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【第五部 灰色の軍団と神の火開始】
惑星テラ・ノヴァ。
二つの月が浮かぶ異星の荒野。
その地表を埋め尽くす鋼鉄の工場群は、今日も規則的な機械音を奏でていた。
コンベアの流れる音、インサータのアームが動く音、そして組立機が製品を吐き出す音。
それは本来、工場長である工藤創一にとって、心安らぐ環境音楽(アンビエント)であるはずだった。
だが今の彼にとっては、違った。
「……遅い」
FOB(前線基地)の中央指令室。
モニターの前に座る創一は、貧乏揺すりをしていた。
それも、常人には視認できないほどの高速貧乏揺すりだ。
「遅すぎる!
なんで鉄板一枚焼くのに、3.2秒もかかるんだ!
俺の体感だと、3時間くらい経ってるぞ!
インサータの動きもスローモーションだし、物流ロボットに至っては、空中で止まって見える!
ああもう、イライラする!!」
創一は頭を掻きむしった。
原因は明らかだ。
昨日、自らに投与した『医療用キットMK2』。
その効果により、彼の脳内処理速度は極限まで加速されていた。
思考速度が上がれば、相対的に世界の動きは遅くなる。
今の彼にとって現実世界は、すべてが100分の1倍速で再生される、退屈なビデオ映像のようなものだった。
「マスター、心拍数が上昇しています。
精神安定(メンタル・スタビライザー)機能により抑制しますが、物理的な時間の流れを変えることは不可能です。
諦めてください」
AIのイヴが冷静に告げる。
彼女の声さえ、今の創一には間延びしたお経のように聞こえていた。
「分かってるよ!
でも、暇なんだよ!
次の研究完了まで、あと10分?
俺にとっては10年だぞ!?
10年も、ただボーッとしてろってのか!?」
創一は叫んだ。
かつては「工場を眺めているだけで一日が終わる」と言っていた男が、今はその工場すらも退屈の種になってしまっている。
これが進化の代償か。
あまりにも残酷な「暇」という拷問。
そこへゲートの歪みが生じ、一人の男が現れた。
内閣官房参事官、日下部だ。
彼はいつものように革鞄を抱え、少しやつれた顔でやってきた。
「やあ、工藤さん。
ビーコンの設置状況について報告に……」
「日下部さあああん!!!!!」
シュバッ!
風切り音と共に、日下部の目の前に創一の顔があった。
瞬間移動ではない。
単に移動速度が速すぎるのだ。
「うわっ!?
な、なんですか急に!?」
日下部は腰を抜かしそうになりながら、後ずさった。
目の前の創一は以前と変わらぬ作業着姿だが、その瞳の奥には青白い光――MK2によるナノマシンの燐光――が宿っている。
そして何より、雰囲気が違った。
以前のような「のんびりした工場長」ではない。
全身から「処理落ち寸前のCPU」のような焦燥感と熱気が立ち昇っている。
「暇なんです!
助けてください!
工場のラインが遅すぎて見てられないんです!
何かすることないですか!?
このままだと暇すぎて、うっかり核融合炉の設計図とか書いちゃいそうです!」
「ひっ……!
やめてください!
