目な笑みを湛えた栗色の髪の女性-まだリオンの目には少女にしか見えなかった-が寄り添うように座っていた。
この写真のレオポルドは想像以上に若くて、ギュンター・ノルベルトが生まれた時のものだろうと判断をするものの、それならば何故母であるイングリッドではなく、今まで一度も見たことのない少女のような女性が写っているのか、それにこの写真の男女はどう贔屓目に見ても十代半ばにしか見えないが一体いつ写したものなのだろうかと次から次へと新たな疑問が湧き起こり、整理を付ける為に頭を一つ振ったリオンの疑問に回答を与えたのもウーヴェの言葉だった。
「……俺は……父と……母の子どもじゃ……な、い……」
「……そっか」
あの両親の子どもではないと教えられて納得したリオンの脳裏で何かが明滅し、そうじゃないと声が響いた為に頷きかけた頭が自動的に止まってしまう。
そして動きを止めた脳味噌が違和感を指摘するように写真を脳内でクローズアップさせたため、今まで聞いた話と整合性のつかない疑問を更に浮かび上がらせる。
「この写真……親父だよな……?」
この若くて力が漲っている-というよりは怖いものなど何もない世間知らずの幼さすら残した若い男はお前の親父だろうと恐る恐る問い掛けるリオンに一度頷いたウーヴェだが、安堵しかけるリオンの言葉の先を読んだようにゆっくりと首を左右に振る。
「……ノル、だ」
「!?」
ノル、つまりこの写真の人物はギュンター・ノルベルトだとウーヴェが答えると、己の脳内で芽生えた疑問と突き付けられた現実とを対比させたリオンの目がこれ以上はない程に見開かれ、写真の中で控え目な笑みを浮かべる少女とウーヴェの顔を交互に見つめる。
「まさか……この女、の人……?」
「……俺の……母、だ」
「な……んだって……?」
さすがにウーヴェの言葉を瞬時に理解出来なかったようでリオンが掠れた声で問い返すと、その写真の若い男女は俺の父と母だと先程よりは滑らかな声でウーヴェが答えたためリオンが勢いよく写真に顔を向けて穴が開きそうなほど二人を見つめる。
「オーヴェの母親!?」
「ああ。…………この二人は俺の、父と、母、だ」
「!!」
ウーヴェの一言に心底驚いたリオンがアルバムを持ち上げて睨むように写真を見つめ、次いで少し血色が悪くなっている端正な横顔を見つめると、お前の両親と呟いてアルバムを下ろす。
この十代半ばにしか見えない少年と少女がウーヴェの両親だと教えられても俄には信じることが出来ず、聞き慣れている両親という単語を脳内で何度も何度も再生させ、ようやく理解出来たらしいリオンにウーヴェが意味の分からない小さな笑みを浮かべる。
「……俺の父は……ギュンター・ノルベルトだ」
「兄貴が……オーヴェの親父……!?」
「ああ」
もっとも戸籍上はお前も良く知っているようにレオポルドが父、イングリッドが母だとも教えられたリオンが呆然とウーヴェを見つめると、見つめられた方も静かに頷くだけだった。
「ちょっと待てよ、じゃあ何だ、お前の兄貴は十代で子どもを作ったってことか!?」
「そんなに驚くことじゃないだろう?」
お前が初めてセックスをしたのは何歳の時だと問われて絶句してしまったリオンは、確かに自分も似たような年頃に初めて女というものを知ったと返すが、ならばギュンター・ノルベルトも同じような年頃にこの写真の少女を妊娠させたのかと問い掛けると重苦しい沈黙の後にそうだと頷かれて天井を振り仰ぐ。
「……でもさ、良く親父やお前の母さんが許したな」
10代で子供を作るような事態を良くも許したと問い掛けるリオンにウーヴェが冷めた目つきで肩を揺らす。
「これはエリーから聞いた話だが、その頃、父と母は殆ど家にいなかったらしい」
「え?」
「父は仕事が軌道に乗って忙しいが一番楽しい時だったし、母はそんな父に愛想を尽かして夜毎若い男や家人と一緒に観劇だのパーティだのと出歩いていたらしい」
だから父と母が子ども達と共に食卓を囲む団らんの風景など無かったそうだ。
「誰もアリーセ達の面倒を見てなかったのか?」
「いや……父と母に代わってヘクターとハンナがみていたそうだ」
「あの二人が? じゃああの二人はアリーセ達にとって親代わり?」
「そうなるな」
