翌朝、まだ少し眠そうな若井と高野を送り出し、とりあえずおなかが減ったからと簡単に朝食を済ませてから、ある程度散らかった部屋を片付ける。
「あ~床で寝たから身体バキバキ。シャワー浴びてこよっかなぁ、元貴は?」
「俺あとでいいや。涼ちゃん先はいってきなよ」
じゃあお言葉に甘えて、と涼ちゃんはぱたぱたと準備を済ませてから風呂場へと向かった。ワンルームの小さなアパートは、風呂場の蛇口をひねる音まで聞こえてくる。あ、涼ちゃんまた鼻歌歌ってら。ふと見ると、机の上に角系二号の封筒が無造作に置かれている。若井たちを見送るまでは無かったものだ。ということは、涼ちゃんがシャワーを浴びに行く前にでも取り出して置いたものらしい。なんだろう、と近づいてみて俺は思わず視線を止める。見慣れない封筒の右下には大きめに大手不動産会社のロゴが印刷されている。もしかして、昨日言ってた用事ってこれ……?人のものを勝手に見てはいけない。それは人として当たり前のことだ。頭ではそう分かっているのに、俺の指はその意思に反して勝手に動いてその封筒を手に取る。中には複数枚のA4用紙が丁寧に揃えて入れられている。俺はそれをゆっくりと慎重に取りだした。心臓の音がやけに大きい。しかも早い。俺はそこに並ぶ物件情報をみて、頭が真っ白になった。
それは、どこからどうみても、一人暮らし向けのマンション……。慌てて2枚、3枚とめくってみるけれど、どれも似たようなものばかり。涼ちゃんは俺と住む気なんかないんだ。それで、一人暮らし用の物件を決めてしまって先手を打つ気なんだ。俺の身体は鉛を飲み込んだように重たくなる。早く封筒にしまって、勝手に見た事を気づかれないようにしなくてはいけないのに、身体が動いてくれない。シャワーの音はとっくに止んでいる。がちゃりと音を立てて部屋のドアが開く。
「元貴もシャワー浴びておいで〜あれっ、それ……」
涼ちゃんが俺の手元にある紙をみて目を見開く。
「先見てたの、後で相談しようと思ったのに」
と、困ったように目線を逸らす。相談?自分は一人暮らしがいいからそれ用の物件探してきたって?そんなの相談なんて言わないだろ、決定事項の通告だ。俺はふとすれば泣き出しそうになってしまいそうなのを、唇を噛んで必死に堪えながら
「水くさいな〜はっきり言ってくれれば良かったのに」
「元貴……?」
ダメだ、なんてことない風を装おうとしたのに声が震えた。たぶん眉も情けなく下がってて、これじゃ涼ちゃんになんて全部バレバレだ。案の定、彼は怪訝そうにこちらをみている。
「一緒に住むのが嫌なら、最初からそういえば良かったじゃん」
声が上擦った。目頭がかぁっと熱くなる。
「そんなに遠回しに俺に一線引かなくても、やっぱり俺じゃダメだって言うんならはっきりそう言えばいいだろ!」
俺は手元の紙をがむしゃらに彼に向かって投げつけた。質量の軽いそれは、思うようにはまっすぐ飛ばず、涼ちゃんの足下に失速しながらばらばらになって舞い落ちた。
「あ……」
涼ちゃんの顔色は真っ白だ。その表情は、見ているこちらの胸が痛くなるくらいに苦しそうで、俺はいたたまれなくなる。なんでそんなに傷ついた顔をするんだよ、傷ついたのはこっちの方だってのに。涼ちゃんは震える手で、足下に散らばった紙を拾い始めた。
「ごめんね、元貴、そんなつもりじゃなかったの。俺、元貴じゃダメなんて1ミリも思ったことなくて……」
これ、と涼ちゃんは拾い上げた紙の束を差し出す。俺が強く握って投げつけたせいで、ところどころシワが寄ってしまっている。
「確かに一人暮らし用だけど、どれも隣同士の2部屋が空いてるとこをピックアップしてもらったんだ」
「……は?」
「隣同士に住めばいつでも好きな時に会いやすいじゃない。それにこの間元貴が見つけてきてくれた物件はどれもセキュリティがいまいちっていうか……俺一人ならいいけど、元貴はかなり一般的にも認知度が高まってきてるでしょ?昨日も式で知らない人達からも写真を頼まれたって言ってたじゃない、用心に越したことはないかなって……」
