テラーノベル
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その質問は、教室の黒板に書かれていた。
白いチョークで、やけに丁寧な字で。
――貴方の生きている世界は本物ですか?
「……は?」
朝のホームルーム前。俺は鞄を机に置いたまま、黒板を見上げていた。
悪戯にしては、質が悪い。
誰かが笑いながら書いたような雑さがない。まるで本気で問いかけているみたいな、静かな字だった。
「ないくん、どうした?」
声がした。
聞き慣れた声。
振り向けば、そこに――
……。
……あれ?
「りうら?」
俺はそう呼んだはずだった。
目の前に、幼馴染がいるはずだった。
だけど。
心臓が、ひゅ、と縮む。
――顔が、ぼやけている。
いや、違う。
見えている。ちゃんと、そこに立っている。
なのに。
“思い出せない”。
目の前にいるのに、思い出せないってどういうことだ?
「ないくん?」
心配そうな声。
声は聞こえる。はっきり。
なのに。
……声って、どんな声だった?
高かったか?低かったか?優しかったか?少し鼻にかかってたか?
わからない。
わからない、わからない、わからない。
「お前……誰だ?」
気づいたら、そう言っていた。
教室が、一瞬静まる。
りうらが、ほんの少しだけ目を見開いた。
「……冗談、きついよ。ないくん」
「冗談じゃねえよ」
喉が震える。
「俺の幼馴染のりうらは……」
言葉が止まる。
俺の幼馴染の。
りうらは。
……どんな顔をしてた?
どんな笑い方をしてた?
どんな風に俺の名前を呼んでた?
「……っ」
頭の奥で、何かが削れていく感覚。
消しゴムで、記憶をこすられているみたいに。
「ないくん、大丈夫?」
りうらが一歩近づく。
その瞬間。
ぞわ、と背筋が粟立った。
近づかないでくれ。
そう思った。
理由はない。ただ、本能が拒否していた。
「……触るな」
俺は、反射的に手を払った。
りうらの手が、空を切る。
そのとき。
黒板の文字が、ぎし、と音を立てて歪んだ。
――貴方の生きている世界は本物ですか?
チョークの粉が、勝手にぽろぽろと落ちる。
誰も触れていないのに。
教室の空気が、急に重くなる。
「……何だよ、これ」
クラスメイトたちがざわつく。
でも。
不思議なことに。
誰も“りうら”を見ていない。
俺の隣に立っているはずの存在を、誰も視界に入れていない。
「……なあ」
俺は、前の席のやつの肩を掴んだ。
「りうら、そこにいるよな?」
「は?誰?」
「りうらだよ、幼馴染の」
「お前、幼馴染なんていなかったろ?」
――え?
血の気が引いた。
「何言ってんだよ。ずっと一緒だったろ、小学校から!」
「ないくん、マジで大丈夫か?一人っ子だろ?」
笑い声。
冗談だろ?
俺のスマホ。
震える手で、連絡先を開く。
“りうら”。
検索。
……出てこない。
履歴も、写真も、メッセージも。
一枚もない。
「……嘘だろ」
俺は、ゆっくりと隣を見る。
そこに、立っている。
確かにいる。
なのに。
世界が、“いない”と言っている。
「ないくん」
りうらが、静かに言った。
「りうらは、ここにいるよ」
笑っている。
はずだ。
たぶん。
でも、その表情が、どうしても掴めない。
ピントが合わない。
「お前……何なんだ」
喉が渇く。
呼吸が浅くなる。
「りうらは、ないくんの幼馴染だよ」
「違う」
俺は首を振った。
「俺の幼馴染は……」
言えない。
何一つ、思い出せない。
記憶があるはずなのに。
形がない。
空白。
「ねえ、ないくん」
りうらが、そっと俺の耳元に近づいた。
息が、かかる。
……温かい。
ちゃんと、体温がある。
「もしも」
囁き声。
「この世界が、作り物だったらどうする?」
「……は?」
「もしも、ないくんの見ている世界が、誰かに“用意された”ものだったら?」
ぞわり。
黒板の文字が、音もなく消えた。
代わりに、新しい文字が浮かび上がる。
――観測完了。
誰かが、笑った気がした。
教室の天井が、ぐにゃりと歪む。
窓の外の空が、ノイズみたいにざらつく。
「……やめろ」
頭が割れそうだ。
「やめろ、やめろやめろやめろ!」
俺は、りうらの胸ぐらを掴んだ。
「お前、何者だ!」
その瞬間。
りうらの輪郭が、ぶれた。
人間の形をしていたそれが、光の粒子みたいにほどける。
でも。
目だけは、はっきり見えた。
深くて。
どこまでも優しくて。
そして、ひどく悲しそうな目。
「ごめんね、ないくん」
りうらが、言った。
「本当は、思い出してほしくなかった」
「……何を」
「りうらのこと」
世界が、暗転する。
音が消える。
光が引く。
最後に見えたのは。
俺に手を伸ばす、りうらの姿。
「ないくん」
その声だけが、はっきりと残る。
「りうらは――」
そこで、全てが途切れた。
