やはり、明らかに弱っていく姿は周囲の目から誤魔化せない。
今まで明るく振る舞い、のらりくらりと交わしてはきたが、体はもう限界を告げている。
こうなったら、いっそ学園長にこの想いを打ち明けてしまった方が楽になれるのかもしれない。
答えが「否」であったとしても、この胸の痛みに比べれば、きっと耐えられるはずだ。
――いや、違う。
打ち明けることすら、僕には許されない。
彼の瞳に映るのは、この僕自身ではなく、あの歴史上の人物だけなのだ。
僕はただの代用品に過ぎない。だから…この想いは墓場まで持っていくしかない。
「はぁ……」
そんなことを屋上でぼーっと考えていたのがいけなかったのだろう。
「おや、貴方が溜息なんて…珍しいこともありますねぇ」
不意に耳元でかけられた声に、心臓が文字通り跳ね上がり、
反射的に喉の奥から甲高い悲鳴が飛び出した。「きゃっ!」などという我ながらヒドイ悲鳴を上げてしまったことに
心底驚く。なんて情けない。足元がおぼつかなくなり、バランスを崩して盛大に尻餅をついた。普通に痛い……。
呻きながら顔を上げると、学園長が呆然とした表情で僕を見下ろしていた。
「大丈夫ですか?後ろから声をかけてしまったことは、謝りますが、
あまりぼーっとしていると怪我をしますよ」
「あ、学園長…す、すみません……」
学園長から小言を言われつつも、立ち上がろうとすると、すっと前に手が差し出された。
その行動に一瞬戸惑ったが、好きな相手が自分を気にかけてくれている。その事実に胸が高鳴り、
少しでも触れていたいという切ない願いとともに、恐る恐る自分の手を重ねた。指先が触れた瞬間、
温もりが伝わってきて、なぜだか泣きそうになった。
「………」
「…晴明君? 少々涙目になっていますが、やはり…どこか痛みますか?」
「え…、ぁ、…大丈夫です! ちょっとホコリが目に入っちゃって」
「……、……そうですか」
学園長の手を借りてようやく立ち上がる。体が離れると同時に、先ほどまで重なっていた手の温もりがふっと消えた。
その唐突な喪失感に、言い知れぬ寂しさと、もう少しあのままでいたかったという残念さが胸をよぎる。そんな僕の
複雑な心中を見透かすように、学園長は静かに口を開いた。
「晴明君。少々お話がありますので、後ほど学園長室へ来て頂けますか?」
「え、 …っと、すみません…
これからたかはし先生の所に行かないといけなくて……」
「…そうですか。……それなら、終わるまで付き添ってもいいですか?」
学園長から付き添いの提案をされ、思わず言葉を失う。
喉元まで、いつものように「是非」という言葉が出そうになったが、寸前で飲み込んだ。
「えっと、学園長はお忙しいでしょう?
…たかはし先生の所に行って、少し見てもらうだけですし、それに、大したことじゃないですよ…」
来て欲しくないと願うも、学園長は食い下がってくる。
「ですが、晴明くん。あなた明らかに弱っていってますよね? 妖怪と人間では、違うことも色々とあります。
大したことないとは言いきれませんし、私を移動手段として、扱っていただいて構いませんから」
学園長の真意が分からず困惑を隠せない。なぜ、ここまで踏み込んで言うのだろうか?
普段の彼なら、部下の個人的な背景に感情を露わにするような真似はしないはずだ。
……考えれば考えるほど、一つの結論に辿り着く。
やはり、自分が稀代の陰陽師、安倍晴明の生まれ変わりだからなのか。
その事実に直面するたび、自分の胸の中で重くのしかかった。
ぐちゃり、ぐちゃり、と胸の内で気持ちの悪い音が鳴り響く。
それは、まるで泥濘を素手で掻き回しているような、あるいは、
もっと形容しがたいナニカが変質していく音のようにも聞こえた。
「……晴明君――「学園長~!」」
学園長が言葉を継ごうとした、その矢先だった。タイミング良く他の先生から呼び出しがかかる。
助かった――心の中で安堵の息をつき、「学園長、呼ばれてますよ」と、その背中を見送り、
僕は足早にたかはし先生の病院へと向かった。
たかはし先生の病院に着いてからは、もう酷いものだった。
ここ数日、無理に押さえ込んできた吐き気と頭痛が、待っていたとばかりに襲いかかってきた。視界が歪み、
胃の底からせり上がる不快感に、思わずその場にうずくまりそうになる。
気づけば、たかはし先生に肩を貸してもらい、半ば引きずられるようにして診察室へと運ばれていた。
「さて、お兄さん。僕としては、解剖させてくれた方が嬉しいけど、
今日はどうしたの? 顔がすっごい真っ青だけど…」
明くんの座るデスクの向かいに腰を下ろし、
ここ数日の体調不良が日を追うごとに悪化していることを伝えた。
明くんは黙って頷きながら、いくつか質問を投げかけてくる。全てを答え終えた後、彼は一度ペンを置いた。
