夜の街をノロノロと歩いてマンションに帰った。
部屋に灯りは当然点いていなくて、真っ暗で静まり返っていた。
……寂しい。いつもはこんな事思わないのに、今はこの部屋に独りで居るのが辛かった。
真壁さんは私には遠慮しないで雪斗に向き合うと言っていた。
彼女の性格からきっと積極的に誘ったり、上手く自分をアピールしたりするんだろう。
それは脅威だけど、でも私が落ち込んでいるのは真壁さんから聞いた話の方だった。
『じゃあどうして藤原君は、前の奥さんと会ってるのかしら?』
衝撃だった。
まさか雪斗が春陽さんと会っていたなんて。
真壁さんの話を全て鵜呑みにする訳じゃないけれど、その言葉は真実として私の心に入って来た。
雪斗が裏切るとは思ってない。
春陽さんと会っていたとしたって、今の時点で浮気をしている事は無いと思う。
でも……頭でそう思っていても不安だった。
あの魅力に溢れた、それも雪斗を自ら振った女性がまた近くにいたら、いつかは雪斗の気持ちも変わってしまうかもしれない。
そうしたら私はどうすればいいんだろう。
その夜雪斗は、午後十時を過ぎても帰って来なかった。
仕事が立て込んでいるのは知っているけど、こんな時間まで連絡がないなんて……雪斗を信じていない訳じゃないけど、タイミングが悪すぎる。
早く帰って来てほしい。顔を見て安心したい。彼の温もりを感じたい。
午後十一時過ぎ、静かな部屋に着信音が鳴り響いた。
「もしもし!」
「美月」
「雪斗、今どこに居るの?」
「取引先と急に飲みに行くことになった。今終ったところ」
そう言う雪斗の声は少し疲れている様に感じた。
「大丈夫?」
心配になって言うと、雪斗の声が柔らかくなる。
「ああ。連絡出来なくてごめんな」
「……うん」
「何か有ったのか?」
「何も無いよ」
本当は聞きたい事が山ほど有る。でも雪斗は今、疲れてる。
それに電話で話す様なことではないから。
「気を付けて帰って来てね」
勘の良い雪斗に気付かれない様に、努めて明るく言うと、雪斗は一瞬沈黙した。
……どうしたの?
「悪い、今日は近くのホテルに泊まって行くから」
「えっ?」
思いがけない言葉に、高い声が出てしまった。
「ごめんな。明日も早いから早く休みたいんだ」
「……どこに泊まるの?」
「いつものホテル。もう着くところだ」
「……」
「美月?」
私の名前を呼びかけて来る雪斗の声は、気まずさを含んでいる。
それとも、私がそう感じるだけ?
「やっぱり様子が変だな。大丈夫か?」
大丈夫じゃない。今、雪斗が帰って来ないのは不安だし、辛い。
今夜は側に居て欲しかったのに。
確かに、雪斗は仕事で遅くなる時ホテルを使う事が有る。
でも私と一緒に住む様になってからは、遅くても帰って来てくれていた。
それなのに、どうしてこんな時に……。
「美月?」
「……ごめん、ぼんやりしちゃって。私は大丈夫だから、明日会社でね」
結局、言い出せなくて、不安なまま雪斗との電話を切るしかなかった。
雪斗は本当に疲れて会社の近くに泊まるだけなんだろう。
頭でそう分かっているのに不安は募るばかりだった。
どうして私は悪い方にばかり考えてしまうんだろう。
雪斗の態度を見ていれば私を裏切る様になんて見えないのに。
私は無駄な心配をしているだけなのかもしれない。
でもほんの僅かな気がかりが気になって仕方ない。
望まない結果が待っている気がして、そんな風に思いたくないのに私は自信が持てない。
雪斗との関係にも、他の女性と比べた自分にも。
もっと強くなりたい。常に悪い結果を想定して、必要以上に傷付かない様に覚悟を決める様な……そんな考え方は止めたい。
ただ、純粋に雪斗を信じて幸せな恋をしていたい、そう思った。
翌朝。鏡に映った自分の顔を見てため息を零した。
あまり眠れなかったせいか、顔色は悪く肌は荒れている。
メイクで何とか誤魔化して、いつもより少し早く家を出た。
仕事の前に雪斗と少し話せたら。近くのホテルに泊まるのだから、雪斗も早めに出社するだろうし。
電車の中で着信を確認する。
でも、待ちわびている雪斗からの連絡は無かった。
会社に着くと、カフェラテも買わずに真っ直ぐ営業部のフロアに向かった。
まだあまり人気の無いオフィスを見回す。
ちょうどそのとき扉が開き、雪斗がフロアに入って来た。
長い足で颯爽と歩く姿はいつもと変わらない。
でも私と目が合った瞬間、雪斗は一瞬だけど顔を強張らせた。
今までみたいに、目元に優しい笑みを浮かべてはくれなかった。
……どうして? 気のせいとは思えない。
急な外泊に、少しの態度の変化。
私は、これが何を意味するのか考えるのが恐かった。
日中は思いがけないトラブルがあり対応に追われている内にあっという間に時間が経っていた。
対策ミーティングを終えてようやく落ち着いたのが、午後八時前。
私は片付けのため一番最後に会議室を出た。さすがに疲れを感じてゆっくり歩いていると、いくつか並んだ打ち合わせルームのひとつから聞き覚えのある声がして足を止めた。
「明日の打ち合わせには私も同行するわ」
よく通るこの声は真壁さんのものだ。それなら相手は……。
「同行する必要は無い。真壁は他にも案件が有るだろう」
答える声は予想通り、雪斗だった。
同じチームなんだから一緒に居ても不思議じゃないけれど。
「調整済だから大丈夫」
でも、真壁さんの本音を聞いた今、心が騒めくのを止められない。
「ねえ、藤原君、この後時間取れない?」
素っ気ない雪斗にじれたのか、真壁さんが話題を変えたようだ。
先入観があるからか、誘ってるみたいな声に聞こえてしまう。
「この後? 何か有るのか?」
怪訝そうな雪斗の声。
「少し相談が有るの」
「相談?」
「ええ、藤原君に聞いて貰いたくて」
真壁さんの声は、私と対峙しているときとはまるで違い弱弱しい。
きっと雪斗も心配になるはずだ。チームの仲間だし相談と言われて断ることはできないだろう。
「今日は時間が無い。明日の朝一に時間を取るからどこかスペースを確保しておいてくれ」
思った通り雪斗は、真壁さんの相談を断らなかった。
「会社じゃちょっと……他の人に聞かれたくないことだから」
「……仕事の話じゃないのか?」
雪斗の声が少し低くなった。
「ええ、仕事だけでなく、プライベートの相談にも乗って欲しくて」
真壁さんがいつもより早口に言うと、沈黙が訪れた。
……どうしたんだろう。雪斗はどうして返事をしないの?
今、どういう状況なの?
心配いなった直後聞こえて来たのは、とても冷ややかな雪斗の声だった。
「そんな相談俺にするな」
「え……あの、藤原君?」
真壁さんの戸惑いの声がする。彼女にとっても予想外の返事だったのだろう。
けれど雪斗は遠慮なく言いつのる。
「プライベートの悩みは友達にでも聞いて貰えよ」
「でも男の人の意見も聞きたくて……」
「男の知り合いなんていくらでも居るだろ?」
「ふ、藤原君……」
「俺はもう帰る。打ち合わせの続きは明日で問題ないな」
取り付く島も無いとはこのことだろう。
呆気に取られていると、会議室の扉が勢い良く開いた。
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