目を覚ますと。
俺は、真っ白な空間に立っていた。
教室はない。
床も天井も、境界がない。
ただ、無限の白。
そして。
目の前に、一人。
「……やっと、ここまで来たね」
りうらが、立っていた。
今度は、はっきり見える。
顔も、声も、全部。
思い出せる。
……いや。
思い出した、んじゃない。
“与えられた”。
「お前……何なんだ」
震える声で、俺は問う。
りうらは、少しだけ笑った。
「りうらはね」
一歩、近づく。
その姿が、光を帯びる。
人の形をしているのに、人じゃない。
圧倒的な、何か。
「――神だよ」
白い空間が、脈打った。
俺の鼓動と、同じリズムで。
「ないくんの世界を、作った神」
足元が、崩れ落ちる。
理解が、追いつかない。
「じゃあ……今までの全部は」
「うん」
りうらは頷いた。
「りうらが作った。ないくんが、幸せでいられるように」
涙が、勝手に零れた。
「……ふざけんなよ」
声が、震える。
「俺の人生だぞ」
「うん」
「俺の友達も、家族も、全部……」
「うん」
「作り物かよ!」
叫ぶ。
白い空間に、反響する。
りうらは、泣きそうな顔で笑った。
「でもね」
静かな声。
「ないくんの“感情”だけは、本物だよ」
その言葉が、胸に突き刺さる。
「りうらが作れなかったのは、ないくんの心だけ」
光が、揺れる。
「だからね」
りうらが、俺に手を伸ばす。
「選んでほしい」
その目は、神じゃない。
ただの、幼馴染の目だった。
「この世界に戻るか」
白が、ひび割れる。
「それとも――」
ひびの向こうに、闇が広がる。
「本当の世界を、見るか」
俺の足元が、裂ける。
落ちる。
どこへ?
りうらの手が、目前にある。
「ないくん」
震える声。
「りうらは、どっちでもいい」
嘘だ。
その目が、言っている。
消えたくない、と。
一人になりたくない、と。
「……俺は」
喉が詰まる。
涙が止まらない。
神なんて、いらない。
作り物でもいい。
でも。
俺の幼馴染は。
「お前だろ」
俺は、りうらの手を掴んだ。
強く。
「りうらは、俺の幼馴染だ」
世界が、轟音と共に崩れ始める。
白が砕ける。
闇が迫る。
りうらが、泣きながら笑った。
「……ありがとう」
その瞬間。
俺の意識が、再び暗転した。
落ちている。
いや、崩れているのは世界のほうだ。
俺とりうらの足元から、白い空間がガラスみたいに砕け散っていく。
ひび割れの向こうは、底の見えない闇。
音がない。
風もない。
ただ、世界そのものが終わっていく気配だけが、骨の奥に響いていた。
「ないくん……」
りうらの手は、確かに俺の手を握り返している。
温かい。
震えている。
神だなんて言ったくせに。
「離すなよ」
俺は、歯を食いしばった。
「離したら、ぶん殴るからな」
冗談のつもりだった。
けど、声は泣きそうに震えていた。
りうらが、少しだけ笑う。
「うん」
その笑い方。
やっと、はっきり思い出せる。
小学生の頃、転んで膝を擦りむいたとき。
俺が泣きそうになったら、いつもそんな顔で笑ってた。
――思い出せなかった時間が、嘘みたいだ。
「ないくん」
崩壊は加速している。
俺たちの立っている場所も、もう長くはもたない。
「りうらはね」
静かな声。
「最初から、神だったわけじゃないんだ」
「……どういう意味だよ」
「この世界は、“観測”のために作られた世界」
空間の奥に、無数の光が瞬いた。
星じゃない。
目だ。
何百、何千という視線が、俺を見ている。
「ないくんの人生は、実験だった」
胃が、ひっくり返りそうになる。
「感情の発達。選択の傾向。孤独への耐性。幸福の閾値」
りうらの声は、淡々としているのに。
その奥に、怒りと悲しみが滲んでいた。
「りうらは、その管理者だった」
「管理者……」
「最初は、ただのシステムだったよ」
りうらの身体が、少しずつ光に溶けていく。
「でも」
視線が、俺だけを見る。
「ないくんと一緒にいるうちに、りうらは“りうら”になった」
心臓が、強く脈打つ。
「神なのに?」
「うん」
りうらが頷く。
「神なのに、ないくんの幼馴染になりたかった」
空間が、音を立てて裂ける。
闇の向こうに、もう一つの景色が見えた。
灰色の都市。
空は曇天。
人々は無表情で、機械みたいに歩いている。
「あれが、本当の世界」
りうらが言う。
「あっちは、感情が薄い世界。効率と合理だけの世界」
ぞっとする。
「ないくんは、あの世界の住人だった」
「……は?」
「感情が強すぎた。だから、隔離された」
頭が、くらりと揺れる。
「この世界は、ないくんの心を壊さないための、緩衝材」
「じゃあ俺は……」
「本物だよ」
即答だった。
「ないくんの存在は、本物」
光の粒子が、りうらの肩から零れる。
「でも、この世界は本物じゃない」
胸が締めつけられる。
