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伊月は睡蓮の白いブラウスの上から聴診器を離した。
「叶さん」
「はい」
「前回の受診、|呼吸機能検査《スパイロメトリー》と血液検査の結果は悪くはありませんでした」
「そうですか」
X線撮影のレントゲン画像を写し出し、眉間に皺を寄せて顎をなぞった。
「今週に入ってから中程度の発作が2回」
「はい」
「お薬は服用されていますか」
「はい、飲んでいます」
それにしても顔色が優れない。伊月は呼吸器内科医師ではなく個人、幼馴染の田上伊月として声を掛けた。
「睡蓮さん、この後お時間ありますか」
「あ、はい。あります」
伊月は腕時計を確認し顔を挙げた。
「あと20分間で休憩に入ります、お茶でも飲みませんか」
「お茶」
睡蓮は一瞬戸惑った面持ちをしたが右の手で髪を掻き揚げた。
「無理にとは言いません」
その言葉に睡蓮は軽く頷いた。
「何処で待てば良いですか」
「んーーーー、そうですね10階の談話室で待っていて下さい」
「分かりました」
「なるべく早く行きます」
「はい」
会計を終えた睡蓮は上階へと上るエレベーターのボタンを押した。5階、4階、3階で止まって降りて来た扉はゆっくりと開き鏡の中にその顔が映った。
(酷い顔だわ)
頬も青ざめているが貧相で卑しい顔をしている。
(ーーー私、こんな顔をしていたかしら)
10階のボタンを押すと2階を過ぎた辺りで壁が途切れ、眩しい日差しが睡蓮を照らし出した。思わず目を細め階下を眺めた。
(鳥になりたい)
行き詰まった思いに首を振った。
(ーーー私、なんて事を考えているの)
チーーーン
扉が開くと白衣を脱いだ伊月が談話室の窓際の席で手を振っていた。
白い壁の談話室、身に着けた白いブラウスに浮き上がった睡蓮の面立ちは病院という場所に相応しく明らかに体調が思わしく無い事を表していた。伊月はこの4年間睡蓮の主治医として接して来たが、これ程までに体調が優れない姿を見た事がなかった。
(ーーー酷い顔だな)
「お待たせしました、会計が混んでいて」
「いや、僕も今来た所だから。なににする?」
睡蓮はホットミルクを指差した。立ち昇る湯気、白いカップに付ける唇も色味が無い。伊月はここ暫く続く喘息の発作の原因は心因的緊張に依るものだと考えた。
「こうして話すのは何年振りかな」
「私が高等学校を卒業した時、お祝いに花束を持って来て下さいました」
「あぁ、そうだったかな」
「はい」
伊月は指折り数え「7年かな、僕もすっかりおじさんだね」と言って笑い、睡蓮も口元を綻ばせた。
「ーーーそんな事ありません」
「そうかな」
「はい」
「睡蓮さんの婚約者の方は何歳なの」
睡蓮の顔が強張った。
(ーーーやっぱり)
今回の縁談が喘息発作の原因だと伊月は察した。先日、木蓮と会った時に睡蓮の様子がおかしい、仲違いをしているとは聞いていた。
「30歳です」
「僕より2歳も若いんだ」
「そんな2歳なんて」
「僕も早くお嫁さんが欲しいな」
「伊月さんならお医者さまだし、出会いは沢山ありそうですけれど」
伊月はアイスコーヒーのカップを握って意を決した。
「僕には心に決めた人が居るんだ」
「そうなんですか」
「うん」
「素敵な人なんでしょうね」
「素敵な人です」
睡蓮はまるで自分が告白されているような心持ちになり下を向いた。
「そ、そうなんですか」
「で、睡蓮さんの悩みはなに?」
「ーーーーえ」
「辛そうな顔をしているよ」
伊月はその顔を覗き込んだ。
