テラーノベル
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結局、藤澤は吸い寄せられるように、あの呪わしいマンションの前まで戻ってきていた。
一晩だ。とりあえず、この一晩さえやり過ごせばいい。そのあとは適当な理由を並べて、この底なし沼から這い上がればいい。そう自分に言い聞かせ、震える指で鍵を回す。
重いドアを、慎重な手つきで押し開けた。
「……っ!」
その瞬間、心臓が喉まで跳ね上がる。
玄関の上がり框のところに、元貴が座っていたのだ。膝を抱えた姿勢のまま、じっとこちらを見つめている。ぱっちりと見開かれた大きな瞳。その黒目の中に、自分の姿が歪んで映り込んでいる。あまりの異様さに藤澤は言葉を失い、開いたドアを握ったまま硬直した。
「おかえりなさい」
彼は慈しむような笑みを浮かべ、片手を胸の前で小さく動かした。手話を知らない藤澤には、その動きの正確な意味は分からない。けれど、空気の揺らぎと、元貴の全身から立ち昇る安堵の色が、その言葉を雄弁に物語っていた。
「……た、ただいま……」
掠れた声で辛うじてそれだけを返した。
元貴は弾かれたように立ち上がる。数時間前、あの深淵のような飢餓感を撒き散らしていた姿はどこにもない。今の彼は、無垢で純粋な幸福感に満ち溢れていた。
背筋に、氷柱を突き立てられたような悪寒が走る。自分が戻るかどうかも分からない暗闇の中で、彼はただひたすら、扉が開くその瞬間だけを信じて蹲っていたのだ。
もし戻ってこなかったら。一晩中、いや一日中そこで待っていたのかもしれない。その狂気じみた執着を、藤澤は必死に顔に出さないよう努めた。引き攣りそうな頬を無理やり動かし、仮面のような微笑を貼り付ける。
「ごめんね、待たせて」
震える手でスマホを掲げ、アプリに語りかける。画面に浮かび上がった文字を、元貴は食い入るように見つめた。
「若井はまだ眠ってるけど、容態は安定してるって。大丈夫だよ」
その文字列が視神経を通って脳に届いた瞬間、元貴の口角がさらに深く、三日月のように吊り上がった。その喜び様はあまりに純粋で、あまりに美しかった。
だからこそ、藤澤にはそれが恐ろしかった。この「安心」が崩れたとき、目の前の青年がどれほどの崩壊を見せるのか。自分はその防波堤として、この部屋で朝を待たねばならない。
藤澤がそう静かに覚悟を固めたとき、シャツの袖がそっとつままれる。その微かな重みに、身体が反射的に強張った。だが、元貴から差し出された発光する文字列は、予想を鮮やかに裏切るものだった。
『涼架さんは、もうご飯食べた?』
藤澤は、喉までせり上がっていた警戒心を一瞬だけ飲み込み、瞬きを繰り返した。
自分を監視し、支配し、標的として捉えていたはずの「怪物」から、あまりにも人間らしく、ありふれた気遣いの言葉が投げかけられたからだ。
藤澤は、自分の中にあった「元貴=得体の知れないもの」という極端な等式を、一旦脇に置くことにした。もしかしたら、彼はただ、心細いだけの普通の青年なのかもしれない。恐怖というフィルターを外して見れば、その瞳はただ、親友を愛してやまない透明な純粋さを湛えているようにも見えた。
「まだだよ。元貴くんは?」
藤澤が口の動きを意識して問いかけると、元貴は少しだけ寂しそうに微笑み、『僕も』と短く返した。
「じゃあ、何か食べようか。腹が減ってちゃ、明日若井に会いに行く元気も出ないし」
藤澤は努めて明るい声を出し、玄関に置き去りにしていた自分の荷物を拾い上げた。その言葉に、元貴の顔がパッと華やぐ。若井の名前を出したことが正解だったのか、あるいは「明日」という未来を提示されたことが嬉しかったのか。
二人は並んで、生活感の残るリビングへと向かった。数時間前までは死の影が色濃く漂っていたその場所も、今は蛍光灯の明かりの下で、どこか非現実的な安定感を保っている。キッチンへ向かう藤澤の背中を、元貴は一歩後ろからついていく。先ほどまでの、獲物を追うような執着心は影を潜め、今はただ、はぐれないように必死に主の後を追う小動物のような、危うい従順さがそこにはあった。