そんな危険な暇つぶしは!」
日下部は顔面蒼白になった。
MK2を打った創一は「超天才」になっているはずだ。
そんな彼が「暇つぶし」に本気を出せば、地球の文明レベルが数段階ぶっ壊れるようなオーバーテクノロジーを生み出しかねない。
それは困る。
非常に困る。
今はまだ世界は「ナノマシン・レーダー網」の衝撃を消化している最中なのだ。
これ以上、新しい爆弾を投下されては、日下部の胃袋が物理的に破裂してしまう。
「(……まずい。
この暴走機関車に、何か安全な『おもちゃ』を与えておかないと……!)」
日下部は必死に脳を回転させた。
工場に関係がなく、兵器開発にも繋がらず、かつ、この超天才の脳みそを長時間占有できるような難解で複雑な課題。
そんな都合の良いものが……あった。
「……工藤さん。
そういえば以前から、貴方に見ていただきたいものがあったんです」
日下部は鞄を探るふりをして、タブレットを取り出した。
そして以前ダウンロードしておいた「あるPDFファイル」を表示させた。
「これです」
「……なんですか、これ?」
創一がタブレットをひったくるように受け取る。
画面に表示されていたのは、数式と英文の羅列。
一般人が見れば即座に眠くなるような代物だ。
「『ミレニアム懸賞問題』ですよ」
日下部は子供をあやすように優しく言った。
「地球の数学者たちが、100年かけても解けなかった超難問です。
クレイ数学研究所というところが、1問につき100万ドルの賞金を懸けています。
リーマン予想、P対NP問題、ナビエ・ストークス方程式……。
どれも人類の英知を拒み続けてきた『未解決のパズル』です」
「パズル……?」
創一の目が輝いた。
彼にとって「パズル」とは、工場の配管を繋いだり、コンベアの分配を最適化したりする楽しい作業のことだ。
「そうです。
貴方は天才だ。
今の貴方なら、あるいは解けるかもしれません。
どうです?
暇つぶしに挑戦してみませんか?」
日下部の狙いは単純だ。
これらは人類史上、最も難解な問題群である。
いくらMK2で超人化したとはいえ、そう簡単に解けるものではないだろう。
うまくいけば、数ヶ月……いや1年くらいは、この難問の迷宮に閉じ込めておけるはずだ。
その間に自分は安心して胃薬を飲んで眠れる。
「へー……。
100万ドルかぁ。
結構な額になりますね。
工場の拡張資金にいいかも」
創一は画面をスクロールした。
その指の動きが止まる。
眉間に皺が寄った。
「……えー。
これ、むずくないですか?」
創一が不満げな声を上げた。
「何を言っているんですか?
この変な記号の羅列……ゼータ関数?
流体力学?
俺、専門卒ですよ?
専門用語とか、全然わかんないんですけど」
「(しめしめ)」
日下部は内心でガッツポーズをした。
そうだ、難しくていいのだ。
基礎から勉強し直して、悩んで、苦しんで、時間を浪費してくれ。
「そりゃそうですよ、工藤さん。
これは世界中の天才たちが、束になっても解けなかったんですから。
まあ気長にやってください。
1年……いえ、10年かけてもいいですから」
「10年……。
うーん、まあ暇つぶしにはなるか。
やってみますよ。
ありがとう、日下部さん!
新しいおもちゃをくれて!」
創一は嬉しそうに、タブレットを抱きしめた。
その笑顔は、かつての無邪気な彼そのものだった。
「いえいえ。
では私はこれで。
……頑張ってくださいね(※一生解けないでくださいね)」
日下部は安堵の笑みを浮かべて、地球へと帰還した。
これでしばらくは安泰だ。
数学の世界に没頭している限り、現実世界に被害は出ない。
彼はそう信じていた。
◇
翌日。
朝8時。
日下部は久々に清々しい朝を迎えていた。
昨夜は一度も緊急連絡が入らなかった。
アメリカからも、中国からも、そしてテラ・ノヴァからも。
平和だ。
やはり天才には、適度な課題を与えるに限る。
彼は優雅にコーヒーを淹れ、首相官邸へと出勤した。
地下の執務室に入り、いつものようにテラ・ノヴァとのホットラインを開く。
工藤さんは今頃、難解な数式と格闘して頭を抱えている頃だろう。
「おはようございます、工藤さん。
調子はどうです——」
日下部がモニターに向かって声をかけた瞬間。
バサッ!!
画面の向こうから大量の紙束が投げつけられたかのように、データ転送の通知が殺到した。
PDFファイルが10個、20個……。
デスクトップが埋め尽くされていく。
「な、なんですかこれは!?」
「あ、おはようございます、日下部さん!」
モニターの向こうには、少し眠そうな、しかし満足げな顔をした創一が映っていた。
手にはマグカップを持っている。
「解けましたー!」
「……は?」
日下部の思考が停止した。
解けた?
