ああ、どうしよう……
こんな失敗、一度もしたことないのに
とある駅前にある、連日お客様で賑わう、お洒落で可愛らしいインテリアが女性客に人気で、フードとドリンクのメニューも豊富だと知られているカフェ&レストラン
『リューゲ』
の、ランチの時間帯で、一番お店が賑わっている店内の中央の席に、人々の視線が集中していた
「大変、申し訳ございません!」
私はすみませんと何度も頭を下げて、アイスコーヒーと氷がこぼれている床を拭いていた
ああ、本当にどうしよう……
男性のオフホワイトのスーツのパンツにも、広範囲にかけてしまった
周りのお客様の集中を一斉に浴びながら、私は自分の失敗の羞恥で頬を熱くしながら、白い布巾を茶色く染める
ウエイトレス二年目にして、初の大失敗
忙しいからか当然、他の店員も店長も、私の不注意には助け船は出さない
男性のスーツ、弁償しなきゃだよね……
床を拭き終わり、恐る恐る顔を上げた
「あの、スーツの、コーヒー、染みになってしまいますよね。私の不注意です。大変申し訳ございませんでした。ですから、弁償させてください」
低くしていた姿勢を正し、腰を直角に曲げて深く頭を下げた
私が、弁償するのは、当たり前だ
しかし、この男性が着ているスーツ、見るからに結構立派なんだけど……
ああ、きっと、私のアルバイト代では足りないくらいの代物だ
それでも意を決して、私は頭を下げ続けて、何も発していない男性の言葉を待った
何も、言わないということは、それだけ怒っているんだ
男性がテーブルの上で倒れているグラスを、シルバーリングらしきものを薬指あたりにしている左手で立てた
……今、グラスを置くとき、“ゴンッ”ってテーブルを叩いた気がする
それだけ、男性はご立腹なんだ
怒声でいいですから、何か仰ってください……!
沈黙が続く重たい空気に泣きたい気持ちでいると、男性は、突然、笑い出す
「ハハ、君は、面白い子だね。弁償するって、これ、一体いくらすると思う?」
男性は、コーヒーの茶染みがついたパンツを指差した
口調は穏やかだけど、目が笑っていなかった
一体、いくらって、いくらぐらいだろう?
でも、弁償するのにお金のことなんて気にしてられない
お昼休憩でここに来たら、店員の女の不注意で大事なスーツを汚された怒りは弁償で収まるかどうかわからないけれど、男性の物凄く静かな怒りが落ち着くまで私は謝り続けて、スーツを弁償しよう
「いくらする代物でも、私は、これからお仕事に戻られるあなたの邪魔もしたのですから、弁償するのは当然のことです」
男性の目を真っ直ぐ見つめると、男性は少し目を見張ってから、やがて唇に弧を描いた
「確かに、俺はこれから大事な取引をしに行く予定だった。やっと交渉の場を設けて頂いたと思い、張り切って新調したこのスーツを着てね」
私の心臓は、早鐘のように鳴り響いて、鼓膜を振動させている
やっぱり、予定をも狂わされた男性の怒りは相当なものじゃない
私は、からからに乾燥した喉をごくりと鳴らした
「交渉はもうじき始まるから、着替えに行くにも時間がない。さて、どうしてくれようか」
男性は、私を見上げながら鋭い視線を私に向ける
「申し訳ございません。私、なんでもします。お仕事を駄目にした分、なんでもしますので私に言ってください」
土下座をしたい気持ちで頭を深く下げると、頭上から深い溜息が降りた
「なんでも、か。なら、この番号に、今夜7時に連絡をくれ。 今はもう時間がないし君も仕事中だから、この時に君にどう弁償してもらおうか話し合おう」
男性は、一枚の名刺を私に渡した
『K&K 債権回収株式会社 サービシング
森川 恭介』
名刺には、そう表記されている
……もりかわ きょうすけ さん っていうのか
債権回収ってどんな会社?と思いながら、まじまじと名刺を凝視していると、森川さんが声を立てて笑った
「そんなに、珍しい名刺でもないよ。じゃあ、俺はこれで。 君、俺と同じような人を出さないように、これからは気をつけるんだよ」
うっ、そうですね……
注意散漫にならないよう善処します
森川さんは、店長からのお詫びとしてアイスコーヒー代を払わなくていいと店長に言われたけどしっかりと会計を済ませてからカフェを出て行き、ビル街へと消えていった
森川さんが居なくなった後の店内は通常のカフェに戻ったけど、私はその日の反省会で店長から初めての注意を受けた
私は、本当に、今日この日まで、こんな失敗をしたことがなかった
森川さんに出逢った今日まで、森川さんに目を奪われるまで
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