2012年3月28日 水曜日。
10分置きに鳴るアラームに急かされて、やっとの思いで起き上がる。
……いま何時?
眉間に皺を寄せて、携帯を開いた。
9:54
……あー……寝過ごした。もう10時じゃん。
と、言っても特に予定はない。
早起きしたってやる事と言えば、掃除してコーヒーでも飲みながら映画を観るくらいだ。
……でもなんか損した気分。
ゴソゴソと芋虫みたいにベッドから這い出て、シャワールームへ向かった。
タンジェリン&ラズベリーのシャワージェルを泡立て、身体へ滑らせる。清涼感の中にほんのり甘さが混じった爽やかな香りに、さっきまでの気怠さが一気に吹き飛んだ。入念にスキンケアをして、とりあえず部屋着に着替えた。遅めの朝食を取りながら今日一日何をして過ごそうか考えていると、宏章の顔が浮かんだ。
……宏章、休みかな?
「斎藤宏章」知り合ってから早一か月。
出会いは事務所の後輩「黒澤駿」のバンドの打上げだった。
私のファンだと言うその男は、友人に半ば無理矢理押される形で声を掛けてきた。
「桜那さん!こんばんは!俺ら駿の友達なんですけど、こいつが桜那さんの大ファンで!どーしても桜那さんとお話ししたくて!」
だらしなく伸びた金髪、細いフレームのメガネに明らかに普段着であろうデニムとスニーカー。良く言えばグランジ風だけど、オシャレに映るギリギリのラインを優に超えてきた。こんな場所に来るにはラフすぎる格好だし、野暮ったいにも程がある。
……地味な男。
今まで周りにいなかったタイプで、逆に興味がそそられた。
「そーなんだ!ありがとう!いくつ?名前はなんていうの?」
「あ、斎藤宏章っていいます……。28です」
顔を真っ赤にしながら、私の質問にしどろもどろに答えるので精一杯。話し方から僅かに感じるイントネーションの違いに気付いて、出身地を尋ねた。
「へぇ、宏章くんはどこの出身なの?」
「あ……、熊本ですけど……」
「どうりで……」
……いかにも東京に憧れて田舎から飛び出してきたってカンジ。
思わずクスッと笑った。
嘲笑が入り混じった嫌味な返しにも気付かないくらいオドオドしていて、何だか滑稽だ。
……どこまでも純粋なのね。悪い女にすぐ騙されそう。
そうこうしている内に、また誰かに呼ばれた。
「じゃあね!宏章くん!」
次から次へ誰かに呼ばれて、ろくに会話もせずにその場を離れた。
……本当に駿の友達なの?信じらんない。
駿の友達と言えばアレだ。あのカウンターで飲んでる二人組。タトゥーがびっしり入った、いかにも悪そうな見た目の男達。ハイエナみたいに取り憑いて、女を喰い物にする。
男達と目が合った。どうやらロックオンされたみたいだ。
「宏章」が去った後、その悪そうな見た目の二人組が声をかけて来た。華麗にスルーして入り口へ向かうと、財布と鍵が落ちているのに気付いた。財布の中身は現金とタイムカード、そして運転免許証。
……さっきの人のだ。
見た目だけじゃなく、行動までもが鈍臭い。
素直に交番に届けてあげればいいものを、私はある行動に出た。
タクシーを拾って、運転免許証の住所を告げる。
溜まりに溜まったフラストレーションから、大人しそうでお人好しそうなのをいい事に、ちょっとからかってやろうと酔った勢いで宏章のアパートへ押し掛けた。そこでストレス発散とばかりに散々悪態をついた挙句、帰り際にまさかの私が財布を無くすという大失態。
自分でも、何て事をしでかしたんだと思う。
宏章は怒るどころか、夜中ずっと一緒に財布を探してくれた。あんなに探したのに結局財布は見つからず、帰りのタクシー代まで払ってくれた。
お金はいらないって言ってくれたけど、一週間後、お詫びと返金する為にまたアパートを訪ねた。このままじゃ申し訳なさすぎて……って違う、違わないけど、違う。
私がまた宏章に会いたかったのだ。
どうしてそう思ったのかは自分でもよく分からない。
ただ、あれっきりもう二度と会えなくなるのは何となく嫌だった。
あの日からもう3、4回は宏章と会ってる。いや、正しくは押し掛けている。
そして私は今日もまた、宏章の元へ向かおうとしているのだ。
リダイヤルで宏章を呼び出す。3、4コールしたところで宏章が出た。
「……はい」
……あ、寝起きの声だ。今日は休みなんだ!
