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絶望の淵、すれ違う光、そして交わらぬ軌跡
「…もう、やめてくれ…」
俺、高橋優斗は、冷たいコンクリートに額を押し付け、荒い息を吐き続けた。放課後の人気のない校舎裏。ここは、俺にとって日常となった地獄の舞台だ。背中を壁に預けたまま、全身を襲う激痛に耐える。殴られた頬は腫れ上がり、視界は涙と血で滲んでいた。口の中は、鉄の味がした。
「なんだよ、高橋。まだ生きてんのかよ。しつけーな、おい」
田中の下卑た声が、頭上で響く。小林はスマホを構え、加藤は俺の制服の胸倉を掴んで引きずり起こす。散らばった俺の教科書と、破れた筆箱が、彼らの足元に嘲笑うかのように転がっていた。筆箱のチャックは引きちぎられ、中身の文房具はバラバラに散乱している。特に大切にしていた、祖母が買ってくれた色鉛筆の芯が、何本も折れていた。
「親が親なら子も子だろ。キモいんだよ、お前。浮気野郎のガキはさっさと消えろよ」
彼らの言葉は、鋭いナイフのように俺の心を切り裂いた。母親の不倫が発覚し、家庭内は地獄と化した。父親と母親の怒鳴り声が、夜な夜なアパートに響き渡った。ガラスが割れる音、何かが投げつけられる音、そして母親の嗚咽。隣の部屋から聞こえるその音に、俺は耳を塞ぎ、布団に潜り込んで震えることしかできなかった。震える体で、夜が明けるのをただひたすら待った。そして、ある日突然、母親は荷物をまとめて家を出て行った。置き手紙一枚なく、ただ消えるように。その日以来、父親は俺に冷たい視線を向けるようになった。「お前が女だったら、こんなことにはならなかった」と、顔を歪めて吐き捨てるように言われたこともあった。俺は男なのに、なぜそんなことを言われるのか理解できなかった。ただ、彼の目に映る俺が、自分を苦しめる原因なのだと、幼いながらに悟った。そして、その視線は、徐々にねっとりとした嫌悪感を含んだものへと変わっていった。俺の部屋のドアは、父親が部屋を出たはずなのに、なぜか夜中にゆっくりと開く音がした。それは、いじめよりもずっと根深く、俺の心を蝕む、恐ろしい変化だった。
夜中に、寝静まったはずの部屋のドアが、ゆっくりと、音もなく開く。ギギギ…という微かな軋む音が、俺の鼓膜を不気味に震わせた。俺は息を潜め、心臓が破裂しそうなほど脈打つのを感じながら、寝たふりを続けた。布団がめくられ、冷たい手が俺の体に伸びてくる。指先が、俺の首筋を這い、胸元をなぞる。全身の毛穴が開き、生理的な嫌悪感と恐怖で、身動き一つ取れない。声を出したら、もっと酷いことになる。そう、本能的に理解していた。この家は、もはや俺にとって、安息の場所ではなく、逃げ場のない監獄だった。叫びたい。助けてと叫びたい。だが、声は喉の奥に張り付いて、一文字も発することができない。俺の世界は、どこまで行っても地獄だった。
今日もまた、彼らが去った後も、俺はその場に倒れたまま動けなかった。冷たいアスファルトが、じわりと体温を奪っていく。校舎の壁にもたれかかったまま、俺は途方に暮れた。もう、このまま消えてしまいたい。意識が薄れていく中で、そんなことを考えていた、その時だった。
カラスの鳴き声が、遠くで聞こえる。空は、鉛色に染まり、今にも雨が降り出しそうだった。鉛色の空に、俺の心も沈んでいく。俺は、瞼の裏に焼き付いた彼らの嘲笑を思い出し、胸がひどく痛んだ。誰にも助けを求められない。誰にも見向きもされない。俺は、本当に独りぼっちなのだと、改めて突きつけられた気がした。
俺の隣を、クラスメイトたちが足早に通り過ぎていく。彼らは皆、俺の存在に気づいていないかのように、あるいは気づいていても見て見ぬふりをするかのように、足音を立てて去っていく。俺は、透明人間になった気分だった。ここにいるのに。こんなに苦しんでいるのに。誰一人として、俺を見てくれない。俺の存在は、まるで校舎裏の古びたゴミ箱のように、誰からも顧みられない。
雨が、ポツリ、ポツリと降り始めた。アスファルトに落ちる雨粒が、俺の頬を伝う冷たい涙と混ざり合う。情けない。惨めだ。こんな俺は、生きている価値なんてない。