何が?
「いやー、最初は意味わかんなかったんですけどね。
イヴに専門用語の定義だけ教えてもらったら、あとはパズルみたいなもんでしたよ。
ほら、工場の配管とか、物流ネットワークの最適化と同じです。
パターンが見えちゃえば、あとは計算するだけなんで」
創一は事もなげに言った。
「とりあえず、そのリストにあった7問。
全部、解いときました。
あと、ついでに『これ間違ってね?』っていう既存の定理の修正案も書いといたんで、見といてください」
「……ぜ、全部……?」
日下部は震える手でマウスを操作し、送られてきたファイルの一つを開いた。
タイトルは『P対NP問題に関する最終的解決と、多項式時間による最適化アルゴリズム』。
中身は……数式ではない。
独特の記号と、回路図(ブループリント)のような図解が入り混じった異様な「証明」だった。
だが、その論理構成は、数学の素人である日下部が見ても鳥肌が立つほどに美しく、そして冷徹なまでに整合性が取れていた。
「はーーーーっ!!??」
日下部は官僚としての品位を忘れて絶叫した。
「一晩しか持たないのかよ!!??」
100年の難問だぞ。
人類の英知の結晶だぞ。
それを一晩?
しかも「全部」?
「いや、結構大変でしたよ?
体感だと3ヶ月くらいかかりましたし。
いい暇つぶしになりました!」
創一はニコニコしている。
彼にとっては、「工場の炉の待ち時間にやったクロスワードパズル」程度の感覚なのだ。
だが日下部にとっては悪夢だ。
こんなものを世に出したらどうなる?
数学界がひっくり返るどころではない。
暗号技術の基盤が崩壊し、流体力学のブレイクスルーで航空宇宙産業が激変し、物理学の教科書が書き換わってしまう。
「とりあえず……検証しますね。
……国内の数学者に投げます」
日下部はこめかみを押さえながら言った。
これ以上、自分の頭で考えるのは危険だ。
専門家に任せよう。
もし間違っていれば、「素人の落書きでした」で済む。
もし合っていたら……その時は、その時だ。
「あ、名前は出さないでくださいね!
有名になると工場見学とか来ちゃいそうなんで!
賞金だけもらえればいいです!」
「……善処します」
日下部は通信を切った。
そして胃薬を2袋、一気に口に放り込んだ。
◇
3日後。
東京大学数理科学研究科、教授室。
日本を代表する数学者である佐藤教授は、政府の使いである日下部から渡されたレポートを読み終え、眼鏡を外した。
彼の手は激しく震え、目には涙さえ浮かんでいた。
「……神だ」
教授は、うわ言のように呟いた。
「これは人間の業ではない。
あまりにもエレガントで、暴力的で、そして完璧な論理だ。
既存の数学体系を否定することなく、より高次の次元から包括してしまっている……。
リーマン予想も、ヤン=ミルズ方程式も、全てが一つの理論の下に統合されている!」
教授は机を叩いて立ち上がった。
「日下部さん!
これは、どこの誰が書いたのですか!?
海外の研究所ですか?
それともAIですか?」
「……政府の極秘研究所の成果としか、申し上げられません」
日下部は無表情を装って答えた。
まさか「異世界で工場長やってる元IT土方のおっさんが、暇つぶしに書きました」とは言えない。
「研究所……!
やはり国家プロジェクトだったのか……!
これほどの天才集団を隠し持っていたとは、日本政府も恐ろしい……!」
教授は勝手に納得し、そして興奮気味に続けた。
「公表しましょう!
今すぐに!
これは人類の至宝です!
間違いない、証明は正しい!
