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目を開けると視線の先に床が見えた。僕の体もふわふわと宙に浮いているように感じた。だが、感じただけでは済まなかった。何故かいきなり呼吸が苦しくなった。首の周りが酷く痛い。次第に僕は自分の首元を締めていた。いえ、締めている訳では無い。正確には、僕の首を絞めている何かを外すために首元に手を伸ばしていた。徐々に薄れていく意識が僕の心臓を活発に働かせた。生きなきゃ、生きなきゃと必死に抵抗した。ここで死ぬ訳にはいかないのに僕の力ではどうすることも出来ない。正気では居られなかった。結局、僕の抵抗は虚しく心臓の鼓動が止まった。
僕は目を覚ました。先程の悪夢は現実か、それともただの空想なのか。手の甲を額に当て、クッションを仰向けで寝た。咄嗟にスマートフォンを手に取って時間を確認した。午後七時五十分だった。天気は曇りだ。だが、風が強いらしい。川の水が僕の身に降りかからぬように今日は雨用の傘ではなく持ち運びに便利な軽い傘を持っていこう。これは、紺色の柔らかい傘で筆記体の僕の名前が刺繍されている。お気に入りの傘の一つだ。
出掛ける準備が終わった。今日だけは大好きな紅茶を嗜む気にもなれなかった。僕は悪夢に魘されて気持ちが沈んでいた。今までに無いくらいのぐちゃぐちゃした感情が僕を突き刺す。今宵は天宮成瀬として生きよう。そう決意した時、玄関の扉を開け出発した。
早く渡瀬橋に着きたくてしょうがなかった。僕のぐちゃぐちゃとした感情を沈めてくれるのはもう、あの川しかない。
渡瀬橋に初めて行った日のことを覚えている。死にたくて仕方がなかった。ネットの投稿を見て僕より酷い思いをしている人の掲示板を見て恨みを晴らしていた。ざまぁみろと、せいぜい足掻き苦しめと、本当はこんな事考えたくもない。口をついてはこんなことを書き込んでいた。[匿名]として、僕は投稿者にアンチ行動を起こした。捨て垢だから、いっか。匿名だから、いっか。そんな軽い気持ちで毎日、嫌がらせを行った。
僕と同じように学校環境が恵まれていないネ友とチャットしたこともある。ネ友は、僕の環境を馬鹿にしてきた。キッズだった頃の僕は、人を傷つけることをしなくなった。次第に罪悪感で頭が一杯になった。ネ友は虐めがきっかけで学校を不登校になったらしい。僕は両親が激務で幼い頃から僕は独りの時間が多かった。防災訓練の時も僕の両親は居ないから、独りだけ迎えがないし。台風の時も先生に送って貰うことが多かった。だが、こんな暮らしをしていても耐えられる強さを父から貰った。誰かを想いやる優しさを母から貰った。どんなに寂しくても、誕生日だけは甘える機会がある。そこで今まで我慢してきた分まで僕のことをもてなしてくれる。だから、僕は産まれてきてよかったと、胸を張って言える。
両親の手厚い支えが無くても高校生、しかも私立。僕が生きているからもっと激務になった。僕が居るせいで負担を抱えていることを考えると申し訳なく思う。
そんな時、家の付近に川を人が渡る橋の工事が終わった、という話を聞いて胸が高鳴ったのを覚えている。何故なら、いつも向こうの公園へ遊びに行く時はわざわざ小道を通って、灯りのない人目のつかない場所を通っていかなければならなかったから。子供にとっては狂気の沙汰だった。市役所が動いてくれたのが不幸中の幸いだ。
だからと言って、僕には一緒に遊んでくれる友達が居なかった。僕は、独りで公園の方に向かった。川に高いビルが写る。まるで鏡池のようだった。並木道を通っていつも通っている小道を素通りし、橋の方に向かった。
看板を見つけた。この橋の名は、「渡瀬橋」最初は全く読めなかった。だが、クラスメイトの会話を盗み聞き情報を抜き取って「わたせばし」というのを知った。水面にきらきらと輝く魚の鱗、透明感溢れる水面に僕の顔が写った。その顔は笑顔だった。純粋無垢な少女のような、世の中の汚い部分を知らない暖かい表情。僕は、この橋に行くと幸せになれると確信した。今思うとただの勘だが、川の水の美しさに目を奪われたのは事実だ。今でも恋している。