睡蓮はカップをテーブルに置くと伊月の肩越しに|医王山《いおうぜん》の山並みを見つめた。
「この前、くまのぬいぐるみを木蓮に投げ付けたんです」
「それはまた凄いね」
「小学生の時、お父さんがお土産に買って来てくれたぬいぐるみでベージュと焦茶のくまだったんです」
「睡蓮さんと木蓮の髪の色みたいだね」
「お父さんはそのつもりで買って来たんだと思います」
「それでどうしたの」
睡蓮はカップの側面を撫でながら呟いた。
「でも木蓮に取られちゃったんです」
「ベージュのくまを?」
「はい」
「それが原因でふたりは喧嘩をしているの?」
「喧嘩?」
「木蓮が困っていたよ。睡蓮がどうして怒っているのか分からないって」
「お見合いの日ですか」
「あーーハンバーガー屋で話しただけだよ」
「ハンバーガー」
「子どもの時と変わらないよ」
伊月は襟足をポリポリと掻いた。しばらくすると睡蓮の口から溜めていた思いが溢れ出した。
「私、元気な木蓮が羨ましかった」
「羨ましかったんだね」
「外で走り回りたかった、木にも登りたかった」
「そうなんだ」
「ワンピースも青色が良かった、ベージュのくまが欲しかった」
「欲しかったんだね」
伏目がちな黒曜石の瞳から涙が伝い落ちた。
「くまじゃないんです、分かっているんです」
「分かっているんだね」
「ーーーでも欲しいんです」
伊月はため息を吐いた。
「好きなんだね」
その問いには一瞬の間があった。
「分からないんです」
「分からない?」
「伊月さん、私、分からないんです」
「初めは好きだと思っていたんです」
伊月はナフキンを睡蓮の手に握らせた。睡蓮は溢れて止まらない涙に白い布地を押し当てながら嗚咽を漏らした。周囲は何事かと振り返ったが、伊月はテーブルの上で睡蓮の手のひらを握り静かに相槌を打った。
「でも、雅樹さんが木蓮の事が好きだって、木蓮が良いって、赤い指輪が」
「赤い指輪?」
「雅樹さんが、木蓮の為に作った指輪ーーー私には、私にはお店で、お店で買った、買ったネックレスで、木蓮には、木蓮には」
「羨ましかったの?」
睡蓮は力強く頷いた。
「みんな、みんな木蓮に取られちゃう」
「でも雅樹さんは物ではないんじゃないかな」
「く、くまじゃないんです、分かって、分かっているんです」
ここが誰も居ない場所だったら伊月は睡蓮を抱き締めただろう。目の前で泣きじゃくる睡蓮は出会った時の3歳の女の子となんら変わりは無かった。
「くまじゃ、くまじゃないんです」
双子だからこそ生まれる|歪《ひず》みに25歳の睡蓮は翻弄されていた。
ーーーーーーーーーーーーー
ピンポーン ピンポーン
<ご来院中の皆様にお知らせ致します。病院裏B駐車場、緊急車両出入り口付近に駐車中のお車は大至急ご移動お願い致します、繰り返します>
時折流れる館内アナウンスと人の騒めき。病院内の食堂はやや混雑し窓際のテーブルには2枚のトレーが並んでいた。
「あんたがA定食?」
「木蓮はB定食が良いって言ったじゃないですか」
「アジフライ美味しそうね、半分頂戴」
「じゃあ、木蓮のコロッケ半分交換して」
「ちぇーーーー」
「ちぇーーーーってどれだけ食べるつもりなの」
「悪かったわね、睡蓮みたいにか細くなくて」
「本当に」
2人が箸でそれぞれの皿に取り分けていると|恰幅《かっぷく》の良い女性が木蓮と伊月に話し掛けて来た。
「あら、叶さん」
「ーーーふぁい?」
木蓮はアジフライに|齧《かぶ》り付きながらその顔を見上げたが見覚えはない。女性は伊月の肩をポンポンと叩くとニヤついた。
