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Side健治
水曜日。
俺は左腕の袖口を少し捲り上げ、腕時計に視線を落とした。
表示された時刻は19時02分。
大きく開け放れた障子紙の向こう、ガラス窓の外を見ると、綺麗に剪定された松の木にライトが当てられ、幻想的で贅沢な空間が作られていた。
畳敷きの和室に合うように低めに設えられた漆塗りのテーブルと椅子。俺の隣に座る宮本部長は、スマホの携帯ニュースを読んでいる。
緊張で落ち着かずに大きく深呼吸をして、ジリジリとその時が来るのを待ちわびていた。
「失礼いたします。お連れ様が、お見えになりました」
料亭の中居さんから声が掛かり襖が開く。
上座へ案内された人物は、一見してオーダーメイドであるとわかる仕立ての良いスーツに身を包む壮年の男性、緑原総合病院の医院長・野々宮重則。そして、優しげな面立ちの婿養子、副院長の肩書きを持つ野々宮成明であった。
宮本部長が立ち上がり、「本日はお忙しい所わざわざお運び頂きましてありがとうございます」と2人に向かって挨拶をし、お互いに社交辞令の言葉を交わし落ち着いたところで、野々宮重則と野々宮成明が腰を下ろした。
俺は、席に着かずに畳の上に膝をたたみ、息を吸い込んだ。
両手をつき、頭を下げる。
さあ、ここが正念場だ。
俺は畳に手を着いた。
そう、土下座の態勢だ。
「お取引の前に、お詫びしなければならない事がございます。私、菅生健治は、野々宮果歩さんと2ヶ月前まで不倫関係にありました」
ここまで一気に吐き出すと、慌てた宮本部長が俺の元に駆け寄り、語気を荒げた。
「菅生君、何を言っているんだ。失礼じゃないか!」
それでも姿勢を崩さずに居た俺に向かって、野々宮重則から声が掛かる。
「娘の話だね。詳しく聞かせて貰おうか。そのままだと、会話が成り立たない。先ずは、椅子に座ってからだな」
野々宮重則の意外な言葉に驚いて顔を上げる。大病院の医院長として傲慢不遜なイメージだったのだ。
果歩の夫である野々宮成明は、口を引き結び、思い詰めた様子でいる。突然、妻の不貞を聞かされたのだから、戸惑っているのかもしれない。
此処にも俺の行いに因って傷つけてしまった人がいるのだと実感した。
しかし、もう、後には引けない。
全てを賭けて、この事態の打開に挑む。
「失礼いたします」
と椅子を引き腰を下ろし2人に向かい合うと、宮本部長も苦々しい表情で自分の席に戻った。
緊張で手のひらに汗が浮かぶ。それを膝の上で握り込んだ。
「では、お話させて頂きます」
緊張で喉がカラカラに乾き、言葉に詰まる。
すると、野々宮成明が意外にも話し出した。
「あの、これからの話し合う内容を録音してもよろしいでしょうか?」
録音されるというのは、この先、不貞の損害賠償を請求される時の証拠になってしまうのだ。
それを考えると、余計な事はして欲しくないが、誠意を見せるという意味では、録音の承諾をした方が良いだろう。
「はい……」
「ありがとうございます。では、記録させて頂きます」
俺の返事を聞いて、成明はスマホをテーブルの上に置いた。
目の当たりにすると、覚悟を決めたとはいえ、出来る事ならこの場から逃げ出したくなる。
でも、ここまで事態を悪化させたのは、何もしてこなかった自分自身のせいだ。
意を決して、話を始めた。
「私、菅生健治は、果歩さんと大学時代に付き合っていました。卒業後は仕事も忙しさから、ぶつかる事も多く、果歩さんの結婚を機に完全に別れました。しかし、私が結婚して生活が落ち着いた頃に果歩さんから連絡があり、浅はかな私は、彼女の誘いに乗りました」
そう、本当に浅はかだった。あの時、誘いに乗らなければ……。
しかし、しばらく関係を続けてしまったのだから、これは、許されない事だ。
果歩の夫である野々宮成明氏から不倫の賠償請求をされても仕方がない事をしたのだ。
顔があげられない。
「その後、2カ月前に私の方から果歩さんへ別れを切り出しました。しかし、その後も果歩さんは別れた事を受け入れずに、私に付き纏い、妻に嫌がらせをしております。私は、先日もホテルに呼び出され、緑原総合病院の薬価データと引き換えにベッドを共にする事を強要されました」
すべてを賭けた告白が、この後どう転ぶか分からない。だが、いつまでも野々宮果歩の影に怯え、暮らす事など出来ない。
現に美緒は大ケガを負っている。
「黙って聞いていれば、随分と酷い話じゃないか。君は娘に取り入って、ウチとの取引を画策したんじゃないのか⁉」
野々宮重則の怒気を孕んだ声がとんだ。
それに対し、なんと返事をしようか考えを巡らす。
すると、野々宮成明が口を開いた。
「一言よろしいでしょうか。果歩について、私からも医院長に知って頂きたい事があります」
思わぬ援軍に目を見開いた。
成明については、穏やかな人だと好感を持って居ていたが、いざとなると芯が強そうだ。
野々宮果歩が散々 ”《《あんなつまらない人》》” と言っていたのは、きっと成明が自分の思い通りにならないからだろう。
その成明が、野々宮重則を見据え、口を開いた。
「菅生さんのお話は事実ですよ、医院長。その上、果歩は菅生さんの奥様を階段から突き落とし、大ケガを負わせたのにもかかわらず、相変わらず反省もしてません。私もホトホト愛想が尽きましたので、離婚をさせていただきます」
成明の言葉に、野々宮重則の表情が一変する。
今まで余裕の表情だったのが、怒りで顔を赤くし、ワナワナと唇を震わせている。そして、右手を振り上げ、テーブルに握りこぶしを下ろした。
ダァーンッ!
