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「次、フリー入れる?」
スタッフの声に、軽く頷いた。
メンズ専門のボーイズクラブ。
男性同士の接客に特化したこの場所で、
僕は“玲”として働いている。
名前も、性格も、何も知らない。
それが“普通”。
ただ、流れるように役割を演じるだけ。
ドアを開けると、
客はソファに腰をかけて、
少しだけ首をかしげた。
「……あ、君か」
聞き覚えのある声だった。
見覚えのある顔。
傘を差し出してきた、あの日の。
「本日はご来店ありがとうございます」
表情は崩さない。
心も動かさない。
プロとして、ただ演じる。
気づかないふり。
忘れたふり。
向こうが覚えていても、
僕は“知らない”ことにする。
「たまたま近くてね。出張の帰りだったんだけど」
「お疲れさまでした」
「フリーで入ったけど……君に当たるなんて、運がいいのかも」
にやりと笑うその顔に、
悪意はなかった。
でも、
確信があった。
この方、わかっていて来ている。
そう思った瞬間、
胸の奥がざらついた。
「お名前、お伺いしても?」
「玲です」
「……へぇ、似合ってる」
似合ってる、って何が?
一般的な会話だと、
頭ではわかっていた。
なのに。
なぜか。
体温が、少しだけ上がった。
「……また来るかも」
帰り際、
ドアの向こうでそう言われた。
僕はただ、軽く頭を下げる。
「ありがとうございました」
声色ひとつ変えずに。
でも、
ドアが閉まったあと、
手が少しだけ震えていたことに、
自分でも気づいていた。
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