なんてタイミング!思わず声を弾ませた。
「もしもし?桜那だよー!もしかして、今起きた?」
「……ん、もう昼か。桜那、今日仕事休み?」
「そうなの!宏章も休み?今から遊びに行ってもいい?」
「いいけど……」
「じゃ!今から行くね!」
宏章が言い終わらないうちに、電話を切った。
買ったばかりのニットワンピに着替え、洗面台の前に立つ。手際よくベースを仕込み、アイライナー、マスカラ、チークと入念に仕上げていく。最後のいざリップというところで、ポーチの中のグロスを手に取ってしばし見つめた。ヘアメイクの蘭ちゃんからのプレゼントだ。
数ヶ月前、撮影前のヘアメイクでの事。
「はい、終了。桜那ちゃん色白だからピンクのリップが映えるねー」
「わあ!キレイな色ー!可愛い!」
少し青みがかったクリアピンク、ガーベラみたいで可愛い!春らしい色にすごく惹かれた。
「でしょ?でもこれ海外限定色なんだよね。気に入ったなら、今度出張で海外行くから買ってきてあげるよ」
「ほんと?嬉しいー!」
「うん!楽しみにしてて」
一目で気に入って、わざわざ買ってきてもらったのに……なんだか勿体なくって使えなかったお気に入りのグロス。思い切っておろしてみた。
輪郭を縁取り丁寧に塗り込んで、また中央にポンポンとグロスを重ねる。
……わぁ!やっぱり可愛い!
「桜那、可愛いね」
つい宏章の反応を想像してしまった。
……なんて、宏章ってリップの色とか全然気付かなそう。
……って何期待してんだか。早く行こ!
すぐさまタクシーを呼び、途中デパ地下に寄ってワインと生チョコを調達してから宏章のアパートへ向かった。
チャイムを鳴らすと、Tシャツにスウェット姿の宏章が出迎えた。
「おじゃましまーす!」
無邪気に上がり込み、ベッドを背にテーブルの前に腰掛ける。
「ワイン買ってきたの!チョコもあるよ!一緒に飲も♪」
「いや、俺はいいよ。こんな昼間から飲む気になれないよ。それに俺が飲んだら何かあった時困るだろ」
宏章は若干呆れ気味に、困った顔で笑った。
「ワイングラスないから、普通のグラスでいい?」
ウイスキーグラスを持って来てテーブルの上に置くと、私の手からワインボトルを抜いた。
「貸して」
ボトルを開けて私に手渡すと、向かいに座って心配そうに尋ねてきた。
「桜那……あのさ、こんなにうちに来て大丈夫?撮られたりしたらマズくない?ほら、一応男の家だし……」
「大丈夫だよ、街歩ってても気付かれる事なんてほとんどないから」
「いや、桜那は充分有名人だと思うけど……」
「それは宏章が私のファンだからでしょ?それに男だからって、みんな私の事知ってる訳じゃないから。こないだも買い物してたら私だって気付かれずにナンパされたし。AV観ない人からしたら私の知名度なんてそんなもんだよ」
……なんて、自分で言っといてちょっと悔しい。
……でもいいんだ、注目されるのは今じゃないだけ。これから、もっと有名になってやるんだから!
グラスにワインを注ぎ、ぐいっと流し込んだ。舌先にたちまち苦味が広がり、拳で握られたみたいに胃がぎゅーっとする……いつものワインが、今日はやけに渋く感じた。
宏章は再び心配そうに尋ねた。
「でもせっかくの休みなのに、出かけたりしないの?俺んち何もないし、つまんなくない?」
「人混み嫌いだから。それに宏章とおしゃべりしてるだけで楽しいもん!」
「俺も桜那と話すのは楽しいよ。だけどさ、体休めなくて本当に大丈夫なの?普段忙しいんだし……」
……ハードな仕事だし、気遣ってくれてる?
