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結局、その後は元貴と言葉通り一緒に行動する羽目になった。カップ麺に注ぐための湯を沸かすときも、浴室の脱衣所に足を踏み入れるときでさえ、元貴は藤澤の腕を頑なに掴んで離さなかった。
テーブルからソファへ、ソファから寝室へ。藤澤がわずかに重心を動かすたびに、元貴もまた、影のように音もなくついてくる。その足取りは危うく、それでいて執拗だった。
喉元まで出かかった溜息を何度も飲み込む。普段の生活を共にしていない自分ですら、元貴という人物像を嫌というほど理解できてしまった。
やがて寝室に入り、重い身体をベッドに横たえると、待っていたと言わんばかりに、元貴は迷わずその隣へと潜り込んできた。
パジャマ越しに伝わってくる、近すぎる体温。
「ごめん、もうちょっと離れ…」
そう振り向いて言いかけ、藤澤は開いた口をそっと閉じた。
すぐそばから聞こえてくるのは、ようやく安らぎを得たかのような穏やかな寝息。それが藤澤の良心を容赦なく咎めた。天井を見上げれば、遮光カーテンの隙間から漏れた街灯の光が、細い一筋の線となって闇を切り裂いている。
偶然にもようやく一人の時間ができ、少し考えを巡らせることにした。主題はもちろん彼のこと。
(……この子は、どうしてここまでになったんだろう。どんな人生を…)
幼い頃、彼は誰かに抱きしめられたことがあったのだろうか。求め続けても得られなかった反動が、溢れ出しているのか。
若井ならまだわかる。だが、自分のような、対して親しくもない他者にすら、これほどまでの距離で縋り付くのはどうしてだろう。そもそも、若井に執着を見せる理由は。
「……やーめた、キリがない…」
暗闇に向かって吐き出した独り言は、元貴の寝息に吸い込まれて消えた。
サイドテーブルに置いたスマートフォンの画面が、一瞬だけ通知で青白く光り、藤澤の疲れ切った横顔を照らし出す。
自分の腕に絡みついたままの微かな熱を感じながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
アルコール消毒液のツンとした刺激臭が鼻を突く。
午後二時。二人は、若井の入院する病院に訪れていた。壁際の木製の棚には、若井のスマートフォンと飲みかけのペットボトルが置かれ、その横では心電図のモニターが規則正しい緑色の光を明滅させて、曲線を描いている。
若井の左腕から伸びる透明な細いチューブの中を、雫がゆっくりと等間隔に滴り落ちていた。
「そんなに急いで来なくても良かったのに」
若井は、枕元に備え付けられたナースコールのボタンを避けるように少しだけ身をよじり、困ったような、それでいて申し訳なさそうな苦笑いを浮かべた。
「なーに言ってるのさ。心配かけたのはどこのどいつだよ」
藤澤はあえて大袈裟に肩をすくめ、芝居がかった口調で声を張った。「いつも通り」を演じようと意識して口角を上げる。だが、その表情は、自分が思っている以上に強張っていたらしい。
若井の瞳に一瞬、 後悔と自責が混ざり合った湿り気が宿る。まるで昨夜藤澤に起こった出来事が、全て透けて見えているようだった。けれどすぐに誤魔化すように喉の奥で小さく笑う。
「ごめんごめん。……ちょっと油断したわ」
藤澤はその顔を見て何も言えなくなってしまい、逃げるように元貴に目線を移した。
病室に入るなり若井に崩れ落ちるように抱きつき、子供のように声を上げて号泣していた元貴だったが、今は若井の右手にしがみつくようにして、一番近いパイプ椅子に陣取っている。頭上で交わされている会話に興味を示すことはなく、若井の手を両手で包み込みながら安堵を噛み締めている様子だった。
つい数分前まで、泣きじゃくっていたのが嘘のように、今の元貴の表情は、まるで雨上がりの水溜りのように澄んでいて、どこか清々しささえ感じさせる。
(……元貴くんって案外ヘルシーなところもあるんだな…)
藤澤は、自らの腕に残る昨夜の生々しい感触を思い出しながら、内心で苦笑する。
若井は、ふっと糸が切れたように目線を元貴へと移した。久しぶりにその姿を捉えた若井の眼差しは、倒れる直前の張り詰めて壊れそうだったものとは異なっていた。どこか憑き物が落ちたような、柔らかく光を宿している。
自分を包み込む元貴の手に、若井は力を込めて握り返した。その確かな質量を確認するように。
二人の沈黙を感じ取ったのか、ようやく会話が一段落したことに気づいた元貴が、ゆっくりと顔を上げた。真っ白なシーツに映える黒い瞳が、まっすぐに若井を射抜く。
「……なんの話してたの?」
元貴の指先が、空間に静かな軌跡を描く。
