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まなこ〜友
117
#ますしき
T
5,800
ようやく裏から戻ってきた雅は、いつもの真っ黒な制服に身を包んでいた。そのまま流れるような動作でカウンターに入り、手を洗いながらこちらに言葉を投げてくる。
「一杯目でいいの? 言ってたやつ」
「うん、お願い。度数優しめにしてね」
「酔いたいって言ってたくせに」
彼はそう笑いながら、手際よくカクテルを作り始める。
そんな雅の姿に見惚れていると、玲くんに声をかけられた。
「酔いたいって、何か嫌なことでもあったの? いつも引き際がいい夏帆ちゃんがそんなこと言うなんて、珍しいよね」
図星を突かれて苦笑いした。
この場で話すようなことでもないし、せっかくの空気感を壊してしまうのではないかと躊躇した。けれど、玲くんにも雅にも誤魔化しは通じない気がして、私は重い溜息をこぼしてから口を開いた。
「午前中に母から連絡があったの。いつも通り、元気にしてるかどうかの確認と、お見合いの話だった」
「お見合い?」
「そう。今は待ってって、先延ばしにしているけど、きっと次は強制的にお見合いの話受けさせられそうな感じがしてて……。それで気が重くなってストレス感じてた」
母親の心配だという気持ちが痛いほど伝わってくるからこそ、無碍にすることもできない。躱し方もわからないまま自分の中に押し込んで、それがストレスになっていた。
「してみれば良いじゃん。案外お前の好きなイケメンかもよ」
「イケメンだから良いとかないのよ。結婚をしたくないの」
顔さえ良ければ結婚できるというのなら、今頃こんなに悩んではいない。
何度考え直しても、今は仕事に生きていたい。それが、私の答えだった。
「かといって恋人いるって言うと会わせろとか言われても面倒じゃない? そういう嘘ってすぐバレそうだし付きたくないし。どうにかしてお見合いを回避したいのに良い案が浮かばないの」
「夏帆ちゃんまだ二十六だよね? ご両親は何でそんなに心配してるの?」
「私が仕事仕事って言ってるからかも。仕事が楽しいのは本当で結婚なんてしたくないし……。今からこうだから、婚期を逃すって両親が焦ってるの」
自嘲気味に笑いながら答えると、玲くんは「なるほどね」と少し複雑そうな表情を浮かべた。
周りからすれば、二十六歳はまだ焦るような年齢ではないはずだ。晩婚化と言われる時代だし、私のようなお一人様を謳歌している人はいくらでもいる。
三十歳だろうが四十歳だろうが、一人で立派に生きていける人はいるのに、私の母だけはそれをどうしても許してはくれなかった。
「結婚か、好きな人がいたら別だろうけどね」
「私の事好きじゃなくて、お互い干渉しなくて良くて好きな様にさせてくれる人なら結婚したいかも。困った時だけ助け合えるそんな人」
「お前本当自由だな」
飛んできたツッコミに少し笑い、お酒を喉の奥へ流し込む。
そんな都合のいい相手なんていないと分かっているから、結婚なんてしたくない。
そもそも、結婚にも恋愛にも期待なんてしていないし、出会いなんてとっくに諦めている。自己中心的である私は、死ぬまで自分のためだけに時間を使いたい。好きなことだけをして、悔いの残らない人生を送りたい。
雅が何かを考え込むような表情を見せた後、とんでもないことを口にした。
「とりあえず付き合ってる相手いる事アピールできればいいんだろ? 俺がやってやろうか?」
その発言に、思わず私と玲くんの目が見開かれる。驚きの後、自分の中で急速に困惑が広がる。
「ええ……」
「お前、人が協力してやるつってんのに何だその嫌そうな顔」
まさか雅からそんな提案が出るとは思わず、虚を突かれた。こういうことは一番面倒くさがりそうだし、巻き込まれるのも御免だというスタンスだと思っていたから。
うちの両親も雅のことは知っているし、その時はむしろ気に入ってすらいた。だからもし「縒りを戻しました」なんて報告をすれば、きっと手放しで喜ぶだろう。
だけど、親を騙すこと自体気が重いのに、その共犯者に雅を選ぶなんて。面倒なことが起きる予感しかしない。
「……うーん」
「とりあえず一旦見合いとかの話は無くなるだろ。夏帆の恋人役やってもいいよ」
元カレに恋人役を頼むなんて、なかなか変。というか、かなり変。
冷静に考えたいのに「彼氏を見つけろ」という急かしから解放されるメリットはあまりに魅力的で、この悪魔の手を取ってしまいたいと思い始めている自分がいた。
それに雅なら、きっと躊躇なく完璧な嘘に協力してくれる。
「⋯…でもあんたに任せるのは本当に嫌だし⋯…」
「人選べる立場かてめぇ」
そう言われればその通りなのだけれど、先日に縒り戻す?なんて言われているから、余計に選びたくない。
