余命一年の君へ
「上官の方ですね。」
ドアから担当の看護師さんが入ってきた。どうやら二人と入れ違ったようだ。
「この頃、この病院には毎日のように多くの自衛隊のお偉いさんが来ています。」
「そうなんですか…」
「うちの委員長、戦争が終わる前にできるだけ多くの患者様を退院させるか別の病院に移動させようと必死だったんですよ。ここは軍港のすぐ側の総合病院ですからね、戦争が終われば多くの負傷者がこの病院に来るのは明白です。今この病院に入院、通院してらっしゃる患者様の7割が自衛隊か米軍の方なんです。」
気さくな人だなと思った、僕はつい昨日から入院したばかりでこの人は僕とも初対面のはずなのに、他の看護師が担当の患者にする以上によく話してくれる。
「はい、さっき言った朝食です。」
そう言って彼女はベッドのテーブルの上に配膳を置いた。箸を取り、そっと手を合わせる。
「いただきます」
初めて食べる病院食は、船で食べた料理よりも少し薄味だった。
「こんなに広いもんなんだな、まるで公園じゃん」
朝食を済ませた僕は、病院の屋上庭園に来ていた。初めてこの場所に来た僕は、予想以上の広さに少しだけ驚いていた。ここは空気が澄んでいてとても居心地がいい。
庭園の階段を上がり展望台に上がった瞬間、僕は無意識に声が零れ落ちた。
「あ…」
あの人だ。昨日バルコニーで話した彼女、春海さんがベンチで1人本を読んでいた。嬉しかった、もう一度この人と会えたということが。あの夜、別れた後もう二度と会えなかったらと思うと怖かったから。
「ねぇ…いつまでそうしてるの、」
彼女は俯いて考え事をしていた僕の事に気づいていたようで、声をかけてきた。
「え、あ…いや、」
ぎこちない反応を返す僕に彼女は言った。
「座りなよ」
「あ、はい。」
僕は、彼女が刺したように彼女の隣に座った。長らく女性の隣に座るという経験がなかった僕は、少し落ち着かない感じがした。
「やっぱり、君もここに来たんだね。」
「は、はい。驚きました、病院の屋上庭園がこんなに広いだなんて」
「まあ、この総合病院の広さは他の病院と比べても頭一つ抜けてるし、この病院は近代モダン建築でオシャレなスポットばかりで映画やドラマの撮影でしょっちゅう使われてるからね。」
確かに、この病院のお洒落さはいささかやりすぎと言っても過言では無いぐらい洒落ている。病院なのに、そこらのカフェより若者が喜びそうなフォトスポットがいくつもある。きっとこの病院を作った人の患者へのメンタルケアも考慮した上での手腕だろう。
「そういえば、あなたの名前をまだ聞いてなかったわね。」
「あ、そういえば」
確かにあの夜、名を名乗ったのは春海さんだけで僕は名前を言ってなかったことに気づく。
「二葉 静志朗です」
「そっか、せいしろう君って言うんだね。感じはどうやって書くの?」
「苗字が二つの葉っぱで、名前が静かに志す郎です…」
「そっか、落ち着いたあなたにピッタリね」
「あ、ありがとうございます」
「ねぇ、その敬語やめない?私達、昨日も喋ったし、なんか君と話す時は敬語じゃ違和感があるのよね。」
「そ、そっか。じゃあタメ語で」
「うんうん、それでよし。やっぱりこっちの方がいいね。」
「でも、俺はまだ何か違和感があるって言うか…春海さんは何歳なんですか 」
「二十歳だよ」
「え、年上じゃないですか。俺十九ですよ…やっぱり敬語じゃないと申し訳ないです。」
「いいのよ、別に学校の先輩後輩とかの仲でもないし。あと、名前の『さん』もいらないよ。」
「いやいや、流石にそれは。人生の先輩…ですし…」
「ふふっ…何それ。」
あ、笑った
この人の笑顔をこんなに間近で見るのは初めてだ。その表情が、僕の心のどこかに小さな篝火を焚き付けたことに、この時の僕はまだ寸微も気づかなかった
「じゃあまだ『さん』は付けててもいいわよ。許してあげる」
