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二十七
「アトレティコ・セビリア戦の後、ゴドイ監督に聞いたよ。一九九〇年に、いとこが殺されたって。名前は、エレナ・リナレス・ハポン。当たり前だけど監督、すごく悔しそうで悲しそうだった。ゴドイ監督が、コーチの君と自分のいとこのエレナ・リナレス・ハポンとを同一人物視できていない理由は、催眠術の力ってところかな」
神白は一度言葉を切った。呆気に取られた様子のエレナからは返答が来ない。
「君が良ければ教えてくれないか。恩人の死の真相だ。俺も知っておきたいよ」
真摯さを込めて神白が告げると、エレナの表情に苦いものが混じった。だがやがて決心したような顔になり、「そっか、もう知ってるんだね」とエレナは静かに言った。そしてそろそろと口を開く。
「前も伝えたとおり、私はヴァルセロナで生まれて、十七歳の時にヴァルセロナSC・フェメニにスカウトされた。そこからひたすら頑張って、十八歳でトップチームに昇格した。充実した日々だった。優しくて仲間思いのチームメイトと切磋琢磨して、休日には一緒に買い物なんかに出掛けたりして。そうそう、日本の京都にも行ったのよ。友達二人と一緒にね。スカウトされてから初めての冬だったかな。不思議な感覚だったな。初めて見る日本の町並みはずなのに、どこか懐かしいというか、ね」
エレナの口振りは、素晴らしい日々を慈しむようなものだった。神白はこれから語られるその日常の終わりに、切ない気持ちになる。
「だけど、幸せな日々は長くは続かなかった。一九九〇年の夏だった。私は一人で、ヴァルセロナの夜道を歩いていた。すると前から、たくさんの人ががやがやと騒ぐ声が聞こえてきた。炎みたいな光も見えた。すぐに私は、カタルーニャ独立のデモ集団に出くわしたって気づいたの」
エレナの声音が沈鬱な物に変わった。神白は、何と返して良いかわからず黙り込む。
「私は逃げようと考えた。けど私とデモ集団の間に子供の姿が見えた、気がした。助けようと近づいた。でも子供なんていなかった。次の瞬間、私は額に凄まじい熱を感じた。デモ隊は騒ぎたいだけの偽デモ隊で、何も考えずに火炎瓶を投げたんだね。私はうずくまって助けを求めた。でも誰も来なかった」
(頭に、火炎瓶?)恐ろしさのあまり神白は絶句した。
「火炎瓶は次々と飛んできた。私は燃え上がりながら絶叫した。暴れた。熱かった。苦しかった。痛かった。頭がおかしくなりそうだった。でもどうにもならなかった。私の意識はしだいに薄れていった」
神白は戦慄した。地面に向けるエレナの瞳は、深い闇を湛えている。
「死の瞬間、頭の中で不思議な声がした。マリア様の声だってわかった。そこで私は『未来のヴァルサの英雄となる神白樹のサポート』という自分の使命を知って、クァンプ・ナウの礼拝堂のマリア像に宿った。それから十五年後のあの日、実体化してあなたと出会い、催眠術の力で救った。不思議な声の主から貰った力なのよ」
「火に、巻かれて……。なんて壮絶な……」衝撃のあまり神白は、エレナから視線を落とした。すると左肩に、柔らかい感触が生じた。顔を上げると、エレナが右手を置いていた。神白に向ける表情は、諦観の滲んだ悲しい微笑だった。
「悲しんでくれてありがとう。私はもっと生きたかった。栄光のヴァルサで、もっともっとサッカーをしたかった。
だけど、この三ヶ月間は充実してたのもほんとよ。出会って三日目の紅白戦の後、君にルアレ対ヴァルサの試合を体験させてあげたでしょ? 催眠術の力だけど、あれは百年後の試合を模しているの。神白君は二十二世紀になってもまだ、たくさんの人に慕われているんだから」
エレナは愛おしむような眼差しを神白に向けた。遠い未来に思いを馳せて、神白は神秘的な気持ちになる。
すると、エレナを包む光がいっそう強くなった。するすると天へと昇っていき、エレナの身体もふわりとわずかに浮き上がる。
