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勤務時間後、和海に肩をつかまれた。
「鳥居先生、今日、一杯どう?」
「部活は?」
僕も和海もサッカー部の顧問。和海が正顧問で僕が副顧問。僕が顧問を外されたから現在サッカー部顧問は和海一人。
「鳥居先生と外で話がしたいから今日の部活は五時まででいいかってキャプテンに聞いたら、〈もちろんOKです、おれたちはシュン先生の復帰を信じてますから〉だとよ。まったくいい生徒を持ったもんだぜ。ってことで行こうぜ」
「いいね。でも行けないんだ」
「そんな気になれないか?」
「そうじゃなくて、お金がないんだ」
「今日、給料日なのに?」
インターネットバンキングにログインして預金残高の画面を見せてやった。
「残高0円!?」
「全財産持ってかれた上に、今日振り込まれた給料も入金してすぐに妻の口座に全額送金された」
「奥さんがやったのか? それは窃盗だし経済DVだ。DVされてるの、鳥居先生の方じゃん!」
経済DVという用語は初めて聞いた。それを言えば家を出ていく前だって、僕の小遣いは月に二万円しかなかった。以前は愛妻弁当があったけど、三年前からはそれもなくなった。昼食代もガソリン代もその二万円でまかなわなければならなくなった。もしかしたらそれも経済DVなのかもしれない。
「飲み代はおごる。というか必要なら金も貸す」
「大丈夫、なんとかするから。って答えたいけど、正直当てがないから、貸してくれるなら本当にうれしい」
「喜んで貸すけど、とりあえず事務室に行って給料の振込口座変えてもらえよ。来月もまた全部持ってかれるぞ」
夢香に子どもたちを連れ去られて以来ショックなことの連続で、その程度のことにも考えが及ばなかった。僕は言われたとおり事務室で手続きして、和海と街に繰り出した。和海は更衣室に置いてあったスーツに着替えている。勤務中はジャージで勤務後はスーツ。よく考えたら体育教師って不思議な人種だ。
「僕を励まそうとして飲みに誘ってくれたんだよね。年度末の忙しいときなのに申し訳ない」
「いちいち謝るな。ちょうどおれも飲みたい気分だったんだ」
個室居酒屋に入り、僕らはさっそくビールで乾杯した。和海は車を学校に置いてきた。今夜はとことん飲むつもりらしい。
「一応確認しとくけど、本当にDVや不倫はしてないってことでいいんだな?」
「うん、結婚後の十年間はもちろんその前の三年間の交際期間だって、そんなこと一度もしたことない。妻に浮気してるんじゃないかって疑われたことはあったけどね」
「疑われるようなことをしたのか? 浮気を疑われた相手って誰だ?」
急に尋問するときのような口調になった。でも僕は動じない。
「安田先生だよ」
「へ? おれ?」
「スマホを調べられて、連絡先のこの女は誰だ? って」
「確かに名前が和海だからときどき女と間違われることはあるけど、奥さん、鳥居先生のスマホをチェックしてたのか?」
「うん、週一くらいでチェックしてた。じゃあ僕も君のスマホの中を見たいと言うと、男のくせに気持ち悪いって手を払いのけられたけどね」
「聞けば聞くほどひどい奥さんだな。うちとは大違いだ」
和海も確か結婚して十年目。奥さんと小学生の二人の息子がいる。
「安田先生の家庭は円満みたいでうらまやしい。うちなんて――」
もう三年もセックスレスで、とつなげようとしたけどやめた。そんな話するのはさすがにみっともないか。
「うちなんて?」
「いや、なんでもない」
「もしかしてレスられてるとか?」
和海の勘がいいというより、僕の心が弱っていて気持ちがダダ漏れなのだろう。
「うん」
「期間は?」
「もう三年」
「うーん。セックスレスに経済DVって奥さん有責で離婚できるんじゃないの?」
「いや、離婚する気はないよ」
「そこまでされても奥さんを愛してるわけ?」
「うん。今はちょっとおかしくなってるけど、もともと優しい人だったんだ」
思いきりため息をつかれた。馬鹿にされてるみたいで、さすがに腹が立った。
「鳥居先生、いいかげん目を覚まそうぜ。どう聞いても奥さんの態度のおかしさは〈ちょっと〉じゃない。セックスレス以前に、会話もなかったんじゃないの?」
「いや、会話はあったよ。主にしゃべるのは妻の方だったけど」
「ふーん。奥さん、どんなことをしゃべってたんだ?」
「確か一回隠れて録音したことがあったはず……」
スマホのサウンドレコーダーアプリを立ち上げて再生ボタンをタップするなり、ここ数年聞き慣れた罵声が飛び込んできた。
「ほんと、俊輔ってウザいしキモいし最悪だよね! いつも疲れた顔してさ。私の周りにはいつも輝いてる素敵な男性が何人もいるのに、なんでよりによってこんな冴えない男と結婚しちゃったんだろう?」
夢香、あなたは疲れた顔してると僕を非難するけど、毎日毎日何時間もあなたの罵詈雑言を浴びてれば多少疲れた顔になるのは仕方ないんじゃないのかな?