もっとも、ウーヴェにとっての親はやはりレオポルドとイングリッドであり、ヘクターとハンナはいつも温かく見守ってくれている祖父母のように思っていたと頷くと、そんな関係の彼女の余命が幾ばくもないと突き付けられたことを思い出してウーヴェが咄嗟にリオンの手を掴んでぎゅっと握りしめる。
「……オーヴェ、明日からハンナと一緒にいられるだろ? いっぱいいっぱい思い出作って来いよ」
「……うん」
己の手を握って温もりを確かめているウーヴェに目を細め、沢山思い出を作ってこいと言ったもののその場所がずっと避けていた実家となればやはり気分が沈みがちになるだろうと気付いたリオンは、やや俯き加減のウーヴェの頬にキスをし驚く顔に笑いかけて額にキスをする。
「オーヴェの親父は兄貴だったんだな」
「ああ」
生まれたときからすべてを手にしているような眩しさで存在していたと思っていたウーヴェだったが、実は誰にも話していないこんなにも大きな秘密があったのだと思えば今までの己の言動が恥ずかしくて、それに対して悪かったと謝罪をすればウーヴェの髪が左右に揺れる。
「気にすることはない」
「うん、でもさ、何も知らなくてもずっとお前が羨ましいって思ってた俺ってガキだったなぁって」
こんなガキな自分を許してくれと秘密を語ってくれた恋人への感謝の思いを込めて片目を閉じたリオンは、ウーヴェの顔に少し血の色が戻って小さな笑みが浮かんだことに安堵し、額にキスを受けて許された気持ちになる。
「ダンケ、オーヴェ」
「……お前だから聞いて欲しいと思ったんだ、リーオ」
「うん」
アルバムを閉じて腕を高く突き上げて伸びをしたリオンは凝り固まった身体をストレッチするように左右に捻り、何かを思い出したように動きを止めてウーヴェを見る。
「じゃあさ、お前の母親は今どこにいるんだ?」
バルツァーの母ではなくお前の生みの親はどこにいるんだと当然の疑問を口にしたリオンだが、ウーヴェの顔から一気に血の気が失せるだけではなく表情まで消え去り、ついさっき優しいキスをくれた唇をぎゅっと噛んだかと思うと無意識に手が口元に宛われる。
その動きから危険を察したリオンが今度はウーヴェの手を掴んで己の胸元に引き寄せると、表情のない色の消えた双眸がぼんやりと見つめてくる。
「いつも言ってるよな。お前が思ってることを口にしても誰も怪我をしない。俺も死なない。だから思ってることを言えって。なあ、オーヴェ、忘れた訳じゃねぇよな?」
口にしたい程の強い思いを閉じこめるために己の手や唇を噛んで堪える必要はないとさっきとはまったく違う顔でウーヴェの顔を覗き込んだリオンは、無くした表情が徐々に戻りはじめたことに気付き、完全に戻ったと察したのは未だかつて見たことがない頼りなくて事実を受け入れたくないと言いたげな顔をウーヴェが見せたからだった。
「オーヴェ?」
「お、れの、母……は……っ……」
ウーヴェの口から流れる震えた声が教えてくれる結末をある程度予想したリオンが内心息を飲んでじっと見つめていると、ウーヴェの肩が感情を堪えるように上下し、喉の周りに今まで以上にはっきりと痣が浮かんでいることにも気付くとあの事件に関係しているのかと問い掛ける。
「……っ!」
その言葉に深い意味はなく、ただ事件と関連があるのかを知りたかっただけだったが返ってきたのはリオンの予想外のもので、空いた手で己の喉を絞めるように掴んだウーヴェに目を瞠り、背中を喘がせ始めたために強引に喉から手を離させ苦しそうな呼吸を繰り返すウーヴェの身体を抱き締める。
「オーヴェ、お前の喉にはもう何もない。だからそんなに苦しそうにする必要はない」
それにもうお前は一人ではないんだと、右手の薬指と左足の薬指の熱を思い出せと囁き震える身体をただ抱き締めていると、荒い呼吸の下から名を呼ばれて何度も頷く。
「リーオ……っ、リ、オ……っ!」
「うん、ここにいる。事件の時に俺はいなかったけど、今は俺がいる」
だからもうお前は誰に傷付けられることもないんだと言い聞かせるように告げると、ウーヴェの手がリオンの背中に回ってきつく抱き締められる。
「俺の母、は……母、が……」
途切れ途切れの声が辛く苦しそうだったが止めることはせずに黙って先を促すリオンの耳に流れ込んできたのは、つい先程聞かされた出生についての秘密よりも大きな衝撃を伴う言葉だった。