とテーブルを揺らす大きな音が部屋に鳴り響く。
野々宮重則の性格を表すような振る舞いだ。
自分の意に削ぐわないと威嚇する。威嚇してマウントを取りたがる。
不完全なコミュニケーション能力。
間違った愛情の掛け方を野々宮果歩にしたせいで、すべてを自分中心でしか考えられない人間に育ててしまったのだ。
「脅かして従わせるのは、止めてください。もう、ウンザリですよ、医院長。果歩のことは甘やかすばかりで、深刻な問題に目を瞑っていた結果、彼女は承認欲求が強く自己中心的な性格になった。そして、人の命を軽く見ている。私はそれが許せない」
娘婿である成明に窘められ、野々宮重則はグッと言葉を詰まらした。
今まで大人しかった娘婿の反旗を翻す姿に、野々宮重則は啞然とした様子が隠せない。それでも重則は、大きく息を吸い込み気炎を吐く。
「だからと言って、離婚だなんてそんな勝手が許されるとでも思っているのか。成明……お前の父親に俺がいくら貸したと思っているんだ」
重則の言い分に、俺は成明と果歩の結婚の理由を理解した。
成明の方をチラリと見ると、彼はフッと悲し気に微笑んだ。
「それは、返済させて頂きました。そもそも、その借金は医院長が父を騙して株を買わせたせいで、出来た借金ですよね」
いつの間にか俺の懺悔は、緑原総合病院の医院長・野々宮重則とその娘婿であり副医院長・野々宮成明のやり取りに場が変わっていた。
あまりにも深刻な内容に、俺は口が挟めるわけもなく、その場から動く事も出来ない。
重則が眉間にしわを寄せ、細く息を吐き出すと、今度は弁明を始めた。
「成明、株の購入は、いい銘柄だと思って勧めただけなんだ。他意があった訳じゃないし、最終的に購入を決断したのは……君の父親だ。その上、損失を肩代わりして、助けたつもりなのに、そこまで言われるとは思わなかったよ」
重則の言葉に、成明は悔しそうに唇を噛んだ。その様子に焦った重則は、言い訳を続けた。
「果歩との縁談だって、お互いに年頃でちょうど良いと思ったからないんだ。ゆくゆくは緑原総合病院を継げるんだ。悪い話じゃなかっただろ?」
これには成明は納得が出来ないと言った顔で、口を開く。
「私にとって、果歩さんとの結婚は断ることの出来ない縁談でした。平凡でもいい、温かな家庭を持ちたかった私にとって、果歩さんとの結婚は、子供を持つと言うことさえも叶わない、寂しいものでした。その上、善悪の判断もつかないような人とは、どんな美味しい条件を並べられとしても、一緒にはいられません」
そう言って成明は、重則を見据えた。
「それに”緑原総合病院の後継ぎだ”と医院長は、おっしゃいますが、犯罪者となるであろう果歩さんと夫婦では、無理だとおもいますよ。病院のイメージダウンだと言って理事会が承認しないでしょう。お義父さんも医院長の座に留まっていられるか……あやしいかもしれません」
野々宮重則が医院長をしている緑原総合病院は、最初、重則の父親の時代に個人医院からのスタートだったが、重則の経営手腕によって大きくなり、医療法人緑原総合病院となった。その頃の名残で重則のワンマン経営となっているが、実際には理事も置かれ、何か不祥事があれば解任も起こりうる。
果歩の一件が表に出れば、父親である重則の責任が問われる事になるだろう。
重則は、憮然とした表情で片眉を吊り上げる。
「果歩が犯罪者とは、どういう事だ⁉」
ざんざん言っていたのに、理解していなかったのかと、思わず「は?」と俺の口から声が漏れてしまった。もう黙ってなんていられない。
「すみませんが、先ほどから、何度も妻が果歩さんに大ケガをさせられたって、お伝えしております」
勢い余って立ち上がり、身を乗り出してしまった。それなのに、重則はまだ信じられないと言った雰囲気だ。