その時、遠くから足音が近づいてくるのが聞こえた。ゆっくりと、だが確実に。俺は、身構えた。また、誰かに見つかるのか。また、嘲笑われるのか。
足音は、俺のすぐ近くで止まった。恐る恐る顔を上げると、そこに立っていたのは、同じクラスの綾瀬湊だった。色素の薄い茶色の髪と、真っ直ぐな瞳。俺とは正反対の、ごく普通の高校生。彼は、俺の惨めな姿を、ただ見下ろしていた。彼の表情は、無関心でもなく、かといって同情でもない。ただ、そこにいる、それだけの表情だった。まるで、道端に転がる石を見るかのように。
俺は、彼の目に映る自分が、どれほど醜く、汚れているのかを悟った。彼の視線が、俺の全身を焼き尽くすようだった。俺は、彼に助けを求めたかった。だが、言葉が出ない。喉がひきつって、声が出ない。俺は、地面に転がったまま、彼の顔を見上げるしかなかった。
湊は、何も言わなかった。俺の目の前を、そのまま通り過ぎていく。彼の足元が、散らばった俺の教科書を軽く蹴り、教科書はそのまま汚れた水たまりの中に落ちた。彼は、それに気づかないかのように、何事もなかったかのように、足音を立てて去っていく。俺の体は、期待と絶望が入り混じった奇妙な感情で、震えが止まらなかった。彼は、俺を見捨てて、去っていく。やはり、誰も俺を助けてはくれない。それが、俺の運命なのだ。
彼の足音が遠ざかっていくのを聞きながら、俺は再びアスファルトに顔を伏せた。雨は、ますます強くなっていた。
孤独の深化、そして見えない糸
それから数週間、俺の日常は変わらなかった。学校に行けばいじめられ、家に帰れば父親の視線に怯える。俺は、生きていく意味を見失っていた。生きていることが、ただ苦痛でしかなかった。
俺の机には、毎日新しい落書きが増えていった。
「死ね」
「キモい」
「いらない」
「生きてる価値なし」
「汚い」
そんな言葉が、俺の心を深く抉った。教室にいる間も、俺は常に誰かの視線を感じていた。まるで、自分が檻の中の動物であるかのように。俺は、誰もいない教室で、その落書きを消しゴムで必死に消した。消しても消しても、また次の日には新しい落書きが増えている。まるで、俺の心に刻まれた傷のように、何度消しても消えない。指先が真っ黒になるまで消し続けた。消しゴムのカスが、俺の指先にまとわりつく。
昼休み、俺はいつも一人で屋上や体育館の裏など、人目のつかない場所で弁当を食べていた。だが、最近はそこにも田中たちが現れるようになった。彼らは、俺が弁当を広げた瞬間に現れ、俺の目の前で弁当を奪い、地面に叩きつけたり、ゴミ箱に捨てたりした。
「おい、高橋。また一人飯かよ。友達いねーの?w」
小林が、俺の弁当を蹴り飛ばした。中身が散らばり、地面にシミを作る。俺は、何も言わずに、ただその光景を見ていた。反抗する気力もなかった。
「おい、食えよ。せっかくお前のためにもっと美味しくしてやったんだぞ」
田中が、落ちた弁当を足で踏みつけた。彼の汚いスニーカーが、俺が貯金で卵を買い、朝早くに起きて作った卵焼きを踏み潰す。彼らは、俺の反応を見て、満足げに笑いながら去っていった。俺は、散らばった弁当をただ見つめていた。空腹よりも、心の痛みが大きかった。
俺は、昼休みが来るのが怖かった。授業中も、いつ彼らが俺の机を蹴ってくるのか、いつ俺の教科書を隠すのかと、ずっと怯えていた。クラスメイトたちの視線も、俺には突き刺さるようだった。誰もが俺を嘲笑っているように感じられた。俺は、教室の片隅で、ただ息を潜めることしかできなかった。俺の存在は、教室の風景に溶け込んでいるかのように、誰にも認識されなかった。
そんな日々の中で、俺は密かに湊の姿を探すようになった。彼が教室で笑っている声を聞くと、胸の奥が少しだけ温かくなる。彼がノートを取る真剣な横顔を見ていると、不思議と心が落ち着いた。彼は、俺の世界とは全く違う場所にいる人間。俺とは、住む世界が違う。だけど、彼が同じ教室にいるという事実が、俺にとって唯一の救いだった。それは、憧れに近い感情だった。手の届かない、遠い星を見上げるような。
ある日の放課後、俺は図書室で勉強をしていた。テストが近く、少しでも良い点を取って、両親を見返してやりたいと思っていた。ふと、外が騒がしいことに気づいた。窓の外を見ると、グラウンドで何人かが集まっている。誰かがいじめられているのだろうか。そう思ったが、俺には関係のないことだと思った。俺には、自分のことで精一杯だった。