「心配かけてごめん、って話」
若井が気まずそうにぎこちなく手を動かすと、元貴は頬を膨らませ、厳しい表情で返す。
「…ほんとだよ。死んじゃうかと思ったんだから」
突き放すようなその言葉とは裏腹に、元貴は若井の手を握ったまま、再び吸い寄せられるようにシーツへ顔を伏せた。
「……はは、元貴にも怒られちゃった」
若井は、膝の上に預けられた元貴の頭を、困ったように、けれどどこか嬉しそうに撫でながら、藤澤に向かって苦笑いを向けた。
病室に、束の間の穏やかな空気が流れる。
だが、藤澤の胸の奥には、ある考えがずっしりと重く居座っていた。彼は少しだけ眉を顰め、意を決して口を開く。
「……あのさ」
「ん?」
「昨日、一晩…元貴くんと一緒に過ごしたんだよね」
その言葉が落ちた瞬間、若井の表情から血の気が引いた。 見開かれた瞳が藤澤の顔に釘付けになり、部屋の温度が数度下がったかのような錯覚が走る。 若井の頭の中に、いくつもの思考が嵐のように吹き荒れているのが手に取るように分かった。
若井の喉仏が、微かに上下する。 握りしめられた指先が、シーツの上で白く強張っていく。
元貴がシーツに顔を伏せているのを幸いに、藤澤は核心に触れようと息を吸った。だが、言葉を紡ぐより早く、若井が掠れた声で先手を打った。
「……迷惑かけたな。本当に、ごめん」
若井は俯き、絞り出すような声で謝罪を口にした。その表情には、隠し事が見つかった後ろめたさと、親友を巻き込んでしまったことへの深い後悔が滲んでいる。病室の空気は一瞬で鉛のように重くなった。藤澤はその重圧に気まずさを覚えながらも、今ここで引くわけにはいかないと自分を奮い立たせた。
「……まあ、正直なところ、聞いていた話よりだいぶ大変そうだなとは思った」
「………ごめん」
繰り返される謝罪。内輪で何とかするものを、外部の人間に触れさせてしまった罪悪感があるのだろう。苦しそうに、自責の念に押し潰されそうになっている若井を見て、藤澤は内心で焦りを感じた。
責めるつもりなど毛頭ない。だが、これは誰かが言わないといけない。
「あと…薬も、見た。ご飯もあんまり食べれてないでしょ」
藤澤は胸を締め付けられる思いで言葉を重ねる。これは若井のためなのだ、誰かが促さねばいずれ疲労だけでは済まなくなる。
「……一晩過ごしただけの俺が言うのはアレだけどさ。若井、もう元貴くんとは」
「涼ちゃん」
__離れた方がいい。そう言いかけた言葉は遮られた。低く、信じられないほど冷たい声で。
顔を上げると若井の瞳には、先ほどまでの申し訳なさは微塵もなかった。そこにあるのは、外敵を排除しようとする、野生動物のような剥き出しの警戒心だった。
藤澤は、思わず息を呑む。言葉を失った。
(あぁ、これ若井も…)
シーツに顔を伏せている元貴の頭にそっと手を置き、自分の背後に隠すようにして上半身を乗り出している。点滴のチューブが無理やり引き伸ばされ、ピンと張り詰めるのも厭わない。藤澤は自分が親友として踏み込んでいいラインを超えたことを悟った。
その歪みきった瞳を見つめる。
元貴だけが依存しているのではない。その事実に気づいたときには、もう既に若井の目には明確な怒りの火が灯っていた。
「迷惑をかけたのは認める。けど、俺は大丈夫だから。自分のことは自分で分かってる」
「でも、今回」
「いつも涼ちゃんが見たような感じじゃないよ。落ち着いてる時もあるし」
「若井」
「心配されるほどじゃないから。それに__」
藤澤の反論を、若井は被せるようにして遮り、熱を帯びて昂走していく。その様子に、藤澤は違和感を覚えた。
若井が必死に弁護しているのは、本当に元貴なのだろうか。
若井は元貴を庇っている。それは事実だ。だが、畳みかけるような言葉の数々が、何だか元貴から離れないための言い訳のように聞こえたのだ。
するとその時、シーツの上で若井の腕が、きゅっと、幼い子供に引かれるように強く手繰り寄せられた。
若井の意識が、弾かれたように下へと向く。そこには、ただならぬ不穏な気配を察知したのか、元貴が不安に歪んだ表情で若井を見上げていた。
「……どうしたの」
元貴の指先が震えている。若井はそれに応えようとして、けれど言葉に詰まったように黙り込み、逃げるように目線を逸らした。
元貴は困惑したように視線を泳がせたあと、藤澤に目を向けた。その目は、何かを察したように鋭く、同時に責めるような暗い色を孕んでいた。昨夜、藤澤に縋り付いていたあの脆弱な姿はどこへやら、今はただ、若井を傷つけた可能性のある他者を警戒する、鋭利な刃のようだった。
元貴は、心配そうに若井の腕を何度も揺する。
「なに、なに言われたの」
