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第4部 綺麗な猛毒
第22章 引き出し
二月六日の夜。アトリエの灯りは消えていた。
舜太は扉を開けて、中を覗いた。作業台が、四つ並んでいる。一番奥の台が、柔太朗のものだ。
片づいていた。
糸鋸も、やすりも、ペンチも、決まった位置に収められている。銀粉の一粒も残っていない。台の隅には、水晶の原石が一つだけ、ぽつんと置かれていた。仁人が、山梨で買ってきたものだ。
「柔太朗さん、いつも、散らかすのに」
背後から、職人の声がした。
「台が、こんなに綺麗なの、初めて見ました」
「……そうか」
「どこか、行かれたんですか」
「外で、作業しとる」
嘘だった。分かっていた。けれど、他に言葉がなかった。
職人は、それ以上聞かなかった。「そうですか」と言って、帰っていった。
一人になったアトリエで、舜太は、柔太朗の台の前に立った。木の天板に指を置く。冷たかった。
スマートフォンを、取り出す。
送った文字が、画面の上に延々と並んでいた。
『どこにおる』
『柔』
『返事してくれ』
『頼む』
『行かせへんて言うたんは、』
そこで、途切れている。続きを打とうとして打てなかった。
その下に、たった一通だけ返信があった。
『元気。ちゃんと食べてる。戻ったら、話そう』
舜太は、その文字を何度も読んだ。何度読んでも、場所は書いていなかった。
二月七日。ヴェルディエへの最終条件の提示は、勇斗の会議室で行われた。
舜太は、仁人と並んで座った。柔太朗の席は空いていた。
仁人が、最終条件を説明した。価格。経営体制。留任。柔太朗の制作の自由。
淀みがなかった。舜太は、何も耳に入ってこなかった。
「ありがとうございます」
説明が終わったあと、勇斗が口を開いた。
「ここで、一つお願いがあります」
勇斗は、資料から顔を上げた。
「買収案は、いったん保留にさせてください。別の形を、一週間、検討したいんです」
「別の形」
仁人が、静かに聞き返した。
「はい。詳細は数字が固まってから。ただ、私は、これが皆さんにとっても、いい形になると考えています」
舜太は頷いた。上の空で。
「……分かりました」
勇斗の目が、少し舜太を見た。何かを、言いたそうだった。けれど、勇斗は何も言わなかった。
帰り道、ビルの前の通りで、舜太は仁人に聞いた。
「柔、どこにおるか、知っとるやろ」
仁人は、足を止めた。
「……知っている」
「教えてくれ」
「言えない」
仁人は、平らな声で言った。
「あいつに、頼まれた」
舜太は、何も言えなかった。
分かっていた。仁人は、柔太朗の意思を優先している。舜太の意思より。
あの取締役会で、賛成票を投じたときと同じだった。
「……そうか」
「舜太」
仁人が、口を開いた。
「あいつは、無事だ。食べているし、眠っている。それだけは、言える」
「……ああ」
歩き出そうとして、舜太は足を止めた。
「仁ちゃん」
「何だ」
「昨日の言葉。悪かった」
風が吹いた。
「仁ちゃんかて、何か隠しとるやろ、て。あれは、俺が、追い詰められて、言うただけで」
「いい」
仁人は、短く言った。
「本当のことだ」
舜太は、仁人を見た。
「俺にも、隠していることがある。お前の言った通りだ」
仁人は、まっすぐ舜太を見返した。目の下の影は、まだあった。けれど、その目は少し違って見えた。何かが、軽くなったような、そういう目だった。
「近いうちに、話す」
「……ほんまに」
「ああ。怖いが」
仁人は、ほんの少し笑った。
舜太は、そんな笑顔を、初めて見たような気がした。
「……待っとる」
それだけ、言えた。
二月八日の夜。
誰もいないフロアで、舜太は自分のデスクの、いちばん下の引き出しの前に、しゃがんだ。
鍵を差し込む。
かちり、と音がした。あの日と同じ音だった。
引き出しを開ける。中には、生成りの封筒が、一つあった。あの日から、動かしていない。
封筒を手に取る。軽かった。
デスクの灯りの下に、手紙と提案書を広げた。