藤澤はキッチンの冷えた床に立つと、冷蔵庫の扉を開けたまま立ち尽くした。
「なんもないじゃん……」
中には驚くほど食材が少なかった。賞味期限の怪しい納豆と、萎びたキャベツ、それにいくつかの加工食品。若井がどれほどこの生活を回すことだけに汲々としていたかが、その空虚な棚から透けて見える。
「……ねえ、お米とかってどこに」
そう呟いて振り返った瞬間、藤澤の心臓が不快なリズムで脈打った。
リビングのソファに座る元貴の様子が、明らかに異質だった。彼は幼児のように足をバタバタと交互に跳ねさせ、上半身を左右にゆらゆらと、メトロノームのように揺らしている。かと思えば、唐突に立ち上がり、部屋の境界をなぞるように落ち着きなく歩き回り始めた。
藤澤は、返事を期待するのをやめ、内心深い溜息をついた。
(元貴くんの不安定さは、若井から聞いてはいたけど……)
これじゃあ、倒れるのも無理は無い。若井に同情しつつ、あちこち棚を開けていると、少し高いところにカップ麺やその他インスタント食品があるのを発見した。
「あ、あるじゃんラーメン。焼きそばにしようかな」
料理しようと出しておいた包丁をしまおうとしたその時、ふと背後に触れた熱に藤澤の肩が跳ねた。
振り返る間もなかった。
「わっ……!」
藤澤は思わず包丁を握った手を高く上げ、まな板から半歩退く。柔らかな力が腰に回り、藤澤の腹部をぎゅっと、縋り付くような強さで締め上げる。
「……っ!」
思わず喉の奥で息が詰まった。
振り返ると、そこには藤澤の背中に顔を埋めるようにして、見上げる元貴がいた。
にへへと、文字通りの擬音がこぼれ落ちそうなほど、その顔にはあどけない、子供のような笑みが浮かんでいる。だが、その細められた瞳の奥を覗き込めば、そこには喜びなどとは到底呼べない、切実な恐怖が泥のように沈んでいた。
安心したから笑っているのではない。安心したくて、笑っているのだ。
今この瞬間、藤澤という温もりに触れていなければ、自分という存在が霧のように消えてしまうのではないか。そんな根源的な不安が、震える指先から藤澤の肌へと伝わってくる。その笑顔は、あまりに脆く、今にも泣き出しそうなほどに歪んでいた。
藤澤は、握ったままの包丁をどうすべきか迷い、宙に浮かせたまま硬直した。
(……重い。重すぎる。)
それは肉体的な重量ではない。元貴という人間が持つ、全存在を賭けた「縋り」の重さだ。
藤澤を自分を救う神か何かのように見つめるその瞳は、純粋であればあるほど、鋭い刃となって藤澤の理性を削り取っていく。
「……元貴くん、危ないよ、包丁持ってるから」
喉の奥が引き攣るのを感じながらもそう返すと、元貴はクスクスと声にならない声を漏らした。その姿は、一見すれば甘える恋人同士のようにも見えるだろう。しかし、藤澤が感じているのは甘美な充足感などではなく、自分の人格が、彼に少しずつ食われていくような、そんな底寒い侵食の感覚だった。
「……ご飯、作るから。ちょっと離れてて」
藤澤は、縋り付く元貴の頭を、腫れ物に触れるような手つきで軽く押し返した。
すると途端に、元貴の表情が凍りついたように静止した。 つい先ほどまで浮かべていた、あのふにゃふにゃとした子供のような笑みが、インクが水に溶けるように急速に消えていく。
「拒絶」__その二文字が、元貴の脳内で警報のように鳴り響いているのが、藤澤には痛いほど分かった。自分を繋ぎ止めていた唯一の温もりが失われた絶望が、若井を失いかけた時と同じ、あの暗く重い沈黙となって彼を包み込んでいく。
元貴は糸の切れた人形のように、ゆっくりと項垂れた。 俯いた拍子に、長い前髪がカーテンのようにその表情を隠す。
(……いらない、って言われた)