「エレナ!」やりきれない思いの神白は反射的に叫んだ。耳に届いた自分の声は、とてつもなく悲哀に満ちていた。
「頑張ってね、神白君。倦まず弛まず努力を継続すれば、君はすっごい選手になれるの。
私のことは心配しないで。これから私は、マリア様の在す天の国で穏やかに過ごすのよ。じゃあね、さよなら!」
溌剌とした調子で言い放ち、エレナはウインクした。そしてゆっくりと、天へと導かれていき──。
「待て! 待ってくれ!」神白は轟く声で叫んだ。エレナの昇天がぴたりと止まった。
「マリア様、なんだよな! 頼むよ! エレナを、エレナを生き返らせてくれ!」
神白は空に向かって必死で言い放った。エレナが驚きで目を見開く。
「だっておかしいだろ? ひたむきに生きてきたエレナが、自分の危険を顧みず偽デモ隊から子供を助けようとしたエレナが。恐ろしく苦しい死に方をした挙げ句、十五年も像の中に閉じ込められて、役目を終えたらさよならだなんてさ!」
「私の力を使えば不可能ではありません。ただし、知っておかねばならない事柄があります」
女性の声が響いた。清らかで冒しがたく、神聖そのものな声色だった。神白は直感的に、聖母マリアが自分に語りかけてきているのだと知った。
「いまやこの場にいる誰もが、エレナと自分との交流の記憶は捏造された偽のものだと知っています。また既にかけた催眠術の効果は、私にも解除できない。すなわちエレナの両親やいとこのゴドイは、知識としてエレナが自分の肉親だとは知っていても実感はありません。いわばエレナは天涯孤独であり、彼女を取り巻く人間関係は酷く歪んでいます。
それに加えて、十五年前に死亡したものが死亡時の姿で現れることに、世間は奇異の目を注ぐでしょう。これが、道理を曲げて復活することの弊害です。他にも思いがけない困難がエレナに降りかかるでしょう。それでも貴方はエレナ・リナレス・ハポンの蘇生を望みますか?」
穏やかな問いかけを受けて、神白はエレナに顔を向けた。しばらく見続けるがエレナからは返答がなく、不安そうな眼差しを神白に送るのみだった。
神白はふうっと息を吐き、おもむろに口を開いた。
「望みます」
きっぱりと告げた。すると不思議な光は一層強くなっていった。神白は思わず目を閉じた。
数秒ののち、ゆっくりと目を開けた。エレナが目の前に立っていた。顔付きは明るいとは言えず、蘇りへの戸惑いをありありと感じた。
「心配いらないよ、エレナ。誰が君の敵に回ろうとも、俺は君の側にいる。君が何者だろうとも、俺は君とともに歩き続ける」
エレナの瞳を見据えつつ、神白は言葉を紡いだ。
エレナは面映ゆいような笑顔になった。頬に一筋の涙がつたい、ぽとりと地面に落ちていった。
「うふ、何それ。プロポーズみたいじゃあ──」
「プロポーズだよ」
冗談めかしたエレナの返事に、神白は毅然と言葉を被せた。エレナは信じられないといったように大きく目を見開く。
「この三ヶ月、俺は君の好意に何度も助けられてきた。嬉しかった。言葉では表せないぐらいに。それに気づいたんだ。君のことがどうしようもなく気になる。君が何を考えてるのか、君が何を好きで何を嫌いなのか。全部全部知りたい、理解したい。──って自分でも何を言ってるのかわかんないな。でも、そんな感じなんだよ」
神白が思いの丈を打ち明けると、エレナは柔らかく微笑んだ。あまりにも眩しい笑顔に照れ臭く感じつつ、神白は続ける。
「俺はもうチームから給料を貰っている。だから、自分の人生は自分で決めるんだ。君と結婚して、君をすべてから守るよ」
きっぱりと言い切った。エレナは涙を零しつつ、こくりと頷いた。
一瞬の静寂の後に、ぱちん。近くのゴドイが手を打ち鳴らした。他の者も拍手を始め、やがて辺り一帯に盛大な音が響き始めた。
神白は一歩、エレナに近づいた。ふわりと背中に手を回し、そっと抱きしめた。エレナも神白に身体を預ける。