1000%正しい!」
◇
翌週。
日本政府は異例の記者会見を開いた。
内閣官房長官が緊張した面持ちで発表を行う。
「……我が国の研究機関において、ミレニアム懸賞問題のうち『P対NP問題』および『リーマン予想』を含む複数の未解決問題に対する証明が完了したことを確認いたしました」
世界中に衝撃が走った。
数学界のノーベル賞とも言われるフィールズ賞受賞者たちが即座に論文の査読に入り、そして絶句した。
反論の余地がない。
あまりにも完璧すぎる証明。
それは数学というよりも、宇宙の真理そのものを記述したかのような、絶対的な説得力を持っていた。
アメリカ、ホワイトハウス。
ウォーレン大統領は朝のニュースを見ながら、コーヒーを吹き出しそうになった。
「……また日本か」
彼はCIA長官のエレノアを呼びつけた。
「おい、これを見ろ。
日本が今度は数学の難問を解いたそうだ。
しかも、一気に全部だぞ?
……どう思う?」
エレノアは報告書を片手に、ため息をついた。
「へー、凄いですね……。
と言いたいところですが、タイミングが良すぎます」
「やはり、あれか?」
「ええ。
例の『ナノマシン開発者』でしょう」
二人の意見は一致した。
医療用ナノマシンを作り、監視用スマートダスト(と彼らは思っている)を作り、今度は数学の難問を解決した。
これら全ての背後にいるのは、同一人物――あるいは同一の組織であることは明白だ。
「名前は!?
論文の著者は、誰になっている?」
「『アンノウン・ジーニアス(Unknown Genius)』……いえ、公式には『日本政府特別研究班』という名義になっています。
個人の名前は未発表です」
「隠しているのか……」
ウォーレンは唸った。
「まあ当然だろうな。
そんな頭脳を持った人間がいたら、どこの国も欲しがる。
暗殺されるか、誘拐されるのがオチだ」
ウォーレンは妙に納得したような顔をした。
不思議と驚きは少なかった。
なぜなら「日本ならやりかねない」という土壌が、すでに出来上がっていたからだ。
「まあ、ナノマシンがあるんだから、今更か?」
「そうですね。
原子レベルで物質を操作できる国です。
数式の一つや二つ、解いたとしても不思議ではありません」
エレノアもまた感覚が麻痺していた。
日本の技術的特異点(シンギュラリティ)は、すでに常識の範疇を超えている。
今更、数学の問題が解けたところで、「また日本が変なことを始めた」程度のニュースにしかならないのだ。
一方、中国。
中南海の地下指令室。
李総理もまた、苦虫を噛み潰したような顔で報告を聞いていた。
「……日本め。
経済、軍事、情報に続いて、今度は学術でも覇権を握るつもりか」
「総理。
この『証明』に使われているアルゴリズム……。
解析班によれば、我が国に導入された『監視システム』のデータ圧縮技術と酷似しているそうです」
側近が囁く。
「やはりな。
繋がっている。
全ては、あの『見えざる手』によるものだ」
李総理は東京の方角を睨んだ。
そこにいるはずの「正体不明の超天才」。
彼が何者かは分からない。
だが、その人物が気まぐれにペンを走らせるだけで、世界のパワーバランスが激震するという事実だけは痛いほど理解できた。
「……恐ろしい国だ、日本は。
眠れる獅子どころか、目覚めた龍がそこにいる」
◇
世界が「日本の超天才」の正体を巡って騒然とする中。
「あーあ。
結局、一晩しか暇つぶしにならなかったなー。
100万ドル×7問で、700万ドルか。
これで核融合炉の資材が買えるかな?」
創一は書き上げた論文の原本(裏紙)を、ゴミ箱に放り込んだ。
彼にとって、フィールズ賞級の偉業も、工場の燃料にならない紙切れに過ぎない。
「ねえ、イヴ。
まだ鉄板焼けないの?
あと0.5秒?
……長いよおおお!」
超天才の悩みは、数学の難問よりも、目の前のインサータの遅さにあった。
彼は知らない。
自分がゴミ箱に捨てた裏紙が、地球では聖書のように崇められていることを。
そして、日下部の胃薬の消費量が、また記録を更新したことを。
正体不明の超天才(アンノウン・ジーニアス)。
その正体は、ただの「暇を持て余した工場長」だった。