「田上先生、《《また》》泣かしちゃ駄目ですよ」
「なんの事でしょうか」
「談話室で叶さんの事、泣かしたって噂になってますよ」
「えっ、そうなの?」
「恋愛話は外でお願いしますよ!」
「恋愛話、恋愛話じゃありません!」
女性はカッカッカッと笑って奥の席に座った。
「あの人、誰」
「呼吸器内科の婦長さん」
「私と睡蓮を間違えたのね」
「そうですね」
「なに、そんなに見分けが付かない?」
「接点が少ない人には判別がつかないでしょうね」
「中身はこんなに違うのに」
「本当に」
2人は無言で箸を動かした。
「ねぇ」「あの」
2人は同時に呼び合い、木蓮は伊月に断る事なく話し始めた。
「睡蓮、なんて言ってた?病院から帰って来てからずっと部屋から出て来ないし、ご飯はお母さんが部屋まで運んでて引き籠り状態よ」
「ーーーーそうですか」
「|大人気《おとなげ》ない」
「その事なんですが」
木蓮は豆腐とわかめの味噌汁の腕を持った。
「睡蓮さんは心的外傷後ストレス障害、PTSDの様な気がします」
「なに、そのPTA」
「トラウマと言います」
「あぁ、あれね嫌なことを思い出して「ああああー!」ってなっちゃう」
「木蓮が言うと緊迫感が無いですね」
その木蓮の口からはわかめがダラリと垂れ下がっていた。伊月は「この2人が1人で半分に出来れば良いのに」とその顔を見た。
「それが睡蓮の引き籠りとなにか関係があるの?」
「赤い指輪に心当たりはありますか?」
「ーーーーーああ」
それは雅樹が2度、3度と木蓮の指に嵌めた深紅のヴェネチアンガラスの指輪だ。思い当たる節があるといった表情の木蓮を前に伊月は箸を皿に置いた。
「あと、くまのぬいぐるみ」
「お父さんが買って来たティディベアね」
「ベージュと焦茶、睡蓮さんと木蓮の髪の色と同じ色ですね」
「そうね」
「木蓮がベージュのくまのぬいぐるみを選んだ事が睡蓮さんには大きなショックだった様です」
「く、くま」
「小学生だった睡蓮さんは《《自分を取られた》》と感じたのかも知れません」
「ーーーそんな」
木蓮も箸を皿に置き伊月の顔を凝視した。
「わざとじゃ無いわ」
「木蓮は悪くありません、仕方の無い事ですから」
「でも」
「睡蓮さんが少し繊細なだけです。木蓮だってご両親が睡蓮さんの入院につきっきりで寂しい思いをしたでしょう」
「ーーーうん」
「木蓮も我慢したでしょう」
あれ程婦長に釘を刺されたのに今度は木蓮が泣き始めてしまった。ただ木蓮は睡蓮のように繊細ではなく、自身で紙ナフキンを摘むと鼻をかみ始めた。
「伊月ーーーーーぃ、あんたくらいだわそう言ってくれたの」
「あ、婆ちゃんから聞いた事を言ったまでです」
「又聞きなんかーーーーい!」
「まぁ、そんな感じです」
2人は大きなため息を吐いた。
「本来ならば心療内科を受診した方が良いのですが睡蓮さんもご両親も戸惑われる事でしょう」
「そうね、いきなりPTAはないわね」
「PTSDです」
「細かいわね」
「それで今度は赤い指輪が木蓮さんだけの物だと知って《《自分が否定》》された様に感じたのかもしれません」
「それは」
「それも木蓮のせいではありません」
木蓮はプラスティックのコップを握ると一気に飲み干した。
「伊月」
「はい」
「睡蓮は婚約者の事をベージュのくまだと思っていたりする?」
「その可能性はありますね」
「睡蓮はティディベアと結婚するの」
「こればかりは専門医ではないので私にもわかりません」
「どうしたら気付くと思う?」
