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私は、店長から注意を受けてから耐震基準を満たしていないアパートに帰り、秋の虫の鳴き声を建て付けの悪い網戸から聞きながらスマホと睨めっこをしていた
森川さんに指定された午後7時になり、森川さんの番号をスマホに入力する
番号が間違ってないか確認して、後は発信するだけにした
なんて、言われるんだろう?
どう弁償してもらおうか話し合うと言われたけれど、森川さんのあのスーツは私の一カ月分の給料から足が出るくらい、スーツのことを良く知らない私でも分かるほど高級そうだった
弁償となると、私の生活費と給料を合わせても足りない
ああ、本当にどうしよう……
今日昼間から、同じ事ばかり考えている
……尻込みしていても仕方ないし、とにかく、森川さんと話そう
私は一つ深呼吸をしてから発信を押す
発信音が、1、2秒鳴ってからすぐに森川さんに繋がった
「あの、私です」
『……ああ、君か。時間通りだね。 君って、意外としっかりしている子なんだね』
意外と?
それ、どういう意味?
見かけによらないってこと?
それとも、言い逃げする女だと思われていたってこと?
いや、ここで私がムッとするのはお門違いだ
「人に迷惑をかけたら、償うのは当たり前だと思っているので。 私が汚したスーツ、いくらするんですか?」
『いくらもしないよ。それに、弁償するって君は言ったけど、あの後すぐにクリーニングに出したから大丈夫だよ。君が心配しなくても、あのスーツを新調させるつもりはない』
……弁償は、いいの……?
森川さんの言葉に、自分でも分かりやすいなと思うくらい心底から安堵する私に森川さんが、喉の奥で笑う
「君、安心しているだろう。でも、安心するには未だ早いよ。君には、別のことで償ってもらいたいから』
「えっ、別のことって?」
スマホを持つ手が震え、落ち着かせるために握りしめ、身構えながら森川さんの言葉を待つ
『交渉を白紙にしたことだよ。おかげで、大きな獲物を逃してその挙句俺の成績も下がった。本当に、どうしてくれるのかな?』
怒涛を吐く森川さんから、電話越しに怒りが伝わる
「本当に、申し訳ございませんと思っています」
目の前に森川さんは居ないのに、私は頭を下げていた
『本当に申し訳ないって、思っている?』
「はい。心からお詫びしても、許されないと思っています」
沈黙が、流れる
まさか、森川さんのお仕事にまで私がコーヒーをこぼした影響が及んでいたなんて
私にどう償わせるんだろうと内心びくびくさせて、なんて弁償を求められるのか待つ
『君、なんでもしてくれるんだよね? なら、俺の言うことを聞いてくれるか。これが、君の俺に対する弁償だ。分かったかな?』
「はい。理解はしています…けど、言うことって具体的にはどういう」
『俺の言うことを全て受け入れる。ということだよ』
それが、弁償……?
私が森川さんの言うことを聞くだけで、いいってことだよね……
無償の弁償……
それは年中金欠の私にとって、願ったり叶ったりだ
言うことを聞くだけでいいなんて、なんだか拍子抜け
「分かりました。それで、森川さんの気が済むのなら私、なんでも聞きます」
そう言うと森川さんは、豪快に笑った
『君、本当に面白い子だね。ますます興味を惹かれたよ。じゃあさっそく、今日、言うことを聞いてもらおうかな。 君の家の住所を教えてくれ』
私の住所……?
私は、目を瞬かせた
住所を知って、森川さんはどうするつもりなんだろう
小首を傾げながら、私は森川さんにアパートの住所を教えた
『よし、じゃあ、今からそのアパートに行くから。君は、待っていてくれ』
えっ⁈
今から、来るってこと?
……今から⁈
森川さんは私が何かを言う前に、通話を強制終了させた
えっ、 どうして?
私が“弁償”するのに、わざわざ森川さんが私のアパートに来る必要はあるの?
私もまだ知り合ったばかりの人に自分の住所を教える前に、その疑問を思いつくべきだったけれど、どう考えても森川さんが私の家に来る理由が分からない
何故、家に?
何故、今から私に会いに?
……ううん、理由を気にしてる場合じゃない
森川さんはきっと、何が何でもという少々強引さを感じる雰囲気から、必ず今から私に会いに来るだろう
どうしよう、森川さんが来る
まずは、服装だよね
3年近く着ている毛玉付きのこんな部屋着を森川さんに見せれられない
私は抽斗を開けて、数少ない服の中からたった一枚しかない唯一のノースリーブのワンピースを引っ張り出した
黒のちょっと大人っぽいワンピースは安売りになるまで虎視眈々と待って、やっと手に入れた私の勝負服
なんの勝負もしないけどこれを着て、森川さんに会おう
少し、寒いな……
……あ、カーディガンを羽織ればいっか
よし、服装はこれで多分、大丈夫
髪はよく梳かして肩に流して、メイクは百均で買ったリップだけで、なんとかなるかな
小さな卓上鏡に何度も自分を映し、完璧かどうか確認した
なぜか心が高鳴っていて、初対面の人と夜会うのに緊張と不安は無くて、それよりこれから何が起こるのかとドキドキしていた
甘ささえも含んだ期待が、何故か膨らんでいた