「俺を誘拐し、て……犬のよ、うに首輪を付けて引っ張って、いた、のは……俺の、母だ」
絞り出すような声でウーヴェが辛い過去を口にするがその身体は極度の緊張から強張り震えていて、リオンが何度も背中や肩を撫でても震えは止まらなかった。
だがその言葉を聞いた瞬間、リオンの脳味噌が一瞬にして真っ白になって何も考えられなくなり、ウーヴェと同じように震える声で何度も名前を呼ぶ。
「オーヴェ、オー……っ! ど、ういうことだよ、それ。ウソ、だろ……!?」
お前を産んだ母がお前を誘拐し二十年以上も苦しめ続けているのかとウーヴェの肩に手を当てて揺さぶったリオンは、されるがままのウーヴェの頭が上下し、喉に手を当てて爪を立てたことに気付いて慌ててその手を掴むが、マリアとレジーナという名前が聞こえてきたことに目を瞠る。
「マリア……?」
「……おかしいと思わないか、リオン……」
自分が産んだ子供に今も残る傷を心に刻みつけた母とその姉だが、姉の名前がマリアだというのはどんな皮肉だろうなと笑うウーヴェに今度はきつく目を閉じて拳を握ったリオンは、お前など生まれてきたのが間違いだった、だからその間違いを正す為の躾だと笑いながら棒で殴られ、身体に痣が残るまで蹴られたりもしたが、何よりも辛かったのは水とドッグフードだけを与えられていたとウーヴェが暗く嗤った時には耳を塞ぎたくなってしまっていた。
だがそれを拳を握ることで何とか堪え、だから今でも食べることへの罪悪感のようなものがあるとも笑ったウーヴェの頬に震える手を宛ったリオンは、何をするのか意味が分からないと首を傾げるウーヴェの額に額を重ね、どうか伝わりますようにと願いつつ湿り気を帯びた声で名を呼ぶ。
「苦しかったな」
「……っ……!」
二十数年前の過去、実の母と伯母から人以下の扱いを受けて心身ともに痛め付けられていた小さな己に対してリオンが労ってくれた言葉は時を遡って差し伸べられる手と声のように感じられて目を瞠ったウーヴェは、そんな目に遭いながらも良く生きていてくれたとこの世のすべてに感謝をしているような声で囁かれてグッと唇を噛む。
「……本当に、良く生きていてくれたよな、オーヴェ」
お前が死という最後の手段を選ばなかったから今こうして一緒にいられるんだとリオンが笑ったため、ウーヴェもつられるように笑みを浮かべようとするが、過去から響く声が笑うことを、今も生きていることを否定してくる。
「リオン……俺、は……」
生きていて良いのか、笑っても良いのかと、事件から生還しただ日がな一日天井を見上げるだけの日々を過ごしていた時でさえもいつも存在している疑問を口にしたウーヴェは、誰がそんなことを言うんだと歯軋りの音混じりに問われて目を瞠るが、人に言えない悪いことばかりしてきた俺にお前は今まで何と言ってくれたんだと逆に問われてしまい、世界の誰もが認めてくれなくても俺だけは認めてやると言ってくれただろうと詰め寄られて喉を鳴らしてしまう。
「いっぱいいっぱいマザーやゾフィーを泣かせてきた俺だけど、顔を上げて歩けって背中押してくれたのはお前じゃねぇか」
なのにお前がそんなことを言うのかと詰るような声で問われて身体が竦むが、さっきよりは強い力で頬を挟まれて条件反射的に目を閉じてしまうと眼鏡が外される感触がし、恐る恐る目を開ければ、ウーヴェが愛してやまない笑みを浮かべロイヤルブルーの瞳を細めながらリオンが見つめていた。
「オーヴェはいつも俺に力をくれる。だから俺もそれに応えたいし返したい」
お前のように分け与えてくれる力は無いかもしれないがこれが俺の精一杯だと笑ったリオンは、呆然と見つめてくるターコイズ色の瞳を見つめてキスをし、震える唇にも触れるか触れないかのキスをすると、投げ出されているウーヴェの手を取って胸の前で組ませる。
「……良く生まれてきてくれたよな、ウーヴェ。辛い苦しい時も乗り越えて今までちゃんと生きてきてくれた。そんなお前なんだ。笑ってくれよ」
「……リーオ……っ……!」
「お前が笑いたいって思ったときには心から笑ってくれ。泣きたい、辛いって思ったときは泣けばいい。俺の前でいっぱい笑って、時々泣いて。でもさ、やっぱりオーヴェにはいつも笑って欲しい。俺と一緒に生きていて欲しい」