メジャーデビュー以降この2年でぐんぐんと人気を伸ばしつつある俺たちは、最近では街中で声をかけられることも増えた。特にバンドというのはボーカルが目立ちやすいというのもあって、俺の場合は特に顕著だった。
「でも、どうしてもふたりで住むのは嫌なの?隣同士は良くって……一緒の部屋はダメってこと?」
涼ちゃんは気まずそうに目を伏せる。何か、どうしても越えられない一線が俺たちの間には存在しているとでも言いたいのだろうか。
「ごめんね……でも、分かってほしい。俺は、今でもわりと限界なんだ」
頭に何か重いもので殴られたかのような衝撃が走る。そこまで言うならなんで。
「元貴にはさ、理解が難しいかもしれないけれど俺は元からゲイで……つまりなんていうのかな、その、そういう対象も当たり前に男なんだよ。だからどうしても、好きな人に触れたり触れられたりしたら、こう……気分も上がっちゃうわけで。でもそれを元貴には強要したくないんだよ。当たり前だけど傷つけたくないし無理もさせたくない。でも……でもどうしても抑えが効かなくなりそうな時があって、今でさえそうなのに、一緒に住んで、今よりも一緒に過ごす時間が長くなって、なんてなったらさすがにちょっとしんどいかもな……って」
ちょっと待て。何言ってるんだこの人。俺は呆然として目の前の男をみつめる。ものすごく考えて言葉を選んでいる彼は、これ以上ないくらい顔を顰めながら話していて、しかもすごくきまりが悪そうだった。
「ごめん俺、話すの下手くそだから……伝わった?」
「いや全然」
俺は即座に首を振る。涼ちゃんは、う、と言葉に詰まる。
「なんで、俺が涼ちゃんとセックスしたくないって前提で話が進んでんの?」
俺の言葉を選ばない表現に、ちょっと、と涼ちゃんが顔を赤らめる。ごめん、だって、いま言葉を選んでいる場合ではない。
「だって……元貴はもともとヘテロじゃない。俺に惹かれてくれたのは、その、自分で言うのもなんだけど人柄とか雰囲気とかでしょ?そういう対象とはまた違うかもって……」
涼ちゃんは苦しそうに言葉を吐き出す。今度は彼の方がよっぽど泣き出しそうだ。
「それに実際ことに及んでみたらやっぱ違うなってなられるのも怖くて……ううんごめん、やっぱこっちが本音。俺怖いの、元貴にやっぱ違うって思われるのが。手を、離されるのが」
それだけ好きになっちゃったから。その言葉を思わず俺は彼を抱き寄せる。濡れたままの髪が頬に当たって、ちょっと冷たい。
「馬鹿言わないでよ……違うなんてそんなこと思う訳ないじゃん、俺が、俺がどんだけ我慢してると思って……」
そうなの……?と少し身体を離した彼が不安げに俺を見つめる。俺より歳も上で、身長だって高いくせに、何でったってこの人はこんなにも可愛いんだろう。
「当たり前じゃん、俺涼ちゃんが好きなの、めちゃくちゃに好きなの、全部好きなの。出来ることなら涼ちゃんの見てる景色、聴いてる音、考えてること、全部知りたいくらい。ずっとずっと、貴方の全てが欲しくて、何年だって待ち続けようなんて決心してそれを本人にも伝えちゃうくらい」
だいたい頑なにそういう雰囲気にさせなかったの涼ちゃんじゃない、と唇を尖らせると
「だって、元貴にはその気がないかもしれないし、拒否されたらって思ったら怖かったんだもん〜」
あぁもう、とため息を吐く。
「言わせてもらうけどね、俺だって限界だったんだから。なんならとっくに限界なんか超えてて、俺が先に帰ってる時とかこっそり涼ちゃんの枕に顔埋めながら涼ちゃんとシてるの想像してオナったりとかしてたし」
「は?!えっ?!」
涼ちゃんは驚いて目を見開き、恥ずかしさからか顔を真っ赤にして俺を見る。
「申し訳ないけど、付き合う前から何度もオカズにさせてもらってたし」
「なッ……!ちょっと!」