元貴の脳内では、被害妄想にも似た絶望が急速に増殖していた。 藤澤が自分を押したのは、包丁を持っていて危ないからかもしれない。あるいは、単に作業がしづらいからかもしれない。そんな至極真っ当な理由は、今の彼の不安定な精神には届かない。
ただ、触れていた温もりがなくなった。
拒絶された。
自分はまた、独りになった。
元貴の肩が、目に見えて小さく震え始める。その震えは、泣いているというよりは、あまりの心細さに体温を維持できなくなった小動物のそれだった。
「……元貴くん」
藤澤が慌てて覗き込もうとするが、元貴は拒むようにさらに深く顔を伏せた。 床に落ちた視線はどこも捉えず、ただ遠くを見つめるように彷徨っている。目の前でみるみるうちに萎れていく元貴の姿は、まるで命の灯火がふっと消えかかる瞬間のようで、背筋に、嫌な汗がどっと噴き出した。
「あ……違う、違うよ。 ごめん、嫌だったわけじゃ」
藤澤は慌てて包丁から置き、なりふり構わず元貴の肩を掴んだ。声は届かないと分かっていても、叫ばずにはいられなかった。強張った元貴の身体を、壊れ物を扱うように、何度も揺する。
それでも俯いたまま動かない元貴の顔を覗き込むようにして、藤澤は必死に片手でスマートフォンを操作した。指が震えて、何度も文字を打ち間違える。
『嫌だったわけじゃないよ。包丁持ってて、危なかったから』
画面を元貴の視界に無理やり滑り込ませる。元貴の瞳が、力なく文字を追った。すると、凍りついていた元貴の身体が、微かに弛緩した。ゆっくりと顔を上げた元貴の瞳は、涙でぐしゃぐしゃに潤んでいて、捨てられた子犬のような、痛々しい怯えに満ちていた。
元貴はおずおずと手を伸ばし、再び藤澤のシャツの裾を握りしめた。今度は強くではなく、まるで「もう離さないで」と祈るような、弱々しい力加減で。そして震える手で藤澤のスマートフォンを奪うようにしてもぎ取ると、もどかしいほどにゆっくりとした手つきで、一文字ずつ、画面に刻み込んでいく。
『びっくりした』
その六文字が、藤澤の胸を刺す。ただそれだけの短い言葉が、元貴の感じた恐怖を端的に表しているように見えた。虚ろな瞳が、ゆっくりとこちらを見上げる。暗い森を彷徨う迷子が、ようやく見つけた微かな光を追い求めるような、本能的な視線。
「……ごめんね」
藤澤は反射的に口を動かした。その謝罪にどれほどの意味があるのか、自分でも分からないまま、ただ目の前の崩れ落ちそうな彼を繋ぎ止めたかった。
元貴はその唇の動きをなぞるように見つめると、やがて、自身の魂がどこか遠くへ抜けてしまったかのように、力なく、緩慢に首を振った。
許すとか、責めているとか、そんな次元の話ではないのだろう。
次の瞬間、元貴は崩れ落ちるようにして、再び藤澤の胸へと顔を埋めた。さっきまでの子供のような勢いはない。ただ、自らの重力に耐えかねた重石が沈んでいくように、藤澤の身体に全体重を預けてくる。
「……っ」
藤澤はスマホを持っていた左手を宙に浮かせながら、行き場のない右手で、元貴の背中をそっと包み込んだ。
トクトクと、胸板越しに、元貴の早鐘のような鼓動が伝わってくる。しがみつくその腕をもう一度拒絶する勇気はなかった。
自分の体温が元貴に吸い取られていくような、不気味な感覚。けれど、こうして密着している間だけは、元貴の精神が「凪」の状態でいられることも、肌を通じて理解してしまった。
キッチンには、煮炊きの音も、談笑する声もない。
若井が日々、どれほどの緊張感の中でこの綱渡りをしていたのか。
藤澤は、その指先の震えを胸の奥で受け止めながら、心の底から改めて理解した。
コメント
10件
もっくんの異常さが普通の状態に戻った場面でめちゃくちゃほっとしたけど、その後の感情が読み取れない行動や涼ちゃんに対する行動がまた異質さを感じさせてきて、こっちもゾッとしました、、今回も凄いです

大森さんの、人ではない感がやばい…。なんか異質なものを相手にしている感じがじわじわと… ずっと楽しみにしてたから、更新嬉しい☺️
最近更新多くて嬉しい♡ この異様さ、引き返そう🚶🏻