図書室を出ると、廊下の端で、クラスメイトの男子生徒たちが、何やら楽しそうに話しているのが聞こえた。
「おい、今日の放課後、田中たちがまた高橋を呼び出してるらしいぜ」
「まじかよ。どんだけしつこいんだよ、アイツら」
「でも、高橋も懲りねーよな。なんであんなに根暗なんだろ」
「ま、自業自得だろ。あいつが悪いんだよ」
俺は、その場から動けなくなった。俺のことだ。また、殴られる。また、馬鹿にされる。足が震え、全身から冷や汗が吹き出した。逃げたい。どこか遠くへ逃げ出してしまいたい。
だが、どこにも逃げ場なんてなかった。家に帰れば父親がいる。学校に行けば、彼らがいる。俺の世界は、どこまで行っても地獄だった。
俺は、フラフラと歩き出した。向かう先は、校舎裏。まるで、自分の意思とは関係なく、体が勝手に動いているかのようだった。
校舎裏にたどり着くと、田中、小林、加藤が俺を待ち構えていた。彼らの顔は、俺を見るなり歪んだ。
「おせーぞ、高橋。待たせてんじゃねーよ」
田中が、俺の胸ぐらを掴んで壁に叩きつけた。頭を強く打ち、視界が白く点滅する。
「金、持ってんだろ。早く出せよ。ねぇのか? じゃあ、その体に覚えさせろよ」
小林が、俺の制服のポケットを探り、財布を抜き取った。中には、今日の昼食のために持ってきた小銭が少しだけ入っていた。田中は、それを確認すると、舌打ちをした。
「なんだよ、これだけかよ! ケチくせーな、おい! じゃあ、その体に覚えさせろよ!」
加藤が、俺の腹を蹴りつけた。その衝撃で、俺は地面に倒れ込んだ。彼らは、俺の体をサンドバッグのように蹴り続けた。痛みよりも、屈辱感が俺の心を支配した。俺は、何の抵抗もできなかった。ただ、されるがままに、体を丸めるしかなかった。俺は、ひたすら時間が過ぎるのを願った。早く終わってくれ……早く。
暗闇の中の微かな光、そして戸惑いの連鎖
遠くで声が聞こえた。
「おい、何してるんだ!」
その声に、田中たちは動きを止めた。俺は、ゆっくりと顔を上げた。そこに立っていたのは、同じクラスの綾瀬湊だった。色素の薄い茶色の髪と、真っ直ぐな瞳。彼は、呆然とした表情で、俺たちを見ていた。
俺と湊の視線が、わずかな間、交錯した。俺は、期待した。彼が、俺を助けてくれるのではないか。そう、淡い期待を抱いた。だが、次の瞬間、彼の視線は俺から外れ、まるで何かを見なかったかのように、そっと目を伏せた。
「なんだよ、綾瀬。お前には関係ねーだろ。さっさと帰れよ、邪魔だ」
田中が、不機嫌そうに言った。
湊は、何も言わなかった。ただ、一瞬だけ、俺のほうを見た。その瞳は、何かを訴えかけているようにも見えたが、すぐに迷いの色に染まり、彼はゆっくりと、校舎裏の入り口から姿を消した。
俺は、絶望した。やはり、誰も助けてはくれない。それが、俺の運命なのだ。
湊が去った後、田中たちは俺への暴行を再開した。湊の姿が消えたことで、彼らの暴力はさらにエスカレートした。俺は、その夜、意識を失うまで殴られ続けた。
その翌日、俺は学校を休んだ。体中のアザもひどかったが、何よりも心がひどく重かった。俺は、湊に裏切られたような気持ちになっていた。微かに抱いた希望が、粉々に打ち砕かれた。湊は、俺の隣を通る時も、目を合わせようとしない。まるで、俺という存在を認識していないかのように。俺は、再び透明人間になった気分だった。
いじめは、さらに悪化した。田中たちは、湊が俺に関わらなくなったことで、ますます図に乗るようになった。彼らは、俺を人間扱いしなかった。俺の机の中にゴミを入れられたり、上履きが隠されたり、給食に砂を入れられたり。それらは、じわじわと俺の精神を削っていった。
ある日の放課後、俺は体育倉庫に閉じ込められた。倉庫の中は、埃っぽく、鉄臭い匂いが充満していた。窓もないため、中は真っ暗で、空気も薄い。俺は、パニックに陥り、ドアを叩き続けた。
「開けてくれ! 誰か、開けてくれ!」
どれくらいそうしていたのか分からない。息苦しさと恐怖で、意識が朦朧としてきた。時間は、永遠にも感じられた。喉は枯れ、手は血豆だらけになっていた。もう、誰にも見つけてもらえない。このまま、ここで死んでしまうのだろうか。そんな諦めが、俺の心を覆い始めた。
