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第4部 綺麗な猛毒
第21章 隣
二月六日の朝。特急を降りると、山の空気が冷たく澄んでいた。
前の日に降った雪が、道の端にまだ残っている。柔太朗は、小さな鞄を一つ肩にかけて、駅前を歩いた。
昨日の夕方、会議室を出てから、何をしたのか、よく覚えていない。ビルを出て、街を歩いて、気づくと駅にいた。仁人にだけメッセージを送った。
『山梨の工房を見たい。少しの間、いなくなる』
返信は遅かった。夜になってから届いた。
『分かった。工房長には、連絡しておく。無理はするな』
それだけだった。何も、聞かなかった。あの人は、そういうところが変わらない。
工房は、山あいの低い建物だった。
「柔太朗さん」
出迎えたのは、小柄な六十代の男だった。作業着の袖から出た指が、太くて節くれだっている。
「仁人さんから、お話は。遠いところを」
「急に、すみません」
「いえ。ちょうど、空いている台があります」
工房長はそれだけ言って、奥へ案内してくれた。何も、理由を聞かなかった。
窓際の隅に、古い作業台が一つあった。使い込まれた木の天板。傷の一つ一つが、誰かの手の跡のようだった。
「ここを、好きに使いなさい」
「ありがとうございます」
柔太朗は、鞄から道具を出した。槌、やすり、ペンチ。自分の手に馴染んだものだけを持ってきた。
スマートフォンが震えた。
舜からだった。
『どこにおる』
『柔』
『返事してくれ』
昨日から、何十通も届いていた。既読はつけていない。全部、読んでいる。読んでいて、返せないでいる。
柔太朗は、少し考えて、一通だけ打った。
『元気。ちゃんと食べてる。戻ったら、話そう』
場所は書かなかった。送信して、スマートフォンを、鞄の底にしまった。
銀の線材を火で焼いて、柔らかくする。冷まして、心棒に巻きつける。槌で叩く。
叩くたびに、金属が、少しずつ形を変えていく。
柔太朗は、何を作るのか決めていなかった。ただ、手を動かした。頭で考えると、堂々巡りになる。舜のこと。会社のこと。自分のこと。手が動いているときだけ、頭の中が、静かになる。
輪ができていく。細い、銀の輪。
いつもなら、ここで、輪の両端をぴたりと合わせて、溶接する。継ぎ目のない完全な輪にする。それが、指輪の形だった。
柔太朗は手を止めた。
両端を、合わせなかった。ほんの少しだけ、間を残した。一ミリ半ほどの隙間。
その隙間を、しばらく見つめた。
「開いたままに、するのかね」
いつの間にか、後ろに工房長が立っていた。
「……はい。たぶん」
「たぶん、か」
工房長は笑った。
「手はね、嘘をつかんよ。頭は、いくらでも、嘘をつくが。迷ったときは、手を動かしなさい。手が、答えを、先に知っていることがある」
「はい」
工房長は、隣の台に腰を下ろした。
「仁人さんとも、その話をしたよ。量産の話だ」
「聞きました。手で作るものと、型で作るものを、分ける」
「そうだ。全部を、一点物にする必要はない」
工房長は、自分の手を見つめた。
「型に任せていい部分を、決める。手で残す部分を、決める。それも、作り手の仕事だ。全部を、自分の手で抱えなくていい。抱えたものは、いつか、重くなる」
柔太朗は、その言葉を聞いていた。
全部を、自分の手で、抱えなくていい。
仁人の顔が、浮かんだ。何かを、一人で抱えている人の顔。
それから、舜の顔。全部を、自分の手の中に置こうとしている人の顔。
二人とも、同じだと思った。
手放していいものと、手放せないものを、決められない。だから、全部を握りしめる。
「……僕も、ですかね」
小さく言った。
「何が」
「いえ。独り言です」
工房長は、何も言わずに頷いた。
工房の近くの、小さな宿に部屋を取った。
畳の部屋。窓の外に、雪の残る山の影。柔太朗は、布団の上に座って、右手を目の高さに持ち上げた。
中指の、細い銀の指輪。
二年半前の夜に、舜がはめてくれたもの。