そう言って彼女は、今度は少しいたずらっぽくほくそ笑んだ。同じ笑顔なのに、少しの変化で人の表情はこうも変わるということ、僕はこの時久しぶりに思い出した。
「せっかくこの病院に来たんだし、あなたはここの事ほとんど知らないと思うから、私が少し案内してあげるわ」
「え、いいんですか。あ、でもこの病院広いですし。」
「あ、また敬語使った。」
「…これ、慣れないよ…」
「そのうち慣れるわよ、そこまで頑張りましょ。今日は体調もいいし、だからこそ久しぶりにここに来てた訳なんだけど…。それに、あなたも私が言ったさっきのカフェに行きたいって言ってたでしょ、大丈夫、この病院を回るぐらいなら外出する時ほど歩く距離はないから、」
「…わかりました。お言葉に甘えます。」
「はいまた敬語!」
「あっ…」
「ふふふ、あなたって面白いわね。」
「…からかってます??」
「えぇ、もちろん」
その言葉に、僕は少しムッとしてしまった。
「何だか弟ができたような気分だわ…」
「早く行きますよ!」
「はいはい」
僕は彼女とゆっくり談笑しながら、この病院を歩いて回った。ここは僕が思っていた以上に広かったらしくさっき言われたカフェ以外にも運動施設や介護施設があり、病棟とされるここ以外にもこの周辺の土地全てが病院の管轄だそうで、中には海が一望できる広大なフォトスポットや橋、綺麗に白く聳え立つ灯台まであった。昼になったので僕らはさっき言っていたカフェに寄り、その後もゆっくり数時間かけてこの病院の敷地内を巡り回った。夕方、紅い太陽が煌々と僕らの横顔を照らす頃、僕たちはようやく海が見える広い通路のベンチに腰掛けた。
「ひ、広い…」
僕は普段から部隊で鍛えていたが、流石に病院がこれ程広いのは想定していなかったため、想定外に体力を使ってしまった。
「春海さん…っ!」
その時初めて僕は彼女の様子に気がついた。
「はぁっはぁ…」
ものすごく息苦しそうだった、それはもはや息切れとかそう言う次元ではなく、酸欠に近いものだった。顔が真っ青で、唇も青い。病院を回るだけと言っておきながら無茶をするからだ。
「だっ!大丈夫!?」
「…大丈夫、大丈夫よ…ごめんね、恥ずかしいな…あんな息巻いたのに。」
こういう時は一番楽な姿勢を取らせるのが良いと訓練時代に航海長から教えてもらった僕は、すぐ彼女にそうできるか伝えた。
「ら、楽な姿勢とれる?」
「…少し、寄りかかってもいいかしら…」
「う、うん…大丈夫だよ…」
彼女はゆっくりと僕の肩にもたれかかった。
少しづつ落ち着いてきたのか、彼女がぽつりぽつりと口を開く。
「私ね、もう三年もこの病院に来てるの。」
「そうなんだ。」
「えぇ、一昨年から入院してる」
その瞬間、昨日感じたあの不安感が一瞬脳裏をよぎった。嫌な予感に、背筋がゾッとする感覚。 『確かめたい』また、この感覚だ。
「長いね…早く治るといいね。」
その僕の言葉に、彼女は答えようとした。ほんの少し、声を出すために、肺に空気を入れるために、彼女が体を奮い立たせる。『聞きたくない』そんな僕の願い虚しく彼女は俯いて静かに、けれどもはっきりとそう言った。
「治らないわ…」
「え…どう…して…?」
「私、肺炎なの…」
その時、今まで僕が感じていたこの人に対する不安感の正体、それが全てわかった。
「肺炎…それなら、手術とか薬剤治療とか、やり方はいくらでも!」
「もう駄目なの、治療じゃどうにもならないところまで来てるって。三年前、余命宣告されたの。『残りの時間は…長くて四年です』って…」
「そんなっ…」
物凄く腹が立った。この病院の医者はなぜそんなすぐに患者の命を、春海さんの命を諦めたのか、四年もあるならその四年で死に物狂いで春海さんを助けてあげればよかったのにと。
僕が乗っていたむらさめの医官は、あの地獄の戦場で、どれだけ重症で血染った怪我人が運ばれて来ても『絶対に皆助ける』と血眼になって責務を全うしていた。あれが本来あるべき医者の姿ではないのか?