その時、遠くで微かに、鍵がガチャリと音を立てるのが聞こえた。まさか。希望と絶望が入り混じった感情で、俺は再びドアを叩いた。
ドアが、ゆっくりと開いた。外の光が眩しく、俺は思わず目を閉じた。そして、薄目を開けると、そこに立っていたのは、綾瀬湊だった。
色素の薄い茶色の髪は、汗で額に張り付いている。彼は、部活のジャージ姿で、顔には驚きと、そして微かな戸惑いの色が浮かんでいた。
「優斗…? お前、こんなところで何してるんだ…?」
湊の声が、俺の耳に届いた。その声は、ひどく掠れて聞こえた。俺は、その場でへたり込んだ。
「閉じ込められた…田中たちに…」
俺は、震える声でそう呟いた。湊は、俺の顔を見て、眉をひそめた。彼の視線は、俺の腫れ上がった頬や、服の汚れを捉えていた。その視線の中に、一瞬だけ、後悔のようなものが垣間見えた気がした。
「…ひどいな…」
湊は、そう呟くと、俺に手を差し伸べた。その手は、ひどく温かかった。俺は、その手を掴み、ゆっくりと立ち上がった。全身が、軋むように痛んだ。
「ありがとう…湊…」
俺は、掠れた声でそう言った。湊は、何も言わずに、ただ俺の背中をポン、と叩いた。
「もうこんな時間だし、とりあえず帰ろう。…うち、近いから。ここで手当てしよう」
湊は、そう言って、体育倉庫の鍵を閉めると、俺の隣を歩き始めた。彼の隣を歩く帰り道は、今まで感じたことのない穏やかさに満ちていた。しかし、俺の心には、あの日の校舎裏で彼が俺を見捨てた光景が、拭い去れない影として残っていた。そして、この温かさが、いつまで続くのかという不安も。
湊の家は、駅から少し離れた閑静な住宅街にある一軒家だった。玄関を開けると、味噌汁の優しい香りが漂ってきた。リビングには、テレビの音が微かに聞こえる。温かいリビングに案内され、ソファに座ると、湊は慣れた手つきで救急箱を持ってきた。
「痛むだろ? ちょっと染みるけど我慢な」
消毒液のひんやりとした感覚と、絆創膏が貼られる時の優しい感触。湊の指先が触れるたびに、今まで押し殺してきた感情が堰を切ったように溢れ出した。込み上げてくる涙を止められない。ボロボロと流れ落ちる俺の涙に、湊は少し驚いたように目を見開いたが、何も言わずにただ俺の背中を優しく撫でてくれた。彼の指先が俺の背中を優しく撫でるたびに、心が締め付けられるような、不思議な感覚に襲われた。その温かさが、俺の凍り付いた心を溶かしていくようだった。
「…ひどいな」
湊がぽつりと呟いた。その言葉が、俺の心を深く抉った。俺はこれまで誰にも話せなかったいじめのこと、そして父親からの性的虐待のことを、湊に全て打ち明けた。言葉にするたびに、胸の奥から黒い塊が湧き上がってくるようだった。湊は黙って、ただ俺の話を聞き続けてくれた。時折、悲しそうに眉をひそめ、怒りに震えるような表情を見せた。彼の真剣な眼差しは、俺の言葉を一つ一つ受け止めてくれているようだった。彼の瞳には、俺への同情と、そしてかすかな怒りが宿っているように見えた。
全てを話し終えた後、湊は静かにそう言った。「…そうか。よく、話してくれたな。」その声は、驚くほど優しかった。そして、その優しさが、俺の心をひどく震わせた。今まで誰も俺の苦しみに耳を傾けてくれなかったのに。
「助けるよ。俺が、優斗を助ける」
その日、湊の言葉は、真っ暗な俺の世界に差し込んだ一筋の光だった。あの時の湊の表情、声の響き。俺は生涯、忘れることはないだろう。彼の瞳には、迷いのない、強い意志が宿っていた。
決意と代償
翌日から、俺の学校生活は少しずつ、しかし確実に変わり始めた。湊が、俺の盾になってくれたのだ。
昼休み、俺が田中たちに囲まれそうになると、湊はさりげなく俺の隣に立って、彼らを牽制した。最初は田中が「なんだよ、綾瀬! お前、最近調子乗りやがって!」と文句を言ったが、湊はひるまなかった。
「田中、お前、最近調子乗りすぎじゃないか? そろそろ先生に言いつけてもいいんだぞ。それに、高橋に何かあったら、俺も責任取るつもりだから」