必死の問いかけが、激しい指の動きとなって空を切る。若井の怒りや不安を感じ取った元貴は、そのまま藤澤への敵意へと形を変えようとしていた。
若井は熱を帯びていた吐息を一つ吐き出し、肩の力を抜いた。そして、ゆっくりと元貴の顔を見つめる。先ほどまでの峻烈な光は消えていた。
「なんでもない。ただの世間話だよ」
その手話は、嘘を隠すように優しく、穏やかだった。
藤澤は、その光景をただ黙って見ていることしかできなかった。
若井が元貴をなだめるその手つきは、あまりに手慣れていて、あまりに献身的だった。それは美しくさえあったが、同時に、二人だけの閉じた世界を見せつけられているようでもあった。
若井は元貴に微笑んだあと、もう一度藤澤の方を見た。その目には、先ほどの怒りの残滓と敵意が入り混じっていた。
「涼ちゃん、今日はもう帰っていいよ。わざわざ荷物とかありがと。あとは大丈夫だから」
それは、体裁を整えた明確な拒絶だった。
藤澤は、自分の胸の中に残った、言いようのない重たい塊を飲み込んだ。
「……うん。また連絡するよ」
そう小さく呟き、荷物を手に取り背を向けた。病室を出る間際、最後に振り返ると、若井が指を動かし、元貴がそれに呼応して表情を和らげる、穏やかな空間がそこにはあった。
藤澤は、何も言わずに視線を切り、静かにドアを閉めた。
病院のロビーを抜け、アスファルトの照り返しが厳しい駐車場へと足を進めながら、藤澤は自分の甘さを呪った。
「……失敗したなあ……」
後悔の念が、じわじわと胃のあたりを締め付ける。元貴の異常さばかりに目を奪われ、それを支える若井のことを計算に入れていなかった。
若井は、元貴に振り回されている被害者だと思っていた。元貴の重すぎる愛に、心身を削られている可哀想な奴だと信じたかった。そう思っていた自分に、その思い込みに、今頃気がつく。
一方的な依存であれば、元貴を力尽くで引き剥がし、若井を安全な場所へ避難させれば済む話だ。そう信じていたからこそ、さっきの病室でもあんな正論を吐けたのだ。
けれど、現実はもっと複雑で、もっとたちが悪かった。
(若井のやつ、変に面倒見が良すぎるところあるもんな……)
若井という男は、昔から、他者の危うさに吸い寄せられる、妙な磁場を持っていた。 高校時代、情緒不安定で周囲を振り回すような女に捕まっては、夜通し相談に乗ってボロボロになっていた姿を何度も見ている。周囲が「あんなの、早く縁を切れよ」と忠告しても、「まあ、俺が話を聞くだけで落ち着くならさ」と、どこか他人事のような、曖昧な笑みを浮かべてやり過ごしていた。
その行為は一見すると献身的な愛情に見えるが、若井にとっては、自分自身の存在を繋ぎ止めるための命綱になっていたのかもしれない。
ただ、今までは離れろと言ってあんなに怒ることは一度もなかった。
(……元貴くんは、なにかが違うんだ)
あの剥き出しの敵意。 あれは、ただの同情や責任感から来るものではない。彼の存在意義に直結しているということは今までと変わりないが、確実にそれに上乗せされた何かがある。
藤澤は歩みを止め、太陽の光の眩しさに目を細めた。
さっき聞いた若井の言葉が、なぜあんなにも「言い訳」のように聞こえたのか。ようやくその正体が腑に落ちた。若井は、元貴だけを守っていたんじゃない。元貴に依存されている自分を、必死に守っていたんだ。
「……共依存、か」
その言葉を口の中で転がすと、嫌な苦味が広がった。
二人でお互いの首を絞め合いながら、それが一番安らぐ形だと思い込んでいる。そんな心中まがいの真似、親友として見ていられるわけがない。
車に乗り込み、ハンドルを強く握りしめる。
もし若井が自分の意志でその泥沼に浸かっているのなら、ただ手を差し伸べるだけでは不十分だ。沼そのものを干上がらせるか、若井が嫌がっても無理やり引き摺り出すしかない。
それは、友情というにはあまりに傲慢な決意だった。けれど、あのまま静かに朽ちていく二人を見過ごすことなど、到底できなかった。
藤澤はアクセルを踏み込んだ。バックミラーに映る病院の建物が、遠ざかるにつれて小さくなっていった。
コメント
10件
見るの遅れてしまいました! やっぱ客観的に見ると共依存で涼ちゃんが必死に若井さんを引き戻そうとしている姿。続きも楽しみです
やっぱり共依存だったんですね...もっくんの面倒を見ていくうちにそのまま自分も吸い寄せられちゃったんですね😢涼ちゃんもこの2人を離そうにも離すことが難しいんだろうなと思いました🤔 今回も最高でした!
なんとなくだけど若井さんの方が愛が重い可能性もあるのですね😩😩共依存大好きなんですよ!堕ちてく感じ。今回も最高です!!