……ああでも、宏章もあんまり休み無いみたいだし、ほんとはゆっくりしたいのかも。ここのところ休みの度毎回押し掛けてる。
私に友達がいない理由は、多分こういう所だ。
仲良くなると、つい暴走していきなり距離を縮めようとしてしまう。女の子からは大抵それで距離を置かれてきた。これが男だと、下心丸出して誘われるのが関の山。
でも宏章はそれをしてこない。という事は距離を置かれてフェードアウトのパターンか。
……また嫌われるかな……。
みるみる悲しくなって、叱られた子どもみたいにしゅんと俯いた。
「……今日はすぐ帰るよ」
「桜那が良ければいいんだ。好きなだけいていいよ、何のお構いもできませんけど」
宏章は穏やかに笑ってパソコンを開き出した。
……ああ、なんか泣きそう。
宏章は私にとって心地よい距離感で接してくれる。
つかず離れず……寄せては返す穏やかな波のように。
宏章は私に手を出さない。指一本触れてこない。それなのに離れていかない。
言葉で、視線で、空気で寄り添ってくれる。
でもあまりにも触れてこなさすぎて、ちょっともどかしくもある。
……もしかしてゲイとか?いやでも私のファンって言ってたし……。
……ってか、これじゃまるで襲ってほしいみたいじゃない!
宏章がガッツいてきたら失望するくせに、興味がない素振りをされると振り向かせたくなる。
最近の私、本当にどうかしてる。
悶々としていると、窓辺に立てかけてあるギターが目に入った。
「宏章、ギター弾くんだっけ?ねぇ、なんか弾いてよ」
「えー……何かって?」
「宏章のギター、聴いてみたいんだもん♪」
「じゃあ聴きたいの言って。弾けるか分かんないけど」
宏章は気怠そうに渋っていたが、半ば強引に押し切る形で弾いて貰った。
リクエストしたのは、BUCK-TICKの「悪の華」
子どもの頃、お兄ちゃんが両親に隠れて部屋でこっそり聴いていた曲。
イントロのフレーズが、スリルと背徳感を掻き立てられて子どもながらにゾクゾクしたっけ。
お兄ちゃんは私にとって、厳格な両親の目から逃れるいわばスケープゴートだった。
そんなお兄ちゃんとも、しばらく会ってない。
私がAV女優になってそれっきり。
お兄ちゃんはきっと、地元で肩身の狭い思いをしているだろう。
私が余計なものを背負わせてしまった。
AV女優になった事、後悔はしていない。
両親の呪縛から解き放たれて、やっと自由になれた。
私の人生はこれからだ。
でも、お兄ちゃんは……。
それだけが心残りで気掛かり。
 目が覚めるようなイントロのフレーズが鳴って、我に返った。
この視界が開けていく感じ……心の靄を一瞬で吹き飛ばしてくれる。
宏章の音は独特のキレがあって、どこまでも遠く遠く突き抜けていく。
「すごい!めっちゃ上手いじゃん!宏章ならプロになれるんじゃないの?」
あまりの感動から興奮気味に捲し立てると、宏章は顔を真っ赤にして謙遜した。
「いやー……プロなんて俺には無理だよ」
「なんでよ?こんなに上手いのに?」
「これくらいの奴、ほかに沢山いるよ。それに俺、よく言われるんだ。意外と器用に色々やれるけど、それだけだって。俺、あんまり何かに夢中になった事がないから、人の心に響かないんだろうな」
宏章は視線を落として小さくため息をついた。
……そんな事ないよ。
……だってほら、こんなに胸があったかい。
私は真っ直ぐに宏章の目を見つめた。
「私の心には、ちゃんと響いたよ」
「ありがとう……嬉しいよ」
宏章は嬉しそうに笑った。
宏章が笑うと、私も嬉しい。
私が満面の笑みを向けると、宏章も照れくさそうに微笑み返してくれた。
……ああ、やっぱり宏章といると楽しいな。
それなのに宏章は自分の事「つまらない奴」だって言う。全然そんな事ないのに……。むしろ私が今まで出会ってきた人間の中で、一番魅力的だ。すごく興味を惹かれる。
もっと宏章と話したい。
もっと宏章の事が知りたい。
宏章はまたギターを壁に立てかけると、地べたに置いたパソコンを開いた。
「ねぇそういえばさ、さっきから何調べてるの?ずっとパソコンと睨めっこだよね?」
「ああ、資格取得の勉強」
「なんの資格?」
「唎酒師。会社で取得費用の補助出るし、面白そうだから受けてみるかなって」
「ききさけし?何それ?」
「分かりやすく言うと、日本酒のソムリエみたいなもんかな?」
「え?でも宏章の仕事って配送なんじゃないの?」
「うん、でも納品に行くと日本酒の事色々聞かれるんだよ。俺もこんな資格あるなんて知らなかったけど、会社で費用出してくれるし、持ってて困るものでもないしね」
「えー!そうなんだ!面白そう!私も取ろっかな♪」
「え?桜那日本酒好きなの?ワイン好きのイメージだけど……」
「うん!日本酒も結構好きだよ!というかお酒なら全般的に♪あ!ねぇ、宏章のおすすめの日本酒教えてよ。一緒に飲も!今度は悪態ついたりしないから。笑」
宏章は大きく笑った後、またパソコンと睨めっこだ。
……あ、歯見せて笑うと可愛い……歯並び良いんだな、綺麗な口元。
思わず口唇をまじまじと眺めた。
……よく見ると宏章って結構肌も綺麗。服装とか髪型変えたらかなり化けるかも?