湊の真っ直ぐな言葉に、田中たちはたじろいだ。湊は、決して喧嘩が強いわけではない。むしろ、俺と同じくらい線の細い、ごく普通の少年だ。しかし、彼の言葉には不思議な説得力があった。まるで、彼が本気で俺を守ろうとしているという、揺るぎない覚悟が伝わってくるかのようだった。彼らは何も言えずに、不満げな顔をして去っていった。
最初は、俺も不安だった。また、いじめが酷くなるのではないか。湊にまで迷惑をかけてしまうのではないか。だけど、湊は毎日、俺の隣にいてくれた。放課後、俺が一人で帰ろうとすると、「優斗、一緒に帰ろうぜ」と、当たり前のように声をかけてくれた。二人で並んで歩く帰り道は、今まで感じたことのない穏やかさに満ちていた。夕焼け空の下、俺たちは他愛のない会話を交わした。
ある日のこと、体育の授業で使う体操服が俺だけなくなっていた。ロッカーを探しても見つからず、困り果てていた俺に、湊が声をかけてきた。
「どうしたんだ、優斗。体操服、見つからないのか?」
俺が頷くと、湊は眉間にしわを寄せた。
「また、アイツらの仕業か…」
湊は、迷いなく田中たちの元へ向かった。俺は、その背中を不安な気持ちで見つめていた。
「おい、田中。高橋の体操服、どこにやったんだ? 隠したんだろ」
田中は舌打ちをして、「知らねーよ。なんで俺がそんなことしなきゃなんねーんだよ」と、そっぽを向いた。
「正直に言えよ。見つからなかったら、俺、警察にだって言えるんだからな?お前らがこの前、高橋を殴ってたことだって、警察に話してないだけなんだからな」
湊の言葉に、田中の顔色が変わった。彼は不服そうな顔で、ロッカーの奥から俺の体操服を乱暴に引っ張り出した。
「ほらよ! ったく、めんどくせぇ奴だな、綾瀬は」
体操服は、床に投げ捨てられた。湊は、黙って体操服を拾い上げ、埃を払ってくれた。その優しい手つきに、俺は胸が熱くなった。俺の心に、今まで感じたことのない温かさが広がっていく。
徐々に、いじめっ子たちの嫌がらせは減っていった。彼らは、湊の存在を鬱陶しく思いながらも、彼に逆らうことができないようだった。湊は、俺の盾になってくれた。彼の存在が、俺の学校生活に、確かな光をもたらしてくれたのだ。
放課後、湊と二人で学校の近くのコンビニに寄って、アイスを買った。レジ横に置いてある新商品の「チョコミント味」のポップを見ながら、湊が言った。
「優斗、チョコミント好きか?」
俺は首を横に振った。
「いや、あんまり…歯磨き粉の味がするから」
湊はくすっと笑った。
「だよな。俺もあんまり得意じゃないんだ。でも、友達がめっちゃ好きでさ、よく勧めてくるんだよ」
湊は、そう言って、レモン味のアイスを選んだ。俺は、抹茶味のアイスを手に取った。
「抹茶、好きなんだ」
湊が俺のアイスを見て言った。
「うん。苦いんだけど、甘いところもあって、それが好き」
湊は、何も言わずに、ただ優しい目で俺を見ていた。その視線が、俺の心にじんわりと染み渡る。こんな他愛ない会話が、俺にとっては宝物だった。今まで、誰かとこんな風に話したことなんてなかった。
家庭という名の闇との決別、そして新たな試練
学校でのいじめが減ると、次に俺が向き合わなければならないのは、家庭の問題だった。父親からの性的虐待。それは、いじめよりもずっと根深く、俺の心を蝕んでいた。湊は、俺の父親からの虐待についても真剣に考えてくれていた。
「…お前の父親、また手を出そうとしたら、今度こそ俺が止める。証拠も残そう」
湊はそう言って、俺に小型の録音機を渡してくれた。手のひらに収まるほどの小さな機械。こんなものが、俺の人生を変えることができるのだろうか。半信半疑だったが、湊の真剣な眼差しに、俺は彼の言葉を信じた。俺は、湊の部屋で使い方を教わり、彼の部屋の隅に置かれた観葉植物をぼんやりと見ていた。彼のお母さんが育てているらしい。こんな温かい家庭があるんだな、とぼんやり思った。
それから数日後、やはり父親は夜中に俺の部屋にやってきた。暗闇の中、息を潜めて録音ボタンを押す。荒い息遣い、そして俺の体が触れられる音。恐怖で震えながらも、俺は必死に耐えた。冷たい手が俺の頬を撫で、首筋を這う。生理的な嫌悪感で全身が粟立つが、俺はただひたすら、時間が過ぎ去るのを待った。