ここで提案を受け入れてしまったら、ただの嘘だけでは済まなくなってしまう気がするから。
このままお見合いの日が来るのを待つか、雅の提案に乗ってしまうか。どちらを選んでも、気が重いことに変わりはなかった。
「泊まりで行くはめになるし、あんたにそんな時間ないでしょ?」
「俺はいいよ、良いホテルか旅館で一泊してく?」
「行くとしても、部屋は別々に決まっているでしょ」
相変わらずの思考回路に、溜息が漏れる。
この男と同じ部屋に泊まるなんてどうぞ襲ってくださいと言っているようなものだ。私はそこまで馬鹿じゃない。
「夏帆ちゃんと雅が一緒に行くの不安だなあ。君、何としてでも手出しそう」
「大丈夫大丈夫、間違いがあったとしても俺達付き合ってたからそういう事も経験済みだし。な?」
「馬鹿じゃないの、ぶん殴るわよ」
思い出したくもない過去を堂々と口にする雅に、心底呆れる。
間違いがあったとしても……、と言うか、そもそも間違いを起こす気でいるな、この下半身脳みそ猿が。
「でも、元彼と縒り戻したってご両親納得してくれるの?」
「ああ、うちの両親雅の事気に入ってたからね。だから別れた時はガッカリされたくらい」
「ああ、まだ多少まともだった雅⋯…」
「お前ら本当失礼ね」
玲くんの言葉に深く頷いて同意すると、雅は苛立ったように煙草を咥え火を点けた。
ずっと考え込んでいても問題は解決しない。せっかく雅が提案してくれたし、私の生活の平穏を守るためには、この話に乗るしかないのかもしれない。
ふと視線を向けると、雅もこちらを見ていた。彼が小首をかしげ、表情だけでどうする?と問いかけてきているのが分かる。
「わかった。お願いする。早速来月には行きたいんだけど、あんたいつ空いてるの」
「いつでも」
「じゃあ、来月頭二連休取っといて。新幹線のチケットは取っておくから」
「だって、玲。休みにしといて」
「はいはい」
決まってしまった。そう自覚した瞬間、両親を騙すことへの罪悪感がじわりと湧き上がってくる。
この計画が終わっても、きっと私は罪悪感と戦い続けなければいけない。嘘をつき通すことにこれでよかったのかという葛藤が、ずっと付きまとってくる。
そんな私とは対照的に、目の前の雅は微塵もそんな素振りを見せない。
この男との関係性が、これをきっかけに変わったりしなければいいけど…。
そんなぬぐい切れない不安を胸に抱えることになった。
結局、約束通り深夜の一時まで付き合わされ、そろそろ帰ろうかとスマートフォンに目を落としていた。
別の客の対応を終えた雅が私の隣までやってくると、カウンターの中にいる玲くんに声をかける。
「玲、俺夏帆の家に荷物取りに行くついでに送って帰るわ。閉店任せていい?」
玲くんは「いいけど……」と承諾しつつも、疑いの目を雅に向けている。
「⋯…くれぐれも気をつけてよね。手癖悪いんだから」
「どうだろ、手出すのもマナーかもよ?」
「馬鹿じゃないの、手出したらあんたの下半身捻り潰す」
「相変わらずお口が悪いですね~、夏帆ちゃんは」
そう言いながら肩を抱いてくる手を強めに払いのけると、雅は楽しそうに笑った。
この男は、きっと私との駆け引きを楽しんでいる。私が触れられることに抵抗し、恋に落ちるのを拒めば拒むほど、奴は楽しそうな表情を浮かべる。
「じゃ、着替えてくるから待ってて」
バックヤードへ消えていく雅の背中を見送り、私は軽く溜息をついて玲くんと顔を見合わせた。
「……本当に大丈夫? 俺が首を突っ込むことじゃないのはわかっているんだけど、ほら……、雅ってああだし」
「ご心配ありがとう。雅が今更私に対して手を出してくることなんてないと思うし、きっと大丈夫よ」
「雅には関係ないからね。人の気持ちとか恋愛感情とか、そういうの。……もし、夏帆ちゃんが本気で雅と関係持ちたくないなら、ここでやめといた方がいいと思うよ」
玲くんの言葉の意味は、痛いほど分かっていた。
雅は遊びだろうと関係なく手を出す男だ。それが元カノである私であっても、必要とあれば躊躇しない。
だけど、今さら私に手を出すメリットなんて雅にはないはずだし、あの駆け引きだって単に面白がっているだけだろうと、そう自分に言い聞かせた。
玲くんの言葉になんと返すべきか迷っていると、そのタイミングで雅が戻ってくる。
「お待たせ。何の話?」
「……何でもない。ほら、早く行くわよ。またね、玲くん」
そう言って手を振ると、玲くんも笑顔で「また来てね」と手を振り返してくれた。
正直、答えに窮していたから、このタイミングで雅が来てくれたのは幸いだったかもしれない。
バーを出た後も、深夜の一時過ぎとなればまだ飲み歩いている人達が多かった。
日付が変わって日曜日の今日、朝まで飲み明かすつもりなら選択肢は限られる為、この辺は夜が深まれば深まるほど必然的に人の密度が濃くなる。
人混みを抜けて、私と雅は歩いて自宅へと向かう。