次々と理不尽な文句が出てくる。分かる、怪我と病気では全く治す難易度が違うことも、この大病院の超一流の医者が諦めるほどこの人の病気が重いということも、
俺が今やっているこの考えが、ただのクソガキの駄々こねだということも。
「だからもう、私は一年しかこの世にいられない。」
目の前が暗くなった、僕はこの人と出会ってまだ一日しか経っていない。戦友たちといた時間の長さに比べたら赤の他人のようなものだ。それでも、彼女があと一年で居なくなるという避けられないであろう運命は、僕を再び暗闇の地獄へ突き落とした。
「また…失うのか…」
「昨日の今日だけで、私をそんなに大切に思ってくれてたのね…」
どうやら、心の言葉が漏れていたようだ。
「もう大丈夫、ありがとう。あなたは何も失ったりしないわ、病院は今日案内した通りよ。あなたのこの先の人生は長い。私の事も、すぐに忘れられるわ…」
そうか、この人が昨日僕に名乗るのを一瞬躊躇った理由、僕の事を、思ってくれていたのか。僕は、情けない、恥ずかしい。本当に、人を守る人間の姿か?これが?
嫌だ、忘れたくない。この人を忘れるなんてことは出来ない。
彼女が立ち上がって背を向ける。
「それじゃあね、静志朗君…」
あぁ、行ってしまう。
なんでこの人は、僕の周りの人達は皆、僕の前から居なくなってしまうんだろう。春海さんの足音が遠ざかる。これを見送ればきっと、僕はまた一人ぼっちかもしれない。焦燥感が僕の背を撫でる。
この人と、もっと一緒に!
「グッ」
気づけば僕は彼女の手を掴んでいた。本当に、知らない間に体が勝手に動いた。その一瞬で僕は立ち上がり、彼女に駆け寄ったのである。でも、本能的に動いた体が作ってくれたチャンスを逃すほど僕は愚かじゃない。
「忘れるなんて絶対しない!春海さん、俺は明日も明後日も!一年後までずっと、あなたに会いに行きたい!もっと君と話がしたい!もっと思い出がたくさん欲しい!」
「静志朗君…」
「春海さんは昨日俺に言ったよね、『人は遺言を人生で一番誰かに伝えたいことをできるだけ多く伝えようとするものだ』って!だから俺は聞いて欲しい、君に!俺が誰かに伝えたい事、残したい事を!余命一年の君へ!」
駄目だ、これ以上は呼吸が続かない。一度酸素を吸わなければ。僕は深呼吸をして、もう一度口を開く
「春海さん…俺と、友達に…!」
そう言切る前に、気づいたら僕は彼女に腕を引き寄せられ、抱きしめられていた。
「私ね、本当はもう自分の人生を諦めてた。私の寿命はあと持って一年。その一年でなにかが変わるなんて思ってなかった。」
彼女が顔を上げる。
「でも、最後の一年。あなたに会えた。なんでだろうね、私たち会って少ししか経っていないのに、君の今の言葉、凄く嬉しい。顔がニヤケちゃいそう。センチメンタルにでもなってるのかな…」
「セ、センチメンタル…ふはっ」
笑ってしまった、よりにもよってこのタイミングで
「もう、何笑ってるのよ…」
幸せ…幸せだ、
やっぱり僕はこの人といる時間が楽しい。
「春海さん、俺と友達になってください。残された時間で、俺はあなたを支えたい。」
「…また一年後どうせ後悔するくせに、どうかしてるね」
彼女は笑う
「そうだね、どうかしてる。そうでもなきゃ、あの戦争を生き残れないよ」
「そうね…おかしな人だわ」
春海さんの目には僅かに光る雫が顔を覗かせていた。
あんなに厚かましく、僕らを照らしていた太陽はいつしか空からいなくなり、西にはその太陽がいたであろう場所に鮮やかなオレンジ色の世界が広がっていた。東の空には、日の代わりに登ってきたであろう幾千万の光の束と大きな満月が僕らを見守っていた。
涼しい陸風が彼女の白い髪を誘う夕暮れ、 人の居なくなった海の傍で
僕らはまだ、互いを見つめていた。