ここにいない夢香に心の中で語りかける。当然何の返事もない。僕らはどこで間違ってしまったんだろうね。心の中の夢香はいつだって出会った頃のように優しく微笑む――
気がつくと、和海が手酌をしようとしたままの姿勢で硬直している。
「その音声データ、おれにも送ってくれ」
「面白半分に誰かに聞かせるつもりならお断りだよ」
「そうじゃない。それは鳥居先生が奥さんにDVなんてしてないという証拠になるじゃないか。いや、むしろ鳥居先生が奥さんからDVを受けていた証拠として使える」
もちろん僕はそんなつもりで録音したんじゃない。ではなぜ録音したのか? たぶん今みたいに誰かに聞いてほしかったんだろう。僕の無惨な結婚生活の実態を――
「もしかしたら不倫も奥さんの方がしてるんじゃないか」
と言い出して驚いた。
「妻を侮辱するなら許せない」
「根拠がなく言ってることじゃない。前任校の先輩が言ってたんだ。女は不倫すると態度が変わるって。優しくなる場合と冷たくなる場合があって、優しくなる場合は家庭を壊す気がないただの浮気、冷たくなる場合は離婚も覚悟した本気だということだ。専業主婦だったその先輩の奥さんは、最初は気持ち悪いくらい優しくなって、そのうちどうしようもないくらい態度が悪くなったそうだ。興信所に依頼したらあっさり不倫してると分かって、子どももいなかったからその先輩はさっさと離婚した」
「つまり僕の妻の場合、浮気じゃなくて本気だと……?」
「そうなるな。馬鹿だよな。不倫なんて誰も幸せになれないのに。その先輩の奥さんも離婚したはいいけど、本気だったのは奥さんだけでさ、不倫相手にあっさり捨てられて、先輩に土下座して復縁をお願いしたそうだ。もちろん先輩は拒否。実家の親にも勘当されて、今は安アパート住まいで老人ホームで介護のパートをしながらかつかつの生活を送ってるらしい」
もし夢香が不倫していたとしてそれがいつからかと考えると、僕に冷たくなりレスも始まった三年前辺りが怪しいわけか。
とりあえず言われたとおり和海のスマホに音声データを送り、そのあとは嫌なことを忘れて飲みに飲んだ。二軒目のあと、
「次は風俗行くか。もちろんおごるからさ」
と酔って気が大きくなった和海が言い出した。もう一度言わせて録音して、奥さんに聞かせてやろうかと思ったけどやめた。もちろん風俗店にも行かなかった。
どうやら和海はたまに行ってるようだけど、僕は結婚してからその手のお店に行ったことはない。昼食代・ガソリン代込みで毎月のこづかいが二万円だからどうせ行けるわけがないのだけどね。
「今そんなに現金持ってるなら、そのお金を貸してくれよ」
と言ったら快く貸してくれた。今まで真面目に生きてきたと思う。実は人にお金を借りるのはこれが初めてだった。人に貸したことはある。確かそのお金は返ってこなかった。もともと返さないつもりで僕から借りたようだ。当時、僕の身近にも悪人はいたんだなと驚いた覚えがある。
もしかしたら妻の夢香もそっち側の人間だったのだろうかと一瞬疑って、頭の中でその思いを打ち消した。もしそうなら十年間の僕の結婚生活のすべてを否定することになる気がして。そのとき僕はまだ夢香と関係修復した未来を夢見ていた。