「睡蓮さんが自分で自覚しない限り難しいと思います。頭ごなしに「それはくまじゃないんだよ」と言っても傷つくだけです」
ピンポーン ピンポーン
<呼吸器内科の伊月先生、外来までお願いします 繰り返します>
「ごめん、呼び出しだ」
「片付けておくわ、あ、伊月」
「なんですか」
「あんた、睡蓮の事が好きなんでしょう。なんとかならないの」
「ーーー力になれればとは思っていますが」
「それは心強いわ」
「じゃあ、また連絡します」
「またね、さんきゅ」
まさかあのティディベアが原因だったとは思いも寄らなかった。「こんな色のティディベアなんか要らなかった!」結納の夜に木蓮に投げ付けられた焦茶のくま、それならば睡蓮の奇行にも合点がゆく。
(睡蓮が自分で気が付かないと)
事の重大さを知った木蓮は雅樹の顔を思い浮かべた。
(あいつの事が好きだ、嫌いだとか言っている場合じゃ無いわね)
やはり雅樹とは縁が無かったのだ。テーブルに肘を突き|医王山《いおうぜん》の山並みを眺めた木蓮の頬に一筋の涙が流れた。
ーーーーーーーーーーーー
コンコンコン
木蓮はベッドの上で膝を抱えて耳を塞ぎながらその気配を感じていた。睡蓮の部屋の扉をノックする音が指の隙間から漏れ聞こえて来る。和田雅樹が部屋に閉じ籠ったままの婚約者を見舞いに来たのだ。
コンコンコン
「睡蓮、睡蓮、雅樹さんが来て下さったわよ」
「睡蓮さん大丈夫ですか」
愛おしい人の声が姉の名前を呼ぶ。
(婚約破棄なんて無理よ)
睡蓮と雅樹が結婚すればこんな場面を何度も目の当たりにする。いっその事、雅樹の事を嫌いになれたら良いのに忘れてしまえれば良いのにと、木蓮はティディベアの一件があってから強く思うようになった。
ガチャ
頑く閉ざされていた睡蓮の部屋の扉が開いた。これまで両親が何度声を掛けても応じなかった睡蓮が雅樹の|一声《ひとこえ》に反応した。
「睡蓮さん、どうしたんですか」
「雅樹さん」
「まぁ、ほら母さん。2人で話す事もあるだろうから」
「そうね。雅樹さんはどうぞお入りになって」
「ーーーはい」
雅樹は横目で木蓮の部屋の扉を見た。睡蓮がその目の動きを見逃す筈も無く、雅樹の腕を引き自室へと招き入れた。
バタン
閉まる扉、そこでどんな遣り取りが行われるのか。
「あら、木蓮どうしたの」
「ちょっと出掛けて来る」
「雅樹さんがいらしているからお寿司の出前でも取ろうかってお父さんと話していたんだけれど、木蓮もどう?」
「ーーー要らないわ」
「取り分けておく?」
振り返ると不安げな面立ちの母親が木蓮を見詰めていた。
「じゃあ、イクラと真鯛、カンパチ、あとホタルイカ」
「早く帰るのよ」
木蓮の笑顔は強張っていた。
「うん、伊月と会って来る」
「おお、伊月くんと会っているのか!」
ハンバーガー屋での見合いが不発に終わってしまったのではないかと肩を落としていた父親の目が輝いた。
(ーーー睡蓮の事でね)
睡蓮は自分が構って貰えないと嘆いているが、それこそ木蓮も自分の境遇に孤独を感じていた。
「睡蓮さん、部屋に閉じ籠るなんてどうしたんですか」
叶家から連絡があった時は単なるお嬢さまの我儘で部屋に籠っているのだろうと軽く考えていた和田雅樹も睡蓮のやつれ具合に驚きを隠せなかった。
(ーーーここまで酷いとは思わなかった)
それは結納の晩からだと聞いた。
(まさか、木蓮と会っていた事に気付いたのか)
「睡蓮さん」
「雅樹さん、名前で呼んで」
「ーーーはい?」
「木蓮みたいに睡蓮って呼んで」
やはり原因は木蓮だった。
「それはちょっと」
「ちょっと、なに」
「恥ずかしくて」