その表情は、決して良い知らせではないことを物語っていた。
複雑な面持ちで、彼はゆっくりと口を開いた。
「現在、お兄さんは精神的に非常に不安定な状況だよ」
「薬で症状を抑えることはできるけど、最も重要な治療はストレスの原因から距離を置くこと。
それができない限り、お兄さんの回復は見込めないかな」
次の言葉が喉に詰まり、僕は黙り込んだ。頭の中が真っ白になる。
そんな僕に対し、彼は苛立つ様子や急かす様子もなく、まるで迷子の子供に話しかけるような、驚くほど優しい声で
質問を重ねてきた。その温かい声に、張り詰めていた心が少しだけ解けるのを感じた。
「…ねぇ、お兄さんのストレスの元凶って
……もしかして、学園長のことだったりする?」
「………え」
思わぬ言葉にぽかん…と口が開く。
「前に、いろんな教師達と飲みに行ったことがあったでしょ?その時、
お兄さんと学園長の会話を聞いちゃってて」
「き、聞いてたの⁉」
「ごめんね、盗み聞きする気はなかったんだけど、たまたまそのタイミングで起きちゃって」
あの時の会話が、まさか聞かれていたなんて。
恥ずかしさで顔から火が出そうになった。困惑が頭の中を駆け巡り、
なんとも言えない複雑な気持ちに襲われる。穴があったら入りたいとは、まさにこのことだろう。
「……お兄さんは、どうしたい?」
明くんは、お医者さんだから。この状況なら当然聞かれるだろうと覚悟していた。
分かっていたことだ。
だから、躊躇いはなかった。あの日以来、
ずっと胸の内に秘めていた思いも含めて、僕はすべてを彼に告げた。
「…このまま何も告げないで、我慢して生きてく」
「……告げないってことは、忘れるってこと…?」
「忘れたくても、忘れられないから、ずっと抱えていくよ…」
明くんは、目を見開いて苦しそうに眉をひそめていた。
「……医者としてじゃない、ただのたかはし明として、言いたいんだ」
「どうか、少しでも可能性がある方にかけて欲しい。
好きな人に想いを告げず、ずっと引きずって、ボロボロになってくお兄さんを僕は見たくない。」
「お兄さんには、このまま変わらず生きててほしいんだ、だか「…たら」…え?」
「想いを告げて、もし、もし、無理なら? 学園長は今だって色んな責任を背負ってあそこに立ってる、
更に僕なんかが思いを告げたら迷惑じゃないか……明くんにあたっても仕方ないのは分かってる。
拗らせてしまった、僕が、好きになった僕がいけないんだ……」
ぽろぽろと零れ落ちる涙を乱雑に拭い、繕うことなく、ぐちゃぐちゃの心中を晒した。
しばらくの間、診察室には僕のすすり泣きと、時計の針が時を刻むカチカチという音だけが響いていた。
その重苦しい空気を打ち破ったのは、明くんの静かな声だった。
「…わかった。酷いこと、言ってごめんね。まずは、症状の治療という形で進めようか」
「グズッ…治療方法は、ないんじゃ」
「うん。気休め程度のものだけどね。想いを告げないって言う希望した患者さんのために、
そういう提案をするっていうのが、妖怪と人間、どちらにでも共通したものがあるんだ。」
明くんは冷静な声で、今後の過ごし方や、週に一度の通院日程を告げた。
「気休め程度だけど」と彼は付け加え、彼は吐き気止めと頭痛薬の入った袋を僕に手渡した。
その言葉通り、劇的な効果は望めそうになかった。
見送られる際、いつでも来ていいからと、そう告げられた。
その言葉は、単なる事務的な案内ではなく、
彼の気遣いが滲み出ていた。僕は小さく頷き、病院を後にした。
寮に帰ると、いつも通り過ごす。
いつもと違うのは、持ち物に吐き気止めと頭痛薬を追加したことぐらいだろう。
それは、崩れかけた日常を繕うための、ささやかなお守りのようだった。
それからの日々は、変わらぬ日常が続いた。
ただ、
向けられる視線だけが違っていた。狸塚くんと秋雨くんは、動物妖怪特有の鋭い勘で僕を心配そうに見つめてくる。
凛太郎くんと飯綱くんもまた、何かを察したように、何か言いたげな目を向けてくる。
そんな視線を感じながらも、僕はいつも通りを装い続けた。
数日経過――。
…やっぱり、恋という病はなかなか治らない、
休日の街角で、学園長が見知らぬ女性と歩く後ろ姿を目撃した時。あるいは、彼が僕ではない『ご先祖様』に向けた
甘い視線を感じた時。ズキズキと胸が痛む頻度は増すのと同時に、身体は正直に悲鳴を上げ、
そして、だんだん吐く頻度や頭痛が増えていった。
いつも通り教員室に入り、手早く荷物をまとめる。一刻も早くここを出たい。
普段なら、この後に学園長の朝礼が始まる。顔を合わせるのは避けたかったため、