霞んでいた視界がぼやけ始めたことに気付いたウーヴェだったが、リオンの顔に見たことがないような穏やかな笑みが浮かび、一言一言を噛み締めるように告げた後に心底困惑した顔でくすんだ金髪に手を宛われ、首を傾げてどうしたと掠れ気味に問い掛ける。
「たった今泣けばいいって言ったけどさ……うん、やっぱりオーヴェには笑って欲しい。な、オーヴェ。辛いことも苦しいことも乗り越えてきたお前だから優しく笑えるんだよな」
そんなお前に出逢えたこと、これは世界中に誇っても良い俺の自慢だと笑ったリオンは、困惑を掻き消した顔を近付けると目尻に溜まって今にもこぼれ落ちそうな涙を指で拭ってキスをする。
「リー……オ……っ!」
「今までずっと一人で抱えてたんだろ? ベルトランにも言ってない事ってこれのことだったのか?」
「……あ、あ……っ……」
「そっか――教えてくれてありがとうな、ウーヴェ」
そして何度も繰り返すが、生きていてくれてありがとう。
その言葉がウーヴェの心に静かに染み入った瞬間、堤防が決壊したように瞳から一気に涙が溢れ、開いた口からは言葉にならない声が流れ出す。
「……ぁあ、……ああ――アァア……!!」
「うん。今までいっぱい頑張って来たよな、オーヴェ」
でももう一人きりで苦しまなくて良い、俺がいると頷くリオンにしがみつくように腕を伸ばして抱きついたウーヴェは、長年一人で抱え込んでいた秘密を口にできた安堵とリオンの存在から涙と流れ出す声を止めることが出来なかった。
いつかと立場が逆転したなぁと思いつつもウーヴェの素直な感情の発露が嬉しくて、またこうしてウーヴェの素顔を見られるのが自分だけであることは密やかな誇りとなってリオンの胸を温める。
「オーヴェぇ、泣いても良いけどさ、もう泣くなよ」
矛盾するようなことを言いながらウーヴェの髪を撫で背中を撫でて頬を寄せたリオンは、耳元で響く慟哭の種類が変わった気がして瞬きをする。
そしてその後、ウーヴェが身体を丸めたことに気付いて背中を支えると、胸に顔を押しつけながらリオンの腰に腕を回してくる。
その姿が小さな子どもを連想させ、幼い頃の己を見下ろしているようだと考えた途端、胸が締め付けられて喉を固形物が迫り上がってくる苦しさを感じてしまう。
どうしてお前がそんな目に遭わなければならなかったんだ、親父はミドルネームのように幸せになって欲しいと言っていたのに、何故母親から命を脅かされるような虐待を受けなければならなかったんだと己のことのように怒りを覚えて叫んだリオンの腕の中でウーヴェの身体がびくりと竦み、お前に対して腹を立てている訳じゃないと慌てて言い訳をする。
「なぁオーヴェ、事件のことを調べても良いか……?」
今まで話してくれるのを待っていると言っていたがもう我慢できそうもないから調べて良いかと問えば躊躇う気配が腕の中から伝わってくるが、小さな掠れた声がお前ならば良いと許しを与えてくれる。
「ダンケ、オーヴェ。……あの教会で発見された日記のことも詳しく調べてから話す」
「日記……」
「うん。あの教会、老朽化が進んでるから取り壊すらしい。で、この間床板を剥がしたら出てきたらしいぜ」
今までずっと床下に日記があったことに気付かなかったのもどうかと思うと肩を竦めたリオンだが、ウーヴェが頭を振って顔を上げたことに気付いて咳払いをすると、ウーヴェの頬が羞恥に染まるもののしっかりと顔を上げてリオンを正面から見つめる。
「誰の日記か分かる、か……?」
「あー、名前を聞いたけど忘れちゃったからまた聞いておく」
「うん、頼む」
涙を掌で拭ったウーヴェにリオンがキスをし、髪を撫でてその髪にもキスをすると、頭痛はないか身体が疲れていないかと気遣う言葉を告げて返事を待つと、今日はこの部屋で寝ると返されて目を瞠る。
「広いベッドで寝た方が良いだろ?」
この部屋のベッドは古いシングルベッドで狭いしスプリングがうるさいのにと翻意を促すが、この部屋が良いと頑なに拒まれてしまってはリオンもそれ以上は何も言えなかった。
「んー、じゃあ今日はここで寝るか」
「……うん」