せめて言葉を選んでくれと言わんばかりにこちらを懇願するように服の腕の辺りを引っ張る。
「なんなら好きって自覚する前にも1回涼ちゃんとのえっちな夢見ちゃってさぁ〜」
面白くなってきたぞといわんばかりに笑いながら話すと、涼ちゃんは勘弁してくれと言わんばかりに俺の腕から逃れようとする。耳まで真っ赤だ。逃がすものかと俺は腕の力を強め、彼の耳元でそっと囁く。
「ダメだよ逃げないで。俺がどれだけ貴方のことが好きか、ちゃあんと分かってもらわなくちゃ」
彼の潤んだ瞳と目が合った。かわいい。吸い寄せられるように、その目元にキスを落とす。そのまま唇にも触れて、深い深いキスへといざなっていく。そういえば涼ちゃんはどっちなんだろう、なんて考えたことは正直何度もある。どっち、って言うのはつまり、抱く側なのか抱かれる側なのかということ。俺は、涼ちゃんをオカズに一人でしているときなんかは彼を抱く想像をしがちだけれど、それこそ初めて、そういう夢を見てしまった時は俺が抱かれる側だったのだ。つまり、俺は涼ちゃんとならどっちでもいいのだと思う。でも涼ちゃんは違うかもしれない。しかしそれをはっきりと聞くのはどうも……という気がしていた。ていうか、さっきあんなカッコつけたけど、俺初めてなんだよな。こんなこと考えたくもないけど、俺の方こそ涼ちゃんに「なんか違う」とか思われたらどうしよう。それこそ黒田さんと比べられたりなんかしたら……と俄かに不安が襲って来る。
「元貴……?」
俺が不安に思ったのを見抜いたのか、涼ちゃんがそっと俺の頬に触れる。
「涼ちゃんあのさ、俺、うまくできないかもごめん……初めてだから」
さすがに「比べないで」なんて言えないけれど、俺は祈るようにもう一度彼に口づけた。
「元貴はさ、かっこいいし、かわいいよね」
「……急に何それ。褒めてる?」
褒めてる褒めてる、と彼は頷きながら笑う。
「つまり並ぶものがないくらい最強ってことだよ」
初めてということを贔屓目にみても、俺たちの「初めて」はなかなかに不器用で、後日談として語るにはネタに事欠かないようなものだった。よくよく考えたら必要なものを何も買ってないじゃないかとふたりとも服を脱いだところで気づき、慌てて服を着てふたりで近所のドラッグストアに走った。よく考えたらどっちかで良かったよね、店員さん不審そうだったなぁ~もう行けないやあの店、なんて笑い合いながら戻ってきて、玄関先で気分が上がってちゅっちゅしてたら宅配が来た。チャイムの音にビビりまくった涼ちゃんが悲鳴を上げてしまって、何も悪くないのに宅配便のお兄さんが何だか申し訳なさそうにしているのもあって、涼ちゃんは恥ずかしさに顔を真っ赤にしながら何度も何度も謝っていた。荷物は涼ちゃんの実家からだった。荷物の中身は後でいいや、と重たそうな段ボールを玄関に置き去りにして、涼ちゃんが押し入れから出してくれた布団にふたりで寝っ転がる。見つめ合って、キスをして、何だか照れてしまって笑い合う。カッコつかないねぇ俺たち、なんて貴方が笑う。もう、過去の経験がどうとか、この先の不安だとかそんなのはどうでもよくなってしまっていて、俺たちはただ素直に互いを求めあった。
そういう意味では、初めてにしては上出来だったんじゃないの、なんて風にも思う。
「どう?新しいおうちは。慣れた?」
スタジオでの練習の休憩時間に綾華が俺に聞いてくる。まぁまぁかな、と俺は伸びをしながら答える。
「『お隣さん』との関係は良好?」
「……昨日は追い出された」
あらら、と彼女は口元に手を当てる。
「喧嘩したの?」
「ううん、たまにはちゃんと寝たいんだって」
なぁんだ惚気ね、と綾華は呆れたように笑った。綾華のいう「お隣さん」とは涼ちゃんのことだ。俺たちは結局、涼ちゃんが資料をもらってきてくれたマンションのひとつに並びで部屋を借りて引っ越すことにしたのだ。涼ちゃんの「一緒に住めない」問題はあの日解決したけれど、俺たちはもっと重要な問題を見落としていた。