もう、何度読んだか分からなかった。けれど、今夜は、最初から最後まで読んだ。一行も飛ばさずに。
共同制作の提案書。半年間。三か月のパリ滞在。制作の自由。買収とは、完全に切り離す。
『この提案は、Lueurの買収の成否にかかわらず、有効です』
その一行を読んだ。
それから、手紙。
あなたの余白を、あなたの手で埋めるところを見たい。
舜太は、その一文を、声に出さずに、口の形だけでなぞった。
世界が、柔太朗を見つけている。
それを望んだのは、自分だった。
あの夜、指輪を光に透かして思った。これを、世の中に出さなあかん。見つけた人間の責任や。そう言った。柔太朗は、大げさじゃないと笑った。大げさではなかった。本気だった。
本気だった、はずだった。
それなのに、今、自分は、その世界の目から柔太朗を隠している。
矛盾、という言葉が頭に浮かんだ。
自分が望んだ結果を、望まなくなる。
世界に見せたい。世界に渡したくない。両方を、同時に願っている。
舜太は、手紙を机の上に置いた。
パソコンを開く。
ファイルの一覧。共有のフォルダの、いちばん下に一つだけ、見慣れない名前があった。
「非公開」
開く。中に、ファイルが一つ。
「柔_契約案_仮」
開いた。
甲、株式会社Lueur。乙、柔太朗。契約期間、十年。第八条、競業避止義務、二年。
文字が、白い画面に静かに並んでいた。
舜太は、その一行一行を読んだ。
これは、契約やと思った。合理的な。会社の価値を守る。買い手にも見せられる。
けれど、読んでいるうちに、別の言葉が浮かんだ。
檻、や。
思った瞬間、背筋が冷たくなった。
檻。鍵は、ついていない。けれど、十年。二年。そういう文字で、柔らかく編まれた、檻だった。
柔太朗は、何と言ったか。閉じ込められたいわけじゃない。
言っていなかった。まだ、その言葉は、聞いていなかった。
けれど、あの会議室で、あの静かな目が言っていた。
僕のため、って言うたびに、舜の顔、僕を見てないよ。
削除のキーの上に指を置いた。
押せなかった。
押した瞬間に、これまで自分がしてきたことの、全部が、事実として、ここに現れる気がした。
契約を作ったこと。手紙を開けたこと。嘘をついたこと。
指が震えた。
「……俺は」
声が、出た。誰もいないフロアに。
「俺は、柔のためや、て。ずっと、言うてきた」
自分の声が聞こえた。低かった。
「せやけど、ちゃう」
言葉が、口から、ぽろぽろとこぼれた。
「俺が、欲しかったんは」
唇が、震えた。
「才能やのうて——」
そこで、止まった。
続きが、出てこなかった。喉の奥まで、来ているのに。言葉になる、その一歩手前で、全部が詰まった。
言ってしまえば、戻れなくなる。
その予感が、舜太をそこで止めていた。
長い時間が、経った。
舜太は、手紙を封筒に戻した。提案書も、重ねて入れた。
引き出しに、入れる。
鍵はかけなかった。
引き出しは、少し、開いたままにした。
閉じてしまえば、また、隠したことになる気がした。かといって、閉じずにいる勇気もまだなかった。
その中途半端な隙間が、今の自分の精いっぱいだった。
スマートフォンが震えた。
画面を見る。
柔太朗からだった。
『明日、戻る』
短い、一行だった。
舜太は、それをじっと見つめた。
既読は、すぐについた。けれど、返信が打てなかった。
何を返せばいいのか、分からなかった。
おかえり、では、軽すぎた。ごめん、では、足りなかった。
画面が暗くなる。
指の先に、まだ、削除キーの感触が残っていた。
窓の外が、少しずつ、白んでいく。
舜太は、その光を、一睡もせずに待った。
コメント
1件
うわ、今回は重かったですね……。舜太が柔太朗の台の前に立って、冷たい天板に触れるところからもう胸が苦しかったです。特にあの契約書を「檻」だと気づく場面、背筋が冷えました。「才能やのうて」の先が言えなくて詰まる感じ、すごく伝わってきて。引き出しを閉じ切れずに開けたままにする、その中途半端な勇気にじんときました。明日戻るってきたけど、舜太が何て返すのか気になって仕方ない……。