※政治的意図❌️
※フライギ
ではどーぞ!
あの人の家はいつも甘い匂いがした。
鼻につく甘ったるい匂いではなく、バターのような、ミルクのような、お菓子のような匂いがした。柔らかくさす光も合わさり、特有の安心感をもたらしていた。
あの頃の私に1番落ち着く場所はどこかと問えば、きっと自宅よりあの家を指していただろう。
でも、あの家に行く際の私の1番の目当ては匂いでも光でもなく、あの人だった。
私は古ぼけた缶を開いた。頼りないオレンジ色の光で淡く照らされて輝く。
窓の外は闇夜に沈み、月明かりだけを頼りに草花を映していた。
両手でようやく収まる少し大きめのお菓子の缶は、すっかり色褪せて所々錆び、なんのお菓子かも覚えていない上、メーカーさえも分からなかった。
そんなもの持っていて何になるのかと言われたこともある。でも私にとっては、これさえあれば大丈夫というお守りの缶になっていた。
中には色々な物が詰められている。いかにも古そうな厚い本から、干からびてからからになった花まで。
一見なんの共通点があるか分からないだろうが、これらは大事な大事な初恋の人、フランス王国さんとの思い出の品という大きな共通点で結ばれていた。
私は一通り思い出の品に手を触れた後、手紙を手に取った。私はこれを大事なお呪いとしていた。
毎週水曜日の夜にはどんなに疲れていても眠たくても缶の蓋を開けて手紙を手にした。
眩しいくらいの白い便箋だったそれは、数百年経ち、少しずつ時間の経過と共に黄ばんでいく。
最初で最後だったその手紙に刻まれた文字はひどく掠れていて、もしかしたら何度も読んで内容を覚えていなければ読めないのかもしれない。
私は何度目になるかも分からないまま手紙の上の文字を目線でなぞる。もう涙は枯れてしまった。
それでも、きつくきつく首を絞める甘い思い出はいつになってもかすれていかなかった。
幼い頃の私にとって1番恐ろしかったのは彼との死別だったが、その1番恐ろしかったものを経験した今ではこの手紙の内容が思い出せなくなるのが1番恐ろしい。
今日も確かめるように1文字ずつ確かに拾い上げていく。
ようやく最後の文字を拾い終われば、彼がそうしたように元通りにしていった。軽いはずの缶の蓋は甘くて苦い思い出を含んで膨らみ、ひどく重い。壊れないようにそっと蓋を閉じれば、お呪いは終了した。
そして新しいお呪いおまじないを始める。缶を開いた日はいつも彼との思い出をなぞりながら寝ることにしていた。私は何百年と昔の彼の事ばかり覚えていた。
うっすら月明かりを漏らすカーテンを背に、手元のテディベアを胸に抱き寄せて目を瞑る。同じ時期の他の記憶は色褪せていっているというのに、彼に関係するものは皆未だに昨日あったことのように色鮮やかに思い出せる。
あれはひどく穏やかな初夏だった。
アメリカの独立によって元々良くなかった家庭が荒れに荒れて、お父様の暴力は増え、両親の関係はお父様の不機嫌によっていつもよりピリついていた。そんな空気に耐えられず、私は普段より頻繁に彼を訪れるようになっていた。
その時は知らなかったが、アメリカの独立の後に彼の家を訪れる私の顔は捨てられた小さな子犬のように寂しく、今にも泣き出してしまいそうだったらしい。
そんな私を気遣い、彼は、イングには内緒だぞ、と近所のお花畑に連れ出してくれた。
白い絨毯が敷かれたように真っ白な白詰草が溢れているあの景色は、私が見てきた景色の中で最も綺麗だったのかもしれない。
彼は座り込んで、白詰草の冠を編み始めている。
ほら、すぐそこの目の前で、と言いたくなるようなほど記憶の中でいきいきと白詰草を編む。
白くしなやかな指先で器用に形が作られていく。私はその手から目が離せなくなった。