「……しかし、果歩から何も聞いていない。それに警察署長とは知り合いだが、そんな話は入って来てない。信じられんな」
重則の他人事のような態度に、カッと顔が熱くなり、俺は冷静でなんていられなかった。
「悪いことをしたという自覚のない果歩が、自ら父親に罪を犯したと言うとも思えないし、ましてや警察に行く訳がない!信じようが信じまいが、あんたの娘が、俺の妻を階段から突き落としたのは事実なんだ!!」
「す、菅生君……少しは落ち着いて」
大口の取引先である野々宮重則に、熱くなる俺をなだめようと宮本部長は必死だ。
「これが、落ち着いていられるか!妻は、打ちどころが悪ければ、死んでいたかも知れないんだ。それなのに、果歩は、これっぽちも反省しいない。それどころか、言う事を聞けと脅すような奴だ」
すると、重則が大きなため息を吐いた。
「それで……。いくら積めば、いいんだ?」
「はっ⁉ 何を言っているんだ……」
娘の不祥事に対して、謝罪よりも先に金での解決を図ろうとする野々宮重則。
この親にして、あの娘が育つのだと思った。
怒りのあまり、ドクドクと鼓動が早くなり、手のひらが小刻み震える。
「医者のくせに人の命をなんだと思っているんだ。バカにするな!金を用意する前に自分の娘をどうにかしろよ!」
俺は、思わず声を荒げた。
すると、成明も立ち上がり、重則を見据える。
「医院長、自分の保身のために果歩の尻拭いをしても無駄ですよ。反省を知らない果歩は、また同じような事を起こすでしょう。その度に金を積むんですか?」
重則は返す言葉が見つからないようで、口をへの字に曲げ顔を歪ませた。
そんな重則に、俺はささやな嫌味を投げかける。
「大病院の医院長なら、さぞや御立派な人格の持ち主かと思っておりましたが、非情に残念な思考だったとは……」
「たかが、薬屋のサラリーマンが何を言っているんだ」
どこまでも人を馬鹿にする重則の態度に、怒りのボルテージは上がりっぱなしだ。
「確かに私は”たかがサラリーマン”ですが、娘が犯した事を金で揉み消すのが間違いだというのはわかります」
これ以上は話をしても無駄だと思った俺は、成明へと頭を下げた。
「話しが進まないようなので、今日はこれで失礼します。後日、また話し合いの機会を頂ければと存じます」
そう言って、席立ち足早に部屋から出た俺を成明が追いかけてきた。
お店を出たところで、名前を呼ばれ振り返った。
すると、成明がいきなり深々と頭を下げる。
「菅生さん、この度の奥様に対する果歩の行いは、決して許されるものではございません。おケガを負わせてしまった事を深くお詫び申し上げます」
俺は、不倫相手の夫から謝罪を受けるとは思っていなくて、面食らってしまい、一瞬言葉が出てこなかった。
それでも、なんとか気持ちを落ち着かせ、成明に向き直る。
「謝罪は受け取らせて頂きますが、出来れば、今後、妻に危害が及ぶことがないようにして頂けることを望んでいます」
「……そうですね。果歩に関しては、対応は考えていますが、正直申し上げて24時間見張っている訳にも行きません。菅生さんにはご迷惑をおかけします」
「いえ、私にも原因の一端があるので……。ただ、その矛先が妻に行ってしまって、一歩間違えれば、取返しのつかない事態になってしまったと考えるだけで、恐ろしい……」
本当に美緒が今回の事で、万が一命を落としていたら、悔やんでも悔やみきれなかっただろう。
「……菅生さんは、奥様を大切に思っていらしゃるんですね」
「はい、とても大切に思っています」
「うらやましいですね。……ただ、それほど大切に思っていらっしゃるんでしたら、果歩とは関わるべきではなかったのでは?」
成明の言う事は、もっともだ。
軽い気持ちで、関係を持ったのが、そもそも間違いだった。
「それは……俺が、バカだったんです」