僕が見つけたこの世で一番綺麗なもの。
僕は橋に着いた。今日は僕の悩みを吐き出した。泣きそうになりながら。近所迷惑になろうが僕には関係ない。僕の理想を訴えて罪が無いのは川だけだ。理想は、誰も彼も自分が好きだってことを認めて、生きていける時代。優しさを他人にあげなくてもいい時代。一生叶うことは無いのかもしれない。だが、好きを尊重出来る世の中というのは生きやすいのではないのだろうか。
僕が川に身を乗り出していると二メートル先の所から声が聴こえてきた。
「ちょっ!?君々!自殺しようとしちゃ駄目だよ!?危ないよ!?」
「え…?」
僕はいきなり左腕を掴まれた。それと同時に、痛みが走った。反射でその人の手を爪で引っ掻いた。その人は悲鳴を出した。僕は必死に抵抗してジタバタしていたらその人から
「君さぁ、まだ生きようよ〜!何があったかは知らないけど、お姉さんに教えてよー!」
と、言われた。この人は何を言っているんだ。
「あの、ナンパなら結構です。」
僕がそう言うと、その人がいきなり掴んでいた腕を離した。
「いやぁ…勘違いさせないでよ!君、何歳?未成年だったら帰ったら?ここに居ても危ないだけだよ?」
僕は鬱陶しいことを言われた。勝手に自殺と勘違いされて何も知らない不審者が僕のことを帰らそうとしている。事情も知らないのに、五月蝿いな。
僕は、その人に
「……死ぬ気はないです。用があってここにいます。良ければ私と関わらないで下さい。」
と言った。その人は頭をかいて困ったような表情をした。
「いやぁ…そうしたいのはやまやまなんだけどねぇ…仕事だからさ!その幼い容姿、申し訳ないけど補導対象として対処されるよ。未成年なら尚更!帰らさせないと、ね?バイトでもこの仕事にやり甲斐を持って取り組んでいるからね!だから、帰りな?危ないから。」
僕はその場から動かなかった。どんなにこの人の仕事だとしても僕には関係の無いこと。暗いと危ないということだろうけど、いきなり未成年に話しかける大人も大人だ。お前らのお節介のせいで更に僕は信用出来なくなった。独りの責任だから何も知らない大人にどうこう言われる筋合いは無い。
「何かあったの?」
そうか。此奴は僕を敵視しているのか。
「聞いたら分かって貰えますか?」
そう訊くと、この人は頭を撫でた。まるで子猫を労るかのように。
「…私って、思い詰めちゃう癖があって…それで…ぼ…私のことを思って言われたことが気持ち悪くなってしまって。ぼ…私の何がわかるのだって、思ってしまって。」
そう言葉を紡ぐと、優しい声色の相槌で僕の心を落ち着かせてくれた。普段は人の話ばかり聞いていたから、初めて人の暖かみに触れた。さっきまで、僕はこの人のことを煙たがっていたはずだ。 だが、この様な安心感を持てたのは少しは自分の成長を感じた。不思議な感覚、包容力のある暖かい手。まるで、海の中にいるみたいだ。
「ほらぁ…帰らないと、お姉さんが家に送ろうか?」
「…お願いします。」
「えっと…君、名前何?」
「…!!僕は、天宮成瀬と言います!お姉さん」
「よろしく、じゃー行こっか」
彼女は職場を離れてまで、僕に尽くしてくれた。何も知らないはずなのに。そっか、何も知らないから気負いなく話せて関わることが出来るのか。ぐちゃぐちゃとした感情が爆発してしまった。何故かは、全く分からない。何故か僕の頬が熱くなり目から大粒の涙を垂らしていた。生き苦しい人生だ。
僕はこの海に触れてしまった。傘を…浸してしまった。だが、後悔はない。僕は程なくしてソファに横たわった。深い、深い眠りにつく前に彼女の穏やかな笑顔を思い返した。彼女の笑顔を思い出すだけで胸がどきっと高鳴る。
僕の心を見つけた雨より、僕の記憶に深く刻んだ海の方に心惹かれ、あっという間に眠ってしまった。
続く。.:*・゜