まるでそこに目線が縫い付けられたように、完成するまでずっと彼の指先を見ていた。
私と彼を初夏の爽やかでほんのり湿気を含んだ青臭く心地いい風が優しく撫でた。
「みて?できた!」
私だけに宛てた、私だけに聞こえる優しい声。
その声がいつまでも私のものだけになればいいと幾度となく考えた。
でも、到底不可能なことだと頭の隅では分かっていた。
彼の手には白くて緑で真ん丸な輪っかの冠がある。
屈んで、とお父様とは違う柔らかい声で、私はくすぐったそうに笑ってから身体を縮こませて頭の上に感じる感触を待っていた。
あの時に戻れたらどんなに素晴らしいことか、と今日もまた考えた。
戻れないからこそ思い出は輝くと分かっていた。
頭の上がくすぐったくて、落とさないようにと慎重に頭をあげる。彼の蒼く透き通る瞳と目が合えば、吸い込まれてしまいそうな錯覚に襲われた。
「かわいい!似合ってる!王子様みたいだよ!!」
彼は心底楽しそうな顔ではにかんだ。
私もつられてはにかんだつもりだったが、もしかすると私の方が先に笑っていて、彼がそれに釣られたのかもしれない。
どっちだっていい、ただそれが幸せな、幸せでたまらない事だと刻まれている事がかすれて消えなければ。
「僕もそれ編みたい!教えて?」
幼い頃の私がそう言う。
思い出の中に閉じ込められ、彼といつまでも幸せを共有しているなんて羨ましい。
彼は近くの白詰草を幾つか摘み、摘んだ白詰草を半分私に寄越した。
それから、彼は魔法のように器用に冠を形作る。2本をクロスさせ、輪っかに花を通し、を繰り返す。今思い出しても、あれは本当に魔法だったのではないかと思う時がある。
彼の魔法が使えたらあの時に戻れるかな、と仕方ないことを考えた。
彼のはきっと本当に魔法だったから、私には上手く編めなかった。
アンバランスでぐちゃっとした冠だったが、彼がうんと褒めてくれた。
褒められるなんて今まで片手で数えられるくらいしか無かったから、それがものすごく嬉しくて、何度も自分の手で生み出された冠を見返していた。
「それ、俺にちょうだい…俺の冠と交換!」
彼がそう言って、私がしたみたいに彼も目を瞑って頭の上の感覚を待っていた。彼が目を瞑る間、このまま柔らかそうな唇に口付けしてみたらどうなるんだろうとませたことを考えていた。
意気地無しの私は、勝手に高鳴る鼓動を置いて彼の頭に冠を乗せる。
「へへ、似合う?」
思い出の中の幼い私は、とびきり嬉しそうな楽しそうな声で、
「似合うよ!僕が王子様ならお兄さんは王様で、お姫様!」
と照れくさそうに言う。
あまりに甘くて幸せで夢みたいだったから、私も調子に乗ったのだろうか。
「僕、お兄さんみたいな人と結婚したい!」
なんてことを口走っていた。
少し間を開けてから彼は笑った。
当時は、冗談めかして言っていたが本気だったのがバレて笑っていたのかとどきどきしていた。
でも、彼が実際に言った言葉はこの時予想していたものとは全く別だった。
だから、知ってる、なんて微笑まれた時の私の顔は間抜けだっだろう。
「知ってる、分かってるよ…じゃあ、約束しよう」
彼は小指を突き出した。
彼はきっと自覚していなかっただろうが、当時の私でもわかるくらいに切なげな表情をしていた。
まるで、叶わない約束だと分かったまま自分を押し込めているときのような。
でも私も幼かったものだから、切なげな表情を感じ取れどその裏にあるものをすぐに突き止められなかった。
だから私は彼の言った言葉に縋っていた。
彼なら約束を守ってくれるだろうと。
今もだ。彼の家に最後訪れた時の
『また今度』
を何度も何度も再生し、彼の言う
『また』
が来るのを永遠に待ち続けている。
私は小さいまま大人になってしまった。
