這う這うの体でどうにか身を起こす。
警官は絶望しきった顔でただ座り込んでいた。大方、私に銃は効かないとか、そんな事を考えているのだろう。実際、きちんと人間を喰らっている悪魔には効かない。私には有効だが。
まあ、邪魔をしないなら良い。
少年の首に牙を埋める。溢れた血を嚥下する。
……悪魔になって幾星霜の時が流れても、やはりこの味を美味と感じることはなかったな。
顔を少年の首から外して、その頬をなぞる。傷だらけの頬。きっと、木々に引っ掛けたのだろう。
「………どうか、幸せに」
これが、私の精一杯だけれど。
少年を抱えたまま、視線だけ警官の方に向ける。警官は呆けて此方を見ていた。この声は届くだろうか。届いて欲しいと、ただ無責任に思う。
「……この子を、家に返さないでくれ。きっと、殺されてしまう」
警官が身じろぎをした。
「…お前は、一体………それに、その子はもう…」
「………」
「本当に、悪魔なのか?」
「………………奇跡だ」
「……は…?」
警官の方へ顔を向ける。
「私の、名前」
少年が呼んでくれた、大切な、私だけの名前。
___本当は、私のものではない名前。
私は人間だった。悪魔に首筋を噛まれ悪魔へと変貌した、ただの人間だったのだ。
人間だった頃の記憶はない。けれど、自分の日記は読んだことがある。そこに綴られる、知らない自分の物語を。
ある日出逢った悪魔に、自らを悪魔にして欲しいと願った私。狭くて色の無い部屋を心底嫌っていた私。もう、長く生きられないことを知っていた私。一度も病室から出られなかった私。
その名前も、勿論奇跡だなんて変わった名前ではなくて。有り触れた、けれど願いのこもった名前だった。
私は知った。悪魔が生まれた時、どうして誰もが私に「奇跡だ」と声をかけたのか。
私は知った。悪魔が生まれた時、喰い殺した人々が誰だったのか。
最後まで一切の抵抗をしなかった、あの人が本当に人間だったのかどうかを。
恐らく私は一度死んだ。かの悪魔が私を噛まなければ、息を吹き返したりなんてしなかった。
その様は、まるで魔法の様だったろう。奇跡の様だったろう。
それは、悪夢に他ならないというのに。
私はその事実に耐えられなかった。私の幸せを願ってくれた人々は、今、眼前に広がる血溜まりなのだと……知りたくなかった。
私は己の罪から逃げる様に、身を潜めながら生きてゆくことにした。飢えることはあったが、人を喰らおうとは一切考えられなかった。
生きてゆくには名前が必要だったが、本来の名前なんてとてもじゃないが使えない。私には、愚かしくもこれが自分の名だと勘違いした「奇跡」という名が似合いだと思った。
孤独も、衰えてゆく力も、これが私の贖罪なのだと思った。
ただただ、私は身勝手だった。
「………この子を、頼んだ」
抱えた少年をそっと地面に下ろす。そして、 後ずさるように少年から離れる。
少年の首筋を伝う、目に痛いほど鮮やかな血が、ごぽりと不自然な音を立てた。今まさにその体が作り変えられているのだろう。
今更ながら、その罪の重さに体が震えた。
何が起ころうと、かの悪魔の様にはなるまいと固く心に誓っていた。救われただなんてとんでもない。むしろ私は彼に呪われたのだと思っていた。
けれど今は、少しだけ彼の心が解る気がする。
どうか君には………人の側で、人に紛れ、人と語らい……笑いあって生きて欲しい。
勿論、悪魔と化し、目醒めた少年が目の前の警官を……人間を喰わないとも限らない。いや、十中八九喰らうだろう。悪魔とはそういう生き物だ。
けれど、私は賭けたい。
それは私には出来なかったことだから。
「…あ……」
ばさりと体が崩れ始めた。
落ちた破片が塵のように風に攫われてゆく。
その欠片たちの先の、眼前の光景に目を見開いて固まっている警官に声を掛けた。
「…おい」
「お、おま…崩れて………」
「………私はじきに死ぬ…………私のことを決して、この子には話すな。……いいな?」
「は、なんで…………いや、わかった。誓おう」
警官の顔つきが、少し間抜けたものから凛としたそれへと変わった。
「…………ああ」
これで十分だろうと、空を仰ぐ。
はらはらと崩れる体と呼応するように、記憶もまた、崩れるように失われてゆくのを感じた。
……日記をもった、血濡れた手。
この山の草を踏みつける私の黒い靴。
初めて出逢ったときの、少年の黒く大きな瞳。
遠慮がちに私の手を取る小さな手。
その細い首に、牙を突き立て…………
私の罪を、君が理解することは無い。私の痕跡など、世界の何処を探しても見当たらないだろう。君を悪魔にした悪魔がどんな性格だったのか……何を憂い、何に傷付き、何を願ったのか。 君が知ることは決して無い。
……最期の最期に、またひとりぼっちか。
でもまあ、いい。
私は今、幸せだ。