一華の家に行ってから一カ月が経った。
その間に電話でスクールに通うことを伝えたとき、一華はとても喜んでくれた。
ただ、通うのは一カ月後にしてほしいと一華が言った。
なんでも個展を開くとかで、打ち合わせや作品の準備で落ち着かないらしい。
個展に合わせて新作を作ると聞いたときは自分のことのように嬉しかった。
必ず見に行くから頑張ってとエールを送ると一華はとても喜んでくれた。
来週からいよいよ一華のスクールに通う。
今日は主婦友の石坂さんの話を家で聞く約束になっていた。
お昼を過ぎたころに石坂さんがやってきたので、リビングに通して紅茶を出した。
紅茶を飲みながら他愛もない世間話をした後に本題に入った。
目の前に座る石坂さんは、涙ぐんでいた
ティッシュで涙を拭うと、私に話し始めた
私は大体週一で石坂さんの話を聞いている
彼女は家庭問題、主に夫との関係について悩んでいた。
そのため、隠れて睡眠薬を常備している。
ご近所付合いから親しくなった私は週に一度、こうして彼女の話を聞く関係になっていた。
彼女が言うには、こうした秘事を打ち明けるのは私だけらしい。
私と明さんはこの町に住むようになって二年ほどだ。
石坂さんには私よりも付き合いの長い友人がいるだろうに、それで私だけに打ち明けるというのは、私が他の主婦友とのネットワークが浅い新参者だからだろう。
私と石坂さんはリビングで向かい合って座った。
肌と髪に艶はなく、以前はスーパーに行くときでさえ化粧をしていたのに、今はしていない。
心に余裕がなくなってきていると思った。
おそらく食事のときも不安に苛まされるのだろう。
「最近はどう?薬の量は?」
努めて柔らかく聞いた。
「減ってきたと思う。こうして橋本さんに話すようになってから、随分楽になった」
「旦那さんの方は、相変わらず?」
「もう離婚したいとは思うけど……いろいろ踏ん切りがつかなくて。橋本さんはどう思う?」
「それだと、根本的には変わらない、また酷くなれば、薬の量も増える」
私は私の考えを率直に告げる。
「子供ができないうちは身軽だから、離婚すればその場からは逃れられる。でも根本的な解決にはならない。克服しないと」
自分を虐げた相手が健在で生きているという事実。それは自分の及ばないところで思考を巡らせているという妄想につながる。
「克服しなければトラウマとなってどこに行っても一緒にいることになる」
離れて新しい生活を始めても、いつか出くわしてしまうかもしれない。
「どうしよう、離婚してもダメってこと?」
「安全なところで、それこそ、相手が生きているということを忘れることができれば無かったことと考えることができれば、そうなれば大丈夫かも」
彼女の性格を考えたら現実的にそれは難しいだろう。
「なんでもいいから、自分の手で、今の状況を打開して乗り越えた。そう実感できる証があれば、きっと立ち直れる。あなたは強い人だから、勇気を持って一歩踏み出せば?」
私にできるのは励まして背中を押すこと、気持ちの整理を手助けしてやることくらいだ。
「でも離婚したら今の家を出ていかなくちゃいけないし……だいたいすんなり離婚してくれるかしら……」
言っていることが矛盾してきた。
一つのことを考えると、そのことへの不安が芽生えて、打ち消すために真逆のことを考える。
堂々巡りだ。
「今の家は快適?」
「うん……家はね」
「仮に家を慰謝料代わりにもらっても維持していける?できなければ慰謝料をもらって家を出るのと同じじゃない?どちらも相手次第では大変な時間と労力がかかるけど」
私の言葉を聞いて石坂さんは絶望したような声を漏らしながら肩を落とした。
「こんなはずじゃなかったのにな……」
「誰でも失敗したときはそう思うわ。多くの場合は自分に原因があるのに」
「私も……私に原因が?」
「誤った選択を自らしてしまった。結婚に向かない、妻を尊重できない相手を選択した。人を見る目がなかったことが原因よ」
まずは原因を自覚させる。
「でも原因がわかれば対処できる。解決する。そうすればやり直せるわ。もう一度理想の結婚生活が、家庭が持てる」
可能性があるという言葉を私は省いた。
今の彼女には必要ない言葉だと思ったから。
「でも離婚するにしても時間がかかるし……やり直せる時間があるのかなぁ……」
彼女が望むのは、選択肢の中に希望があること。
実現可能に見える「希望」。
「離婚だけが道ではないかも。他にも今の環境を切り開いて克服する道があるかも」
「どんな……?」
石坂さんはテーブルに手をついて乗り出してきた。
「石坂さんは頭良いし、心の奥では多分気がついていると思う。自分の声に耳を傾けてみて」
石坂さんの手を握り微笑む。
私の考える条件は提示した。後は彼女の考えが合致するかどうかだ。
また来週話すことにして、石坂さんは帰って行った。
石坂さんを見送ってからトマトに水をやるために庭へ出た。
ホースから水を撒くと虹が立ちあがり、トマトの実も葉でさえ喜んでいるように感じる。
一列目の子たちの収穫時期はもうすぐだ。
自分の育て上げた菜園を感慨深げに眺めていると、インターホンのチャイムが鳴った。
誰だろうと思い、リビングに戻りカメラに映された映像を見て見る。
これは……あのときの刑事、滝川という警部補だ。
「はい」