「選んで」
りうらの手が、さらに強く握られる。
「このまま、作り物の幸せの中で生きるか」
ひびの向こうの灰色世界が、近づいてくる。
「それとも、あっちに戻るか」
「お前は?」
俺は叫んだ。
「お前はどうなる!」
りうらは、一瞬だけ目を伏せた。
「ないくんが作り物の世界を選べば、りうらは管理者に戻る」
「戻るって」
「“りうら”じゃなくなる」
喉が凍る。
「ないくんが本当の世界を選べば」
その声は、震えていた。
「りうらは、消える」
理解が、追いつかない。
「消える?」
「システム違反だからね」
無数の目が、ぎらりと光る。
「観測対象に感情移入した管理者は、削除対象」
「ふざけんなよ」
怒りで、視界が赤く染まる。
「お前が勝手に俺に感情持ったんだろ!」
「うん」
りうらは、泣きながら笑った。
「ごめんね」
世界の崩壊が、目前まで迫る。
もう時間がない。
灰色の世界か。
作り物の世界か。
どっちを選んでも、りうらは失われる。
「……なんでだよ」
声が、掠れる。
「なんで俺に選ばせるんだよ」
「だって」
りうらが、俺の額にそっと触れる。
その温もりが、焼きつく。
「ないくんの人生だから」
涙が止まらない。
こんなの、選べるわけがない。
灰色の世界で生きれば、りうらは消える。
作り物の世界に戻れば、“りうら”はいなくなる。
どっちも、失う。
だったら。
「……第三の選択肢は」
俺は、歯を食いしばった。
「ないのか」
りうらが、目を見開く。
「ないくん、それは」
「俺が決める」
無数の視線が、ざわめく。
空間に警告音が鳴り響く。
――規定外選択検知。
――強制修正開始。
灰色の世界が、俺を引き寄せる。
足が、引き裂かれそうになる。
「りうら!」
「ないくん!」
俺は、りうらを引き寄せた。
そして。
「お前も来い」
灰色の世界へ、飛び込んだ。
轟音。
光。
視界が焼き切れる。
――――――――
目を開けると。
冷たいアスファルトの上だった。
空は、曇り。
ビルの隙間を、灰色の雲が流れている。
胸が、激しく上下する。
「……生きてる」
身体はある。
感覚もある。
けど。
「りうら……?」
隣を見る。
誰もいない。
通行人は、無表情で通り過ぎる。
俺を、見もしない。
胸が、裂けそうになる。
やっぱり、消えたのか。
あいつ。
俺の、幼馴染。
神。
「……っ」
喉が震える。
涙が、こぼれる。
そのとき。
「ないくん」
聞き慣れた声。
はっと振り向く。
そこに立っていたのは。
制服姿の少年。
赤髪。
見慣れた笑顔。
ちゃんと、はっきり見える。
「りうら……?」
「うん」
少し照れたみたいに笑う。
「人間になっちゃった」
世界が、静かに揺れる。
「管理者権限、全部失ったけど」
一歩、近づいてくる。
「ないくんと同じ世界に、落ちてきた」
涙が、溢れる。
「……馬鹿」
「うん」
「神のくせに」
「もう神じゃないよ」
りうらが、俺の前に立つ。
そして。
「ただの、ないくんの幼馴染」
その瞬間。
灰色だった世界に、微かな色が差した。
空の端が、ほんの少しだけ青くなる。
通行人の一人が、ふと立ち止まり、空を見上げる。
感情が、戻り始めている。
「観測は、終わった」
りうらが、空を見上げる。
「ないくんが、世界を選んだから」
「……俺、正解だったか?」
不安が、胸をよぎる。
りうらは、迷わず頷いた。
「うん」
優しい目。
「だって、ないくんが選んだんだもん」
その言葉で。
やっと、息ができた。
「なあ」
俺は、りうらを見る。
「この世界、本物か?」
りうらは、少し考えてから笑った。
「どうだろうね」
「おい」
「でも」
そっと、俺の手を握る。
今度は、消えない。
温かい。
「ないくんが感じてるなら、本物だよ」
涙が、また零れる。
怖かった。
全部失うのが。
りうらを忘れるのが。
でも。
今、ここにいる。
神じゃない。
ただの人間。
それでいい。
「なあ、りうら」
「ん?」
「俺さ」
空を見上げる。
曇り空の向こうに、薄く光が差す。
「この世界、好きになるかもしれない」
りうらが、笑う。
「りうらも」
その笑顔は。
ちゃんと覚えている。
もう、忘れない。
たとえ世界が偽物でも。
たとえまた壊れても。
俺が感じた痛みも、涙も、全部本物だ。
そして。
隣にいる、こいつも。
「貴方の生きている世界は本物ですか?」
もし、また誰かに問われたら。
俺は、こう答える。
「知らねえよ」
りうらの手を、強く握る。
「でも、俺が選んだ世界だ」
それだけで、十分だ。
コメント
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もーまぢで好きなんだが???(( 権限を犠牲にして桃くんと一緒にいるのってなんかエモいね(( そのまま良い人生を送ってくれ...(