次の日、俺は震える手で録音機を湊に渡した。湊は、俺の顔を見て、何も言わずにただ力強く頷いた。そして、すぐに俺の父親に電話をかけた。俺は隣で、湊の毅然とした声を聞いていた。湊は、父親に直接会う約束を取り付けたのだ。俺は不安でいっぱいだったが、湊は俺の手を優しく握ってくれた。その手の温かさが、俺の心を少しだけ落ち着かせた。
「大丈夫だ。俺が、優斗を守るから。もう、お前を一人にはさせない」
数日後、湊は俺と一緒に父親に会いに行った。場所は、俺のアパートの近くにある喫茶店だった。古びた喫茶店で、カランコロンとドアベルが鳴るたびに、心臓が跳ね上がった。湊は、俺の隣に座り、俺の震える手をテーブルの下でそっと握ってくれた。
父親は、湊の顔を見るなり、話を聞くなりして、最初は逆ギレして怒鳴り散らした。
「なんだ、このガキは! 俺の家庭に口を出すな!」
しかし、湊はひるまなかった。彼は、テーブルの上に録音機を置き、再生ボタンを押した。部屋に響き渡る、俺の父親の声と、俺の苦しそうな息遣い。
「このままでは、警察に被害届を出すことも視野に入れています。優斗が、どれだけ苦しんでいたか、わかりますか? あなたは、優斗の父親として、最低な行為をしています」
湊の毅然とした態度と、揺るぎない正義感、そして何よりも決定的な証拠を前にして、父親は徐々に顔色を変えていった。父親は、顔を真っ赤にしてテーブルを叩き、罵声を浴びせたが、湊は一歩も引かなかった。そして、湊は静かに言葉を続けた。
「あなたの行為は、刑法に触れるものです。私は、優斗の友として、これ以上彼が傷つくのを見るわけにはいきません。どうか、自らの過ちを認め、優斗に謝罪し、治療を受けてください」
父親は、最終的に折れた。彼の肩はがっくりと落ち、顔からは血の気が引いていた。彼は、二度と俺に手を出さないと約束した。それどころか、湊の助言に従って心療内科に通い始めた。湊は、俺の人生の全てを変えてくれた。彼が俺の人生に現れてから、世界は少しずつ色を取り戻していった。
いじめも、虐待も、全てが無くなった。俺は、まるで生まれ変わったような気持ちだった。湊の隣を歩くたびに、陽の光が眩しく感じた。放課後、二人で寄り道をして他愛のない話をする時間が、何よりも大切だった。湊といると、初めて心から笑えた。
ある放課後、俺と湊は、学校帰りに駅前のゲームセンターに寄った。湊はUFOキャッチャーが得意らしく、あっという間に大きなぬいぐるみをゲットした。
「ほら、優斗。やるよ」
湊は、俺にぬいぐるみを差し出した。それは、俺が前に「可愛い」と言った、小さなペンギンのぬいぐるみだった。
「え、いいのか? 湊が取ったのに」
「いいよ。優斗が喜んでくれるなら」
湊は、そう言って優しく笑った。その笑顔に、俺の胸は締め付けられるほどに高鳴った。この感情が、友情だけではないと気づいたのは、その時だったのかもしれない。俺は、今まで知らなかった感情に戸惑った。彼の声、彼の笑顔、彼の優しさ。全てが俺の心を温かく満たしていく。この気持ちを、なんて呼べばいいのか分からなかった。
俺は、そのペンギンのぬいぐるみを抱きしめ、湊と並んで駅まで歩いた。
「なぁ、湊。お礼がしたいんだ」
ある日、俺は勇気を出して湊に言った。放課後、いつものように二人でコンビニに立ち寄った帰り道だった。湊はきょとんとした顔で俺を見た。
「お礼? そんなのいいよ。俺がやりたくてやったことだし」
「でも、俺、湊がいなかったら、今頃どうなってたか分からない。湊は、俺の恩人だ」
俺の真っ直ぐな言葉に、湊は少し照れたように俯いた。耳元が、ほんのり赤くなっているのが見えた。
「…じゃあ、優斗がこれから、普通の高校生みたいに、毎日笑顔で過ごしてくれるのが一番のお礼かな。あとは、たまに、俺の話も聞いてくれるだけでいいよ」
湊はそう言って、優しく笑った。その笑顔が、俺の心に深く刻み込まれた。
光が差し込むほど濃くなる影
しかし、幸せな時間は長くは続かなかった。まるで、俺が幸せになることを、何かが阻んでいるかのように。
優斗へのいじめがなくなったことで、クラスのいじめっ子たちの矛先は、湊へと向かった。
「おい、綾瀬。お前、高橋の肩持ちやがって、いい気になってるんじゃねぇぞ」