だけど、記憶の中で彼の真似っこをするように小指を突き出す私はまだその事を知らない。
大人になったら結婚しようと指先を絡め、叶うなんて保証も無い口約束をさも本当に守ってくれると信じて疑わなかった幼い私がいじらしい。
彼はどこまでも優しかった。
叶うはずもないと分かっている約束をし、私を悲しませないようにと最後の最後まで優しい嘘を貫いてくれた。
革命が始まった時点で、彼は自身の運命を悟っていたのではないかと思う。
それなのに彼はずっとずっと大丈夫だと嘘をつき続けていた。
幼い私だって嘘を何となく感じていたのだ。頬が濡れている。テディベアを強く胸に押し付けた。
「じゃあ指輪も用意しないとね」
彼は白詰草を1本だけ摘んだ。
辺りにあった白詰草で1番綺麗だった。
茎をくるりんと輪っか状にして、私の左手を取る。彼の体温は私より少し冷たい。私の体温でとろけるように温まる彼の手が好き。
今も大好き。輪っかが薬指に少しづつはまる。1番奥まで来た時、こんなに幸せなことがあってばちが当たらないのかと思った。
甘くて、でもそれよりずっとずっと苦い。私はたまらなくなって目を開いた。
窓の外で月明かりに照らされる庭の白詰草は見る度私を追い詰める。
甘い記憶の次は、と選んだ訳でもないのに為す術なく、そのまま1番苦く嫌いな記憶に沈んで行った。
晴天だった。雲ひとつない青空。そんな空とは裏腹に、私は吐き気がするような気分だった。
彼は薄く濁った白いシャツを着ている。
顔は血が滲んでいて痛々しい。
野次馬の声がうるさい。
彼の処刑が決まったと知ったときから、ずっと息が上手く吸えない。
『息をするのが苦しい』
『苦しい』
目の前の景色は夢のようにぼんやりとしていた。
私は彼から貰った白詰草の押し花をポケットの上から触れることでようやく気を保っていた。
近くて遠い野次馬たちに押される。
私だって国の化身なのに野次馬たちと一緒にされるのは妙にモヤモヤしたことを覚えていた。
うざったい野次馬たちはみんな揃って彼を非難する言葉を浴びせているから、もしかしたら私はこの場所でひとりぼっちなのかもしれない。
でも、彼のことを非難するくらいならひとりぼっちで良かった。
野次馬に押されて、立つのもやっとな中で彼を見れば目が合う。
板に頭だけの状態の彼は、板を貫通させちゃう魔法を使ったのかな、と現実味のない事を考えて気を紛らわせた。
取り繕うように微笑む彼の口は声を出さない。
いや、聞こえなかっただけなのかもしれない。
そのまま唇の動きだけで私に4字を押し付けた。
その後すぐ、追いかけるように耳障りな音が鳴った。ひゅ、と空気をつかみ損ねた音が自分の喉から聞こえるのが分かった。
青空と赤い液体のコントラストが目に悪い。
私はしつこくポケットに触れた。
記憶の中に閉じ込められて出られない、まだまだ子供な私が絶望感に喘いでいる。
野次馬の中でしゃがみこむ。
目眩がしてならなかった。少し遅れて鼻を掠めた生臭くて鉄臭い匂いは未だに脳裏に深く焼き付いている。その先はよく覚えていない。
思い出したくないあまり、記憶に蓋をしてしまったのかもしれない。もしそうであれば、何故耳障りな音がした時、1番思い出したくない時に蓋をしないんだと苦情を入れてやりたい。
水曜日の夜
私は缶を開いて手紙を手に取った。
先週よりも少し字がかすれている気がした。
彼を忘れるのが怖い。
怖くてたまらないからこうやって缶を開き、あの記憶たちをなぞる。
缶を開いて手紙を読みさえすれば私の1週間は安全。
いつまでも私でいるために、来週もまた確かにここに戻ってこなければならない。
コメント
4件
(召天)
言葉が綺麗!文学小説?だったし、面白かった! 切ない恋みたいな感じで...✨