……って何考えてんだ私。私も台本読も!
頭を仕事モードに切り替える。一度スイッチが入ると一瞬でゾーンに入れる、私の特技と言ってもいいくらいだ。
こういう時、宏章はいつも空気を読んでそっとしておいてくれる。
お互いが自分のやるべき事に集中する時間。ならば一人でも良さそうだけど、違う。
宏章が側にいると安心する、より集中出来る。この安心感の中に居ることが重要なのだ。
宏章は私に「対価」を求めない。ただ側にいてくれるだけ。宏章といると、私は生きているだけでいいんだって思える。何も出来なくても、ここに居ていいんだよって自分を肯定されてる気がして……。何かを差し出さなくてもいい、何者にも脅かされない、私にとっての安全地帯。
一時間程で台本を読み終え、宏章の方へ視線を向けた。真剣な顔で、相変わらずパソコンと睨めっこだ。
……邪魔しないようにしよ。あ、集中力が切れたら一気に眠くなってきた。
瞼に落ちる重力に逆らえず、テーブルにもたれかかる。窓から柔らかくて暖かい日差しと、爽やかな風が入り込んできた。
……気持ちいい……春の匂いがする。桜、そろそろ満開かな?
……あー……だめだ、呆気なく陥落。睡魔め……。
……。
……。
くしゅ!
!?!……やば!寝ちゃった?
むくりと起き上がると、宏章が頬杖をついてこちらを見ていた。
私が急に起きたからか、宏章は驚いて目を丸くしていた。
「あ?起きた?しばらく眠ってたよ」
体を起こすと、肩から毛布が滑り落ちた。ふいに宏章の匂いがして、ドキッとした。
……あ、かけてくれたんだ。
不覚にもきゅんとしてしまった。振り払うようにうーんと伸びをして、居住いを正す。
「そろそろ帰ろうかな、明日早いし。タクシー呼ぶね」
……いくら居心地がいいからって、さすがに寝たらダメじゃん!もっとゆっくり喋りたかったけど、長居したら悪いしな……。
……あ!そうだ!だったら今度はうちに来て貰えばいいのか!
カバンから手帳を取り出してスケジュールを確認してると、宏章がさりげなく水を置いてくれた。
……宏章のこういう所、いいな。
「ありがとう……」
水を口にすると、だいぶ頭が冴えてスッキリしてきた。
「宏章、次いつ休み?」
同じく水を口にしながら、横目で私を眺める宏章と目が合った。宏章は少し間を置いてから答えた。
「明日から三連勤だから、四日後かな?」
カレンダーに目を凝らす。
……四日後か、あ!午後からだ。
パッと顔を上げて宏章へ尋ねた。
「その日予定ある?」
「いや、特にないけど……」
「ねぇ!前の日、仕事終わったらうちのマンションに来てよ」
「え⁈」
宏章は急に変な声を出したかと思えば、鼻か気管支に水でも入ったのか咽せて咳き込み始めた。
「毎回タクシー代も馬鹿になんないしさ。それに私、いっつも飲んじゃうからそのまま寝たいし。宏章の家に泊まるわけにはいかないでしょ?次の日休みなら、多少遅くなっても平気だよね?」
咳が治まると、宏章は複雑そうな顔をして何やら考え込んでいた。
「嫌……?」
宏章に考える暇を与えないように、上目遣いでちょっと寂しげに甘えて見せる。私の顔を見るなり、宏章は慌てて首を横に振った。
「いいよ、俺が行くよ」
「じゃあ、後でマンションの住所送るね!着いたらメールして♪あ、タクシー来たっぽい!それじゃまたね、宏章!」
慌ただしくカバンに手帳と携帯を詰め込み、足取り軽やかに玄関を出てタクシーへ乗り込んだ。
タクシーが走り出すと、道路脇の桜並木が視界に飛び込んで来た。満開の桜に、思わず笑みが溢れる。
風が吹いて、空中に桜の花びらが舞う。ピンクに染まった夕焼け空に胸が高鳴った。
……四日後が待ち遠しい!宏章、早く逢いたいよ。
 END
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