最初に言ってきたのは、田中だった。最初は陰湿な嫌がらせだった。湊の机の中に生ゴミを入れられたり、教科書に落書きされたり。湊は、俺の前ではいつもと変わらない笑顔を見せていた。
「大丈夫だよ、優斗。これくらい、なんてことないから」
そう言って、汚された机を黙々と拭く湊の背中を見るたびに、俺の胸は締め付けられた。全ては俺が原因だ。俺が弱かったから、湊がこんな目に遭っているんだ。俺は、湊を助けたいと思った。でも、体が動かなかった。恐怖が、俺の全身を縛り付けていた。いじめを受けていた時のトラウマが、俺を臆病にさせていた。
湊への嫌がらせは、日を追うごとにエスカレートしていった。
ある日の体育の時間、湊の体操服がロッカールームから消えた。湊は、困った顔をして俺に話しかけてきた。
「優斗、俺の体操服、見なかったか? どこにもないんだ」
俺は、知っているふりをして、一緒にロッカーを探した。だが、どこにもない。結局、湊は体育を見学することになった。その日の昼休み、湊の弁当が無くなっていた。俺が自分の弁当を半分分けてやろうとすると、湊は遠慮がちに首を横に振った。
「いや、いいよ。優斗がせっかく作ったんだろ? 俺は、購買でパンでも買って食べるから」
湊は、そう言って、無理に笑顔を作っていた。彼の顔には、疲労の色が浮かんでいるのが見て取れた。彼の机には、汚い言葉が彫られたり、落書きが増えていった。湊は、眉一つ動かさずに、それらの嫌がらせを受け止めていた。俺は、そんな湊の姿を見るたびに、胸が締め付けられた。なのに、俺は何もできなかった。過去の恐怖が、俺の足を縫い付けて離さなかった。
ある放課後、俺は図書室で借りた本を返しに行こうとしていた。その日も、湊は俺の隣にいなかった。湊は、委員会活動で残ると言っていた。ふと、開いていた教室のドアから、湊の声が聞こえた。
「…もう、やめてくれよ。俺、何もしてないだろ…」
その声は、震えていた。俺は、思わず足を止めて、教室の中を覗き込んだ。そこには、湊を囲む田中たちの姿があった。
「おい、綾瀬。お前、いつまで優等生ぶってんだよ。高橋の肩持ちやがって、いい気になってんじゃねぇぞ。俺たちの邪魔ばっかしやがって」
田中が、湊の襟首を掴んで壁に押し付けた。湊の顔は青ざめていた。その表情には、俺が見たことのない、深い絶望と疲労の色が浮かんでいた。俺は、その場から一歩も動けなかった。声を出すことも、助けに行くこともできなかった。足が、鉛のように重かった。過去のいじめの記憶が、フラッシュバックのように俺の脳裏を駆け巡る。あの時の痛み。あの時の絶望。それが、俺の体を縛り付けていた。
「優斗…っ!」
湊の、助けを求めるような声が、俺の耳に届いた。その声に、心臓が大きく跳ねた。行かなきゃ。助けなきゃ。そう思ったのに、俺の体は硬直したままだった。指先が冷たくなり、全身から血の気が引いていく。
湊は、そのまま田中たちに突き飛ばされ、床に倒れ込んだ。鈍い音が、教室に響く。その場で動けなくなった湊の姿を見て、俺は思わずその場から逃げ出した。彼の絶望した顔が、俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。情けない。最低だ。俺は、湊に助けてもらったのに、何も返せないどころか、見捨ててしまった。
俺は、彼の絶望した顔が、俺の脳裏に焼き付いて離れなかった。あの時の彼の瞳は、俺を責めているようだった。俺は、自分自身が憎かった。
途切れた糸、募る後悔
それから、湊は学校に来なくなった。最初は風邪だと聞いたが、それが嘘だということは、すぐに分かった。クラスメイトたちは、誰も湊のことに触れようとしなかった。まるで、彼が最初から存在しなかったかのように。
数週間後、担任の先生から、湊が学校を中退したと聞かされた。俺の心臓は、氷でできたナイフで突き刺されたような痛みに襲われた。湊は、学校を中退した。俺は、湊の家に何度か行った。インターホンを押しても、誰も出てこない。湊の母親は、心配そうに俺の顔を見て、「湊は、少し疲れていて…」と、それ以上は何も言わずに申し訳なさそうに頭を下げた。彼の母親の悲しそうな顔を見るたびに、俺の罪悪感は増していった。