「橋本さん。警視庁の滝川です。橋本千尋さんは御在宅でしょうか?」
後ろにもう一人、前回は見たことのない刑事がいる。
もう一人は滝川警部補に続いて「佐山」と名乗った。
滝川警部補は警察手帳をインターホンにかざして要件を告げた。
あのときの刑事が家に来るなんて、思い当たるのは同窓会での薬物混入事件くらいだ。
いったいどういう要件だろう?若干の好奇心に駆られてドアを開けた。
「先日はどうも。今日はお忙しいところ申し訳ありません」
「あのう……この前の事件のことでしょうか?」
恐る恐る聞いてみる。
「いえ。今日は別件で。同級生の高橋さんのことでお話をうかがいたくて」
「高橋さん?高橋さんがどうしたんですか?」
「高橋さんが失踪しました」
「えっ……どうして?」
驚く私を見る二人の刑事の目は、普通の人からはなかなか感じることのない、鋭い雰囲気があった。
「高橋さんが失踪……どうして?」
顔を見合わせて目配せした後に滝川警部補が話し出す。
「実はホテルでの薬物混入事件では高橋さんは容疑者から外されました。高橋さんが所持していた薬物はホテルの食事に混入されたものと同じでしたが、状況的に彼女が混入した形跡はありませんでした」
「そうなんですか……では一体だれが?」
「それは現在捜査中です。ホテルの防犯カメラにも不審な人物は映っていませんでした。高橋さんも容疑者から外れましたが重要参考人ではあります。ところが失踪してしまった」
「どうしてそんな?」
「高橋さんは犯人ではありませんが、高橋さんを犯人と決めつけたような動画が拡散されました。ご存じでしたか?」
「いいえ……」
「ひどい誹謗中傷が寄せられて、ご主人のお仕事にも支障をきたすようになりました。そこに追い打ちをかけるように高橋さんの不倫がご家族に暴露されて高橋さんは家を出たのです。それが一週間前。その後の消息はつかめていません。それでこうして同級生だった皆さんにもお話をうかがっているのです」
絶句した。そんなことが起きているとはちっとも知らなかった。
「そして高橋さんのお話を聞いているうちに、気になることがわかりました」
「それは?」
「高橋さんの他に、一年前に小田さん、半年前に田島さんが行方不明になっています。お二人とも捜索願が出されていて、いなくなる前に周囲にストーカー被害を話していることがわかりました。高橋さんと小田さん、田島さんは中学時代から特に仲が良かったとか。だとしたらなにかしら事件に巻き込まれているのでは…… 警察ではそう見ています」
そういえば同窓会に小田さんと田島さんの姿はなかった。
都合がつかなくて欠席かと思っていたけど、まさか失踪していたなんて。
そんなこと誰からも話題に上がらなかった。
誰も彼女たちが失踪していることを知らなかったのだろうか。
「高橋さん達とは学校を卒業してからも親しくしておられたのですか?」佐山刑事が聞いてくる。
「いえ……とくには……ただ、同じ地元ですから高校に入ってからも見かけることはありましたけど、一緒に遊ぶとか連絡を取り合うようなことはなかったです……それに結婚して地元も離れましたし、もうずっと連絡を取っていません」
「そうですか。ではクラスメイトの方で今でも交流がある方から高橋さんの近況を聞いたことは?話題に上がるようなことはありませんでしたか?」
滝川警部補が聞く。
「いえ……そういった話は全然。……私が親しくしているのは、バスケット部で一緒だった子ですから。彼女たちも高橋さんのグループとは縁がありませんでしたし」
なにか嫌な感じのする話だと思った。
クラスメイトが三人も失踪。行方不明とは。
「すみません。せっかく来ていただいたのに心当たりがあるようなことは何も……」
「いえ。いいんです。こうした聞き込みが空振りに終わるなんてよくあることですから」
肩を落とす私を慰めるように
滝川警部補は言った。
優しい人だと感じた。
今の顔に、さっき感じたような鋭さは見えない。
この瞬間は刑事の顔ではないということだ。
背の高い、この若い警部補に親近感がわいた。
「あのう……滝川さん」
一寸見つめてから「なにか思い出したり聞いたら、この前いただいた名刺に連絡した方が良いですか?」と、続けた。
「はい。それはお願いします」
滝川警部補は折り目正しく一礼すると、佐川刑事も倣うように頭を下げた。
二人の刑事が去った後、トマトの観察記録をつけるべくノートを開いた。
「滝川さんか……」
さっき会ったばかりの顔と声を頭の中に描いた。
「滝川さんのトマトも作ってみようかな」と、独り言ちた。
そういえば刑事という職業の人に会ったことがあるのを思い出した。
もうだいぶ昔、13年前のことだ。
あのとき会った刑事も、さっきの滝川さんたちの様に目の中に鋭いものを持っていた。
あれは一華のお父さんが失踪してしばらくしてから。
そして一華のお母さんが自殺したときだった。
あの刑事、なんて名前だったっけ…… たしか…… 小野寺。
小野寺という名前だ。
名前を思い出した瞬間、記憶の中に埋もれていた小野寺の顔が鮮明に浮かんできた。
小野寺は滝川さんと違い、警視庁ではなく所轄の一刑事だった。
今でも刑事として働いているのかしら?
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