「ご提示いただいた物件はどれもご友人同士でのシェアハウスは受け入れていないんですよ」
不動産会社の担当者は申し訳なさそうなそぶりをすることもなく、そう淡々と告げた。同性カップルだと正直に言うと面倒くさいことになるとは分かっていたので、あくまで友人同士ということで物件相談に行ったのだが、それでもかなり物件が限られるのだという。一応条件の合いそうなものをいくつか提示してもらったが、どれも不便か割高。他の不動産屋も似たような結果に終わった。
「これ、カップルだって正直に話してたら余計に厳しかったんだろうね」
涼ちゃんは諦めたようにため息をついた。候補に挙がった物件を見ても正直これというものはなく、それなら涼ちゃんの提案を採用した方が「友人同士」なんて嘘をつかなくてもいいし、その方がいいかもしれないということになったのだ。
「あ~もっと売れて、早くお金貯めて家買おう。そしたら誰と住んだって文句言われないもんね」
これが今の俺の目標。それも数年のうちに達成してみせると息巻いている。涼ちゃんは「今だって一緒に住んでるのとさして変わらないじゃない」と苦笑していたが、全然違うのだ。
キーケースには「俺んちの」と「涼ちゃんちの」のふたつのカギ。俺たちはどうしたってひとつの名字にはなれないし、戸籍もそれぞれ。俺たちは役所が「お墨付き」をくれるあの1枚の紙に一緒に載ることは叶わない。だからせめてひとつにできるものはひとつにしたいなんて、考えているのを知ったら貴方は呆れて笑うだろうか。それにお預けばかりではたまらない。だってこの目標を達成するまでは、ふたりで使う家具を一緒に選びに行ったりするとかいうような俺のひっそりとした甘い憧れもお預けなのだから。
※※※
調子乗って描いてたら1万字を超えていたので2話に分けさせていただきましたが、いかがでしたでしょうか?
明日は久々にオムニバスを更新予定です〜
※※※
完結にはしたけれど、まだ「藤澤さんと大森くん」の話が描きたいな、というのは完結した直後からあって、でも他にも連載作品やオムニバス、短編の構想があったし、ひとつの作品をだらだら引きずるのもなぁなんて思って、いったんは「またいつかね」と仕舞い込んでいたふたり。
記念作品などの節目に更新してもいいかも、なんて引っ張り出してみたらあれも描けこれも描けとばかりに自由に走り出すふたり。
中でもやっぱりどうしても形にしたかったのが
「誕プレのブレスレットの話」(1400人記念作品)
「ふたりが付き合い始める話」(1500人記念作品)
そして今回の
「大学卒業と、付き合ったあとのふたりの『初めて』の話」
です。本編最終話でふたりが過ごしている部屋はもっくんの念願かなって「ふたりで暮らす分譲マンションの一部屋」という裏設定があるのですが、今回のお話はその前段階。ここから最終話のふたりになるまでの道のりにもたくさんたくさんいろいろなお話が溢れているのでしょうが、ひとまずはここらで「またいつかね」。
コメント
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ひとまず、またいつかね、すっごく好きです✨ いろはさんの2人への愛を感じました💕 また、いつか2人に会えるの楽しみにしてます🫶
このお話、ほんとに長い間楽しませて頂いたし、大好きでした。作ってくださったいろはさんには感謝しかないです。 ありがとうございました。 ちょっと寂しいけど、何回でも読み返します✨ またいつか、2人が会いに来てくれますように💕 その日を楽しみにしています🥰
もうこの二人が本当に好きで😭✨ 可能ならば紙の本として手元に置きたいくらい、連載当時から毎日わくわくして読んでたなぁー こうしてまた二人の話が読めて幸せだった、、、「またいつか」 会えるのを楽しみにしてるね!