湊が学校を辞めてから、俺の周りからはいじめっ子たちが去っていった。まるで、最初からいじめなんてなかったかのように。だが、俺の心には、ぽっかりと穴が開いたままだった。湊がいない世界は、何もかもが色褪せて見えた。彼の笑顔、彼の声、彼の温もり。全てを思い出すたびに、胸が締め付けられる。あの時、どうして俺は動けなかったんだろう。どうして、湊の助けを無視してしまったんだろう。
後悔の念が、毎日のように俺を苛んだ。湊のいない世界で、俺だけが幸せになるなんて、許されない。俺は、湊に会って謝りたかった。そして、もう一度、湊の笑顔が見たかった。
俺は、湊がくれたペンギンのぬいぐるみを、大切に部屋に飾っていた。毎晩、寝る前にそのぬいぐるみを抱きしめ、湊のことを思った。彼は今、どこで何をしているのだろう。元気でいるだろうか。俺のことを、恨んでいるだろうか。
高校三年生になり、俺は受験勉強に追われる毎日を送っていた。湊のことは、いつも心のどこかにあった。だけど、どうすることもできない。彼の連絡先も、彼の居場所も、俺にはもう分からなかった。一度だけ、彼の家の前まで行ったことがある。しかし、インターホンを押す勇気はなかった。彼の母親の悲しそうな顔が脳裏に浮かび、足がすくんだ。
すれ違う影、届かぬ想い
ある晴れた日の午後、俺は気分転換に近所の公園を散歩していた。公園の奥にある、あまり人が来ない場所。そこで、俺は偶然、湊を見かけた。
彼は、小さな子供たちが遊ぶ砂場のそばで、ベンチに座って本を読んでいた。以前よりも少し痩せたように見えたけれど、その横顔は相変わらず綺麗だった。彼の髪は、太陽の光を浴びて淡く輝いている。俺は、思わず足を止めた。彼の後ろ姿を、ただ見つめることしかできない。声をかけようにも、喉がカラカラで、言葉が出てこない。どんな顔をして、湊に会えばいいのか。俺が彼にした仕打ちを、彼は許してくれるだろうか。彼の顔には、以前のような屈託のない笑顔はなかった。どこか、影を落としたような、寂しげな表情。彼の膝の上には、読みかけの本が置かれている。ゆっくりとページをめくる指先は、まるで時間を惜しむかのように優しかった。
俺は、彼の隣に座る勇気がなかった。この距離が、俺と湊の間にできた、埋めようのない溝のように感じられた。あの時、俺が彼を助けられなかったという事実が、俺の足を縫い付けて離さなかった。
湊は、ふと顔を上げた。俺の視線に気づいたのか、彼の瞳がこちらを向いた。一瞬、俺と彼の視線が絡み合った。彼の瞳には、俺の顔を認識したような、微かな動揺の色が浮かんだ。彼の表情は、一瞬だけ固まった。だが、それはすぐに消え失せ、彼の視線は、再び目の前の砂場へと戻っていった。まるで、俺など最初からいなかったかのように。彼の視線は、俺を通り過ぎて、遠くの景色を見ているかのようだった。
俺は、その場から動けずにいた。彼の視線は、もう俺を捉えていない。俺は、彼の記憶から、消えてしまったのだろうか。それとも、彼の中の俺は、もうただの「裏切り者」なのだろうか。
湊は、ゆっくりと立ち上がると、読みかけの本を閉じ、そのまま公園の出口へと向かっていった。彼の背中は、どこか寂しげで、俺の胸は締め付けられた。彼は、一度も振り返ることなく、人混みの中に消えていった。俺は、最後まで彼に声をかけることができなかった。彼の背中が小さくなっていくのを、ただ見つめることしかできなかった。
夕暮れ時、公園に一人取り残された俺は、ただ空を見上げていた。空には、薄く細い月が浮かんでいた。湊のいない世界で、俺はこれからも生きていかなければならない。彼の助けがなければ、俺は今、この場所に立っていることさえできなかったのに。
俺の人生を変えてくれた光は、もう俺の手には届かない。あの時、勇気を出して、彼を助けていれば。そうすれば、今頃、俺たちはどうなっていただろうか。答えは、風の中に消えていく。
俺たちの物語は、彼のいない世界で、ただ虚しく、終わりのない後悔だけが残る。俺の心には、湊の淡い光の残像と、届かなかった謝罪の言葉だけが、ぼんやりと残り続けている。そして、二度と交わることのない、俺と湊の軌跡が、夜空に描かれていくのを感じた。
この物語に、終わりはない。俺の心の中で、湊は永遠に、手の届かない存在として、生き続けるだろう。