真夜中に帰宅して泥のように眠るつもりだったが、眠れなかった。体は疲れている。ひどく酔ったまま最寄り駅から自宅マンションまでふらふらしながら帰ったから。
タクシーで帰れよと和海には言われていたが、現在無一文に等しい状態だから、少しでもお金を浮かせるために歩いた。
だから体はとても疲れている。でも眠れない。夜の闇が僕の空っぽの心の中に侵入してきて、孤独な僕をさらに不安にさせた。
夢香が不倫していたんじゃないかと言われて、まず心がえぐられた。それが遊びではなく本気の不倫だとしたら、夢香は二度と僕のもとへ帰ってこないということか?
僕らの仲は三年前からおかしくなったが、結婚前の交際期間を含めたそれまでの十年間は本当に幸せだった。
交際を始めて半年後、僕らが初めて結ばれるとき、当時二十四歳だった夢香は初めてだから優しくしてねとはにかんだ。ただのリップサービスかもしれないけど、僕はそれを信じた。
僕は初めてではなかった。二十歳のとき、モテない僕は大学のサッカー部のチャラ男に頼んで同い年の彼女を紹介してもらった。僕はその子を好きになった。童貞を捧げた相手も彼女。お金に困ってると言うから喜んで十万貸してあげた。
ところがすぐ返すと言ってたのに、口ばかりで全然返ってこない。しまいには、
「そういう細かいところが嫌い!」
と逆ギレされてフラれた。彼女はすぐに違う彼氏を作って、僕をブロックした。
彼女を紹介したチャラ男に文句を言うと、
「あいつ、いい体してるけど、金にも男にもだらしないからな」
と笑っていた。
僕は恋人を紹介してと頼んだのに、チャラ男はセフレを紹介したつもりだった。つまり、頼む相手を間違えた僕が悪かったのだろう。
夢香と初めて結ばれたあとも彼女の方から誘ってくることは一度もなくて、いつも僕の方からいいかなと誘って、彼女がうんと答えて愛の行為が始まった。そんな清楚な彼女が不倫?
美人で、年上の僕よりよほどしっかりしていて、しかも料理上手。この人を逃したら、絶対にこの人以上の人と結婚できない。そう信じて夢香と結婚した。
かわいい娘も二人できた。
「パパ大好き!」
「お姉ちゃんより望愛の方がパパ大好きだもん!」
そんな姉妹の言い合いに思わずほっこりした日々もあった。もう二度と僕に幸せは来ないのだろうか?
ダブルベッドに四十路の男が一人。眠れない夜のつれづれに、Xで妻子に逃げられた男たちのポストを次々に見ていく。
〈逃げられ男にならないための八か条〉という標語(?)がよくできていて、思わず見入ってしまった。
1 嫁の無言を許容だと思うな
2 怒りを小出しにしないタイプが怒った時は終わりの時
3 自分の親は嫁にとっては他人、むしろお互い敵同士
4 「悪意はない」を絶対に免罪符にするな
5 嫁の愚痴は貴重な情報収集の場だと思え
6 産前産後の嫁は野生動物、手厚く保護しろ
7 終わった事、済んだ事と思っているのは夫だけ
8 釣った魚にも餌は必要、やらないと愛が餓死する
僕に足りなかったものはどれだろう?
1はない。無言だったのは僕で、夢香は我慢できないことがあるとすぐに僕に文句をつけた。
2はどうだろう? 夢香は見たことないような怒りを毎日のように僕にぶつけてきていた。それでも怒りは蓄積されていくものなのだろうか?
3も違うな。そもそも僕の親とは別居だし、僕の親も僕の家に押しかけてきたりはしなかった。夢香はこの三年間僕の実家に行くことを嫌がり、ずっと僕の親に会ってもいない。逆に夢香の両親がしょっちゅううちに押しかけてきては自分の家のように振る舞い、僕を閉口させた。
4のセリフはむしろ夢香の口癖だった。たとえば、帰宅時間が遅い日が続くことを注意すると、こんなふうに返された。
「遅くなったものはしょうがないでしょ! 悪気はなかったんだからいちいち責めないで!」
そのくせ僕がちょっとした失敗をすると鬼の首を取ったように僕を責める。それこそ悪意なんてなかったのに。
5が一番可能性がある。夢香の愚痴はたいてい僕のふがいなさに関して。休日にだらけてるとか、おならしたとか。結婚しても恋人時代と同じようにずっとカッコつけてないといけないのか? 緊張感がまるでないのも考えものだけど、ずっと緊張してろというのも息がつまるんですけど。
6は当時それなりに気を遣ったつもり。それとも、〈つもり〉はあくまで〈つもり〉でしかなくて、気遣いが全然足りなかったのだろうか? 優しい旦那さんでよかったと当時は夢香に感謝されたものだけど。
7は本当に身に覚えがない。夢香と知り合ってから浮気どころか風俗店を利用したことだって一度もない。ギャンブルもしない。借金もない。家事や子育てもできる限りやってきた。
8もいろいろ考えてやってきた。部活の指導があるから土日はつぶれる方が多かったけど、それでもやりくりして外食は月二回、家族旅行は季節ごと、記念日には奮発したプレゼント。でもこの何年かは外食に行っても旅行に行っても、夢香はずっとスマホをいじってるだけ。僕はいいけど、せめて子どもたちには楽しい思い出を作ってやってくれと内心イライラして見ていた――
8について考えてる途中でようやく僕は眠りに落ちた。夢の中に大学時代の彼女が出てきた。
「今頃何の用?」
と問いかけたら、
「私はずっとあなたの隣にいたけど」
と答えた彼女の顔が夢香の顔になっていて、思わず僕は跳ね起きた。結局ほとんど眠れなかった。