世の中に出さなあかん、と言った声。あの声は、嘘ではなかった。あの夜、舜が見つけてくれなかったら、自分は、今も、名前の出ない図面を引いていた。舜は、自分を、世界に見せようとしてくれた。それは本当だ。
だから、余計に分からなかった。
世界に見せたい、と言った人が、なぜ、自分を隠そうとするのか。
窓の外を見る。
分かっている気がした。
怖いのだ、と思った。
世界が、自分を見つけるほど、舜は怖くなる。自分が、どこかへ行ってしまうのではないか。
舜の手が、届かないところへ。その恐怖が、優しい言葉の形を借りて出てくる。
柔太朗は、自分の胸に手を当てた。
僕も同じだ。
舜を、誰にも渡したくない。舜が、他の誰かの隣で笑うのを、見たくない。
舜の、あの人懐こい笑顔を独り占めしたい。愛情が重い。独占欲が強い。自分でも知っていた。
それは、舜と同じだ。
では、何が違うのか。
柔太朗は、長い間考えた。
指輪を見つめる。輪の中に、自分の指が、収まっている。ぴたりと隙間なく。
舜の手の中に、いたいのではない。
その言葉が、静かに浮かんだ。
舜の隣に、いたい。
手の中ではなく、隣に。閉じ込められるのではなく、並んで立つこと。
その違いが、はっきり言葉になった。
僕は、舜が好きだ。舜が、僕を手の中に置きたがるのが、怖いのではない。手の中に置かれたら、舜の顔が、見えなくなるのが、嫌なのだ。隣にいれば、顔が見える。目を見て、話せる。
スマートフォンが震えた。
鞄から取り出す。
舜からだった。
『……ごめん』
それだけだった。
柔太朗は、画面をじっと見ていた。
ごめん、の後ろには何が続くのだろう。
行かせへんと言って、ごめん。嘘をついて、ごめん。それとも、まだ何も言えない、ごめん。
返信はしなかった。
あの人が、自分で、その先を言葉にするまで。
待とうと思った。責めずに。急かさずに。
三日目の午後、指輪ができあがった。
磨いて光を出す。細い銀の輪が、窓の光を静かに返した。
両端の間に、小さな隙間がある。一ミリ半。そこから、光がまっすぐ通り抜けた。
柔太朗は、左手の人差し指にはめてみた。
輪は、ぴたりと閉じてはいない。けれど、指から落ちることもない。
少しだけ開いた輪は、指を締めつけない。それでいて、確かにそこにある。
いい、と思った。
工房長が、通りかかって指輪を見た。
「ほう」
それだけ言って、少し笑った。
「いい形だ。開いているのに、ちゃんと、輪だ」
「はい」
柔太朗は、指輪を光にかざした。
「閉じていなくても、輪なんですね」
自分の言葉に、少し驚いた。
それから、スマートフォンを開いた。
パリの、あの女性への返事を書く。
短く。自分の言葉で。
『お待たせしました。
共同で、一点だけ、作りませんか。
指輪を、二つ。あなたと僕が、それぞれの手で作って、対にする。
場所も、時期も、僕の意思で決めます』
送信した。
胸の奥で、何かが、静かに定まった。
次に、仁人に送る。
『明日、戻る』
すぐに、返信が来た。
『分かった。気をつけて』
それから、少し間を置いてもう一通。
『舜太は、ずっと、待っている』
柔太朗は、画面を見て小さく笑った。
分かってると打って、消した。
代わりに、こう打った。
『うん。ちゃんと、話す』
工房の窓から、山の稜線が見えた。雪が、日の光を白く返している。
閉じ込められるのでも、閉じ込めるのでもなく。
隣にいる。
その形を、手が先に知っていた。
コメント
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うわああああ第22話!!読んだ読んだ😭✨ 指輪、閉じてないのにちゃんと輪になってるって言葉、めっちゃ刺さった……「手の中にいたいんじゃなくて隣にいたい」って柔太朗が自分の気持ちを言葉にできたシーン、ほんと尊すぎてもうダメだった……💦💦💦 舜からの「……ごめん」だけのメッセージも、まだ返さないで待とうとするところも、二人の距離感がじわじわ変わっていく感じがたまらんかった……! 次、ちゃんと話すって言ったから、もう期待して待ってるよるりさん!!😭💕