たかはし先生に頼み込んでいた『呼び出されている』という名目で、僕は足早に教員室を後にし、保健室へと向かおうとする。
まぁ、当然呼び止められるわけで……
「おはよ…あれ?晴明、どこ行くんだ?」
「飯綱くん、おはよう!ちょっと、たかはし先生に呼ばれてて、保健室に今から行ってくる」
たかはし先生の名前が上がった途端、すごい勢いで顔が引いて強ばっていた。
「?なんでまた、こんな時間に」
「あー、最近体調が悪くて、一応問診だけでもってことで…」
ふーん、と飯綱くんは、怪しがる様子を見せていたが、僕はその視線から逃げるようにその場を去った。
後ろから、「なんかあったら絶対言えよ!」という言葉を投げられつつも、追いかけては来なかった。
保健室に着くと、たかはし先生が椅子に座って待っていた。
「あ、おにーさん!」
元気よく僕の名前を呼ぶと、僕の状態確認が始まった。
「前に言っていた症状以外何も出てない?」
「うん、他の症状は特にないかな…」
朝礼が終わるまでのわずかな時間、僕たちは保健室で向かい合った。病院では時間がなく端折られた説明を、
たかはし先生は改めて落ち着いた口調で補足してくれた。職員室とは違い、保健室ではどこかホッとした空気が流れていた。
「――って、とこかな。他になにか聞きたいことはある?」
「ううん、大丈夫。何から何までありがとう」
「そんなことないよ、僕は医者だもの。患者さんのこと(すべて)を考えるのは当然だよ」
「なんか、カッコの中が見えた気がするけど……そろそろ時間だし、教室に行くね」
保健室を出て、参組の教室へと向かった。
参組のみんなには当然心配されたし、いつもドSっぷりを発揮する佐野くんすら、
ちょっと優しかった。…それを指摘したら、服を弾き飛ばされたけども。
今日も何事もなく、一日が終わってくれる。
そう思ってた。
授業も一通り終わり、教室を出る際も生徒たちに囲まれた。「何かあればすぐ頼れ」と、耳にタコができるほど繰り返された。
彼らなりの心配や気遣いが込められた言葉だと分かっている。心がポカポカと温まっていくのを感じ、
僕は職員室への廊下を歩いた。
「皆さんお疲れ様です。おや、凛太郎くん。その手に持ってるものはなんでしょうか?」
「ゲッ……」
「凛太郎が手に持ってるもの? ………ああ、酒っすね」
「そうですか、では減給しときましょうかね」
職員室のドアを開けた瞬間、背筋が凍りついた。中にいたのは今一番会いたくない、学園長その人だった。
いつもは忙しくて不在がちなのに、なぜ今日に限って私の席の前に立っているのか。
逃げよう。そう思った矢先、学園長の鋭い視線と真正面からぶつかってしまった。
「ああ、安倍先生。ちょうどいいところに…。
この前にも言いましたが少々お話がありますので、学園長室へ来て頂けますか?」
サッと血の気が引く感覚を感じる。
「……あー、すみません。やらなきゃいけない事が残ってるので」
「終わってからで構いませんよ。」
「……、分かりました。」
こういう時ばかりは、あの人が上司である事を恨んでしまう自分がいる。ああ、行きたくない。
今はこの人と一言も言葉を交わしたくない。心の底から逃げ出したいという衝動に駆られた。
「あれ、晴明くん?顔真っ青やけど…もしかして、体調また悪くなった?」
学園長から視線を逸らせずにいると、背後から凛太郎くんの声がした。
反応するのにワンテンポ遅れ、掠れた声で答える。
「…っあ、り、凛太郎くん!ううん、大丈夫だよ!」
心配そうに僕を見つめる凛太郎くんの頭を撫でようと手を伸ばした、その瞬間。
パシッと音を立てて手首を掴まれた。驚いて目線を向けると、僕の手を阻んだのは、他ならぬ学園長だった。
「……安倍先生。急ぎの用事だった事を思い出しましたので、すぐに学園長室へ行きましょうか。」
「えっ、ちょっ、と……」
辞めて下さいと言おうとした言葉は、学園長の怒っている雰囲気を感じ取り思わず呑み込んでしまった。
それ程までに〝怒っている〟という威圧感が凄まじかった。
逃がすまいとする学園長の指が食い込み、手首が悲鳴を上げた。後には、
彼の大きな手の跡が痛々しいほど鮮明に残った。
どうしてそこまで、彼は怒っているのだろうか……?
コメント
7件
続きが気になって朝しか眠れないです。ましでほんとに最高です😭😭
もう晴明の想いがめっちゃ私の心にのしかかって来ました....😭✨臨場感が半端ない!!学園長の話も気になる、、、一花さんの作品毎話最高すぎますっ!!🍀
初コメ?ですけどすみません!! 前々から思ってたんですけどなんですかこの素晴らしい作品たち!!いつも私の心にズキズキというかグサグサとくる私の求めている作品はっ!!一花さんの作品いつもご堪能させて頂いてます、続き楽しみにしてます!!( ˶>ᴗ<˶)✨