「木蓮は良くて私は駄目なの」
雅樹は大きなため息を吐いた。
「睡蓮さん、あなたはもくれ、木蓮さんとは違うんです」
「どういう意味なの」
「あなたは私の婚約者で、叶さんの大切なお嬢さんです」
「ーーー婚約者」
「はい」
睡蓮は雅樹の腕に|縋《すが》り付いた。
「私は雅樹さんの婚約者なのね!?」
「ーーーそうです」
「結婚出来るのね!」
「婚約者ですから」
「木蓮とは違うのね!」
「木蓮さんは友だちの様なものです」
「そうなの!」
「だから気軽に呼び捨てに出来るんです」
「そうなの!」
睡蓮の表情はみるみる明るいものへと変化したが、雅樹の心の中には暗雲が立ち込め諦めに近い感情が広がって行った。
(ーーー出会い方が悪かったんだ)
和田医療事務機器株式会社は昨年度の決算が奮わず叶製薬株式会社から金銭的援助を受けたと手渡された報告書に記載されていた。これで叶家との縁談を白紙にする事は不可避となった。
(木蓮とは縁が無かったんだ)
「雅樹さん、睡蓮!」
「はい」
「お寿司が届いたわよ、下りてらっしゃいな」
「はーい」
睡蓮は雅樹の冷たい唇に口付けた。
「雅樹さん、お寿司食べて行って!」
「は、はい」
雅樹の笑顔は強張っていた。
木蓮は当て所なく歩いていた。伊月に会うなど咄嗟の言い訳でしか無い。睡蓮と雅樹、それを囲む両親の幸せな|団欒《だんらん》を見る事が辛かった。
(はぁ、ハンバーガーでも食べに行こうかな)
悲しいかなこんな時でも腹は減る。横断歩道が点滅し走り出した瞬間、低い車のクラクションが鳴った。タイミングが悪く通行車両の妨げになってしまったのかと振り向くと、そこには運転席の窓から手を振る伊月の姿があった。
「まさかここであんたと会うとはね」
「|自宅《いえ》近いじゃないですか、今まで会わなかった方が不思議ですよ」
「そうね」
「でしょう?」
木蓮は車内のエアコンやオーディオ機器を弄りながら革張りの助手席シートを撫で回した。
「まぁーーそれにしても外車とか、絵に描いた様な医者ね!」
「実際、医者ですから」
「だよねぇ」
突然黙り込んだ木蓮は車窓に流れるLEDライトの景色をぼんやりと眺めた。
「木蓮、どうしたの」
「あぁ、一家団欒から逃避行よ」
「一家団欒、ですか?」
「睡蓮が部屋から出て来たのよ」
「良かった、それにしてもどうしてまた突然」
気不味い間が空いてしまった。
「あぁ、婚約者が見舞いに来たのよ」
「婚約者」
「和田医療事務機器の御曹司よ」
「あぁ、成る程、そういう結婚ですか」
「まぁ、そういう結婚よ」
伊月はルームミラーで不貞腐れた様な面持ちの木蓮を見遣った。
「睡蓮がその、名前は」
「和田雅樹」
「睡蓮が雅樹さんの事を好きなら木蓮も雅樹さんの事が好き」
「はぁーーーーーーー!?」
「違いますか?」
「ええええ、なに、あんた占い師かなんかなの」
「医者です」
木蓮は薄暗がりでも分かる程に顔を赤らめて伊月に噛み付いた。
「ちっ、違うから!好きじゃないから!」
「そうなんですかーーー?」
「違うわよ!」
車は左折し横断歩道で一時停止、自転車が通り過ぎた。
「外来に向かう時、一度食堂に戻ったんですよ」
「だからなに!」
「泣いていましたね」
「見てたの!?声掛けなさいよ!」
信号機が赤に変わり伊月はブレーキペダルを緩やかに踏んだ。
「いつもと違う木蓮を見た気がしました」
「だからなに」
「私と付き合いませんか」
「ハンバーガー屋」
「違いますよ」
伊月は木蓮に向き直り驚きの発言をしその突拍子もない申し出に木蓮は目を白黒させた。