その小さな小さな同意の言葉にリオンがもう一度ウーヴェの背中を抱き締めたあと、掛け声を放って立ち上がると同時にウーヴェの腕を引っ張ってその勢いのまま抱き上げる。
「……っ!」
「俺の自慢のオーヴェ! もうこれからは一人で苦しまなくて良いからな?」
いつかも言ったがこれからは今まで以上にお前の背負ってきた荷物を持つから安心して任せろと笑って困惑するウーヴェの顔を見上げたリオンは、ウーヴェにも望みまた望まれている笑みを浮かべて一つ頷くと頬にぽたりと滴が落ちてくる。
「リー……オ……っ、俺、の……リ、オン……!」
「本当にお前は強い。強くて優しい人だ、ウーヴェ」
そんな誰よりも強くて優しいお前にこの世のすべての幸福と持てる限りの愛を、これから先何があろうともお前の傍にいることを誓うと宣言したリオンは、頬を伝って落ちていく涙に目を細め、抱き上げている為に少し高い位置にあるウーヴェの涙がこぼれ落ちる目尻にキスをする。
「オーヴェ、愛してる」
だからこれからも一緒に生きていこう。笑っていよう。時々ケンカもして、でも最後は仲直りをして手を繋いでいよう。
「――あ、あ……っ……!」
「だからオーヴェお願い、さっきみたいなことはもう言わないでくれよ」
いつだったか俺に同じことを言ってくれたのはお前なんだ、だからもう言わないでくれ。
生きていて良いのかなどと悲しい事を言うなと真剣な顔で伝えたリオンは、涙でぐしゃぐしゃの顔で頷くウーヴェの頬をぺろりと舐めると、シャワーを浴びて寝る用意をしようとウーヴェを下ろすのだった。
ベッドルームではなくリオンの部屋の狭くて古いシングルベッドに二人で入ってみたものの、過度の緊張を覚えたウーヴェの心身が昂ぶった気持ちを抑えることが出来ないようで、なかなか眠りが訪れてこないようだった。
そんなウーヴェを背後から抱き寄せて横臥していたリオンは、ウーヴェの肩や首筋に何度もキスをし、ようやく薄くなった痣に早く消えろと持てる限りの怒りをぶつけるように呟くと、ウーヴェの腕がそっと上がってリオンの頭に添えられる。
「…………ダンケ、リーオ」
「オーヴェ、明日から実家に帰るんだよな」
「あ、あ……そうだな」
その間はこうして温もりを感じることは出来ないだろうから実家に持っていって欲しいものがあるとリオンが提案をし、ウーヴェが肩越しに蒼い瞳を見つめる。
「リーオ?」
「特別に、今回だけ特別に! レオを連れて行けよ、オーヴェ」
今リビングのソファに鎮座している異様な大きさを誇るテディベアをスパイダーの助手席に座らせて実家への旅の相棒とし、実家では俺の代わりに今回だけ特別にハグしていろと、特別にとの言葉を何度も繰り返したリオンにウーヴェが咄嗟に何も言えずにいると、肩に顎を載せたリオンがウーヴェの耳朶にキスをしながらそうしてくれと優しく強請る。
強請る形で伝えられたリオンの心に感謝しつつ黙って頷いたウーヴェは、レオにお前のパーカーを羽織らせて連れて行くと笑うと、リオンが賛成の声を挙げる。
「パーカーでもシャツでも何でも良い」
ウーヴェにとっては精神的な負担の大きい実家への帰省であるため心が落ち着くのならばお前の思うようにすればいいと頬にキスをしたリオンは、腕の中でウーヴェが窮屈そうに寝返りを打った為、可能な限り壁際に身を寄せる。
「ありがとう、リオン」
「…………ん」
短い感謝の言葉に込められた膨大な思いを受け止めて更に短い言葉で返したリオンは、今度はウーヴェの背中に腕を回して抱き寄せると、明日からの日々に備えてそろそろ寝ようと欠伸をする。
「暫く不自由になるが……」
「ああ、平気。メシが食いたくなったらゲートルートに行くし、面倒くさかったらホームに帰る。でも、休みが取れたらそっちに行く」
だからその時は迎えに来て欲しいとウーヴェの額にキスをすると、ウーヴェが目を伏せて小さく頷く。
「うん」
「お休み、オーヴェ。ちょっとでもゆっくり寝ろよ」
もしも怖い夢を見たとしても俺がいることを思い出してくれと囁いて額を重ねたリオンにウーヴェもお休みを告げて目を閉じる。
緊張を覚えた身体は眠りを欲していて、間もなくウーヴェの意識は薄れていくのだが、眠りに落ちても暖かな金色の光に包まれているような心地良さを感じているのだった。