「木蓮、私と付き合いませんか」
「は、はーーい?」
「清く正しい男女交際です」
歩行者信号が点滅し、信号機が赤から青へと変わった。
「ば、ばばばばばっかじゃないの!」
すると伊月はハンドルを握りながらブッと盛大に時速120kmの勢いで失笑した。
「本気にしたんですか」
「紛らわしい!そんな真剣な顔で言われたら誰でも本気にするわよ!」
「まぁ、あながち冗談でも無い、かな?」
「なによ、その疑問形」
木蓮の眉間に皺が寄った。
「スニーカーに木工用ボンドでも、それはそれで楽しい人生ですね」
「ヤモリは勘弁だわ」
「|1ct《カラット》の婚約指輪を差し上げますよ」
「あ、そ」
「まぁこの話はおいおい」
「でも、あんた睡蓮の事が好きなんじゃないの」
「好きだからと言って結婚出来る訳じゃないんですよ」
「ーーーそうね」
今の木蓮にはその言葉が痛いほどよく分かった。
「木蓮が雅樹さんを諦めた頃にまたお話しましょう」
「あんたは睡蓮の事を諦めたの」
「睡蓮さんの幸せが私の幸せです」
「ーーーなに、あんた神さまかなんかなの」
「医者です」
「分かったわ、私も伊月の事は嫌いじゃないから考えておくわ」
「そうして下さい」
「そうするわ」
木蓮は右手で髪を掻き上げ、伊月はその仕草を横目で見た。
「じゃあご馳走様」
「お粗末様でした」
「なにがよ!廻らない寿司がお粗末とか嫌味なの!?」
「また行きましょう」
伊月は木蓮の悪態に動じる事なく柔かな笑みを浮かべた。
「今度はビックリしたドンキーでハワイアンなハンバーグよ」
「何枚でも食べて下さい」
「じゃあね!」
「おやすみなさい」
今夜は伊月が|贔屓《ひいき》にしている江戸前寿司で廻らない寿司を堪能して来た。
(ーーー伊月も案外面白いじゃない)
これまで木蓮は伊月に対し、睡蓮との深刻な状況を打破する相談相手として接して来た。然し乍ら、|阿吽《あうん》の呼吸で自身の伝えたい言葉や感情の波を察してくれる幼馴染の存在は傷心の木蓮の心を癒した。
走り去る車のテールランプ、ハザードランプが3回点滅した。
(ドリカムかっつーーの)
ご機嫌でショルダーバッグの肩紐を振り回していると背後に強く触れた感触があり、木蓮は「ごめんなさい!」と慌てて振り返った。そこには険しい表情の雅樹が立っていた。
「なんだよ、見合い相手はハンバーガー屋じゃなかったのかよ」
「あんたまだ居たの」
「悪ぃか、出前の寿司をご馳走になってたんだよ」
「酒臭っ!」
「少し呑んだからな」
「へへーーーん、私なんて江戸前寿司よ、廻らないのよ、凄いでしょう」
「ーーーそれで外車かよ」
木蓮の口元はへの字になった。
「なに張り合ってるのよ、子どもじゃあるまいし」
「おまえ、幼馴染とか言ってたじゃねぇか」
雅樹の語尾は強く売り言葉に買い言葉、木蓮の声も自然と大きくなった。
「あんたに私の事をとやかく言われる筋合いはないわ!」
「そう、そうかもしんねぇけど!」
「婚約破棄するって言ったじゃない!」
「言ったよ!」
「もう無理なんでしょう!?」
「仕方ないだろう!」
(仕方、ない)
その言葉は木蓮から一筋の希望の光を奪い去った。
「仕方ないって言った?」
「ーーーああ」
「もう、もう無理なの」
「ーーーああ」
「あんたは私じゃなく睡蓮を選んだの」
「叶製薬から|和田《うち》の会社に金が渡った、もう無理だ」
「お金」
「金の貸し借りみたいなもんだ」
「だから睡蓮を選んだの?」
「睡蓮じゃない、会社を選んだ」
「同じ事よ、私じゃなく睡蓮を選んだのね」