道中、いつも通りくだらない話をしていたけれど、雅のことでどうしても気になっていたことがあり、二人きりの今のうちに、それを聞いてみることにした。
「ねぇ、何であんた女遊びなんて始めちゃったの。私と交際してた時とか、遠距離中だって女遊びなんてしてなかったよね」
ただの好奇心で問いかけると、雅はポケットに手を突っ込んだまま歩き続け、こちらを見ようともしなかった。
少しの沈黙の後、返ってきたのは「……お前には言いたくない」という一言。
私には言いたくない女遊びの理由なんて、一体何があるというのか。
「…⋯隠されると余計に気になるじゃない」
そう重ねてみても、雅がそれ以上口を開くことはなかった。
単に私と別れてから手癖の悪さが再発しただけなのか。普段の雅なら『楽な関係で遊ぶのが好きだから』とでも言って笑いながら答えそうなこと。そうすればただのクズとして説明がつくのに、どこか訳ありげな態度が引っ掛かって仕方がなかった。
私には関係のないことだし、それ以上しつこく聞くこともできないけれど。
十五分ほど歩いて私のマンションに到着し、預けていた荷物を渡すために雅を玄関先まで通した。
「これだけよね荷物。そういえば、お酒飲んでたけど、帰り車どうするの?」
問いかけながら雅の方を向くと、彼と目が合った。彼は荷物など眼中にないといった様子で、ずっと私を見ていたことに驚き息が止まる。
この瞬間、玲くんの忠告を真面目に聞いておくべきだったと、激しい後悔に襲われた。
車なんて勝手に取りに来させればよかったし、荷物だって配送すれば済んだ話。いくらでも方法はあったのに、わざわざこんな男を、こんな時間に家に入れるなんて。私の警戒心はあまりにも欠如していた。
見つめ合うと、抗う暇もなく抱き寄せられた。近づいてくる端正な顔を、ただ見ていることしかできない。雅はゆっくりと唇を重ね、一度離すとまた至近距離でこちらを見つめてきた。
本当に、ただの友達に戻れたのだと思い込んでいた。
だからこそ気を許していた。
今までずっと手を出してこなかったし、彼にその気はないと信じていたから。
今の雅の行動に動揺し、お酒でぼんやりとした頭では事態をうまく整理できない。
「…⋯警戒心無いね。相手が俺だから?」
そう笑みをこぼすこの男の顔には、毒のような色気が満ちていて思わず息を呑む。
何が起きているのかをようやく理解し、胸元を押し返そうとしたが、アルコールのせいか指先に力が入らない。
「あんた、本当友達だろうが手を出すのね」
「友達? 夏帆の事そんな風に思った事ないけど」
言いながら再び近づいてくる顔を、手のひらで拒もうとする。けれど男性の力に敵うはずもなく、酔った体では成す術がない。
抵抗など無駄だと嘲笑うかのように、両手は簡単に封じられ、再度強引に口付けられた。
先ほどのような軽いものじゃない。本気で求められているのだと突きつけられるような、息もできないほど深く、激しい口付けだった。
意地でも口を開くまいと抵抗したが、強引に隙間をこじ開けられ、容赦なく舌をねじ込まれる。絡みつく熱に、頭の中が白く染まっていく。
「んんっ⋯…!」
手首を完璧に押さえ込まれているせいで、されるがままだ。
声なんて漏らしたくないのに、深く貪られるだけで意識が蕩け、交際していた頃の感覚が鮮明に呼び起こされていく。
あの頃は、この男の本気で求めてくるようなキスが好きだった。
だけど、今はこんなこと望んでいない。私はただの友達に戻りたかっただけ。もう二度と、雅のことで苦しい思いなんてしたくなかったのに…。
逃げ場のない状況で感情がぐちゃぐちゃにかき乱され、どうすればいいか分からず涙が溢れ出した。そこでようやく口付けが止み、雅の指先が私の頬を優しく撫でる。
強引なところも、最低なところも、この男は何ひとつ変わっていない。
「可哀想、ただの友達だと思ってた元カレにされるがままされて。本当に、友達なんかになれると思ってた? あんなに愛し合ってた俺らが」
雅はそう囁きながら、結んでいた私の髪を解き、今度は慈しむように柔らかな口づけを落としてきた。
強引な真似をしておきながら、壊れ物を扱うような手つきで触れてくる。その矛盾した優しさが、たまらなく嫌だった。
嫌だ、拒まなければいけない。そう思っていたはずなのに、甘い愛撫に毒されるように抵抗する気力が削がれていく。私はそのまま、雅の熱を受け入れてしまった。
コメント
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うわあ、読んでて胸がぎゅっとなりました…。夏帆が「ただの友達に戻れた」と思い込んでたところに、雅があの距離感でずっと見てたって描写、ぞくっとしました。玲くんの忠告もあったのに、自分に言い聞かせるように大丈夫って思う夏帆の心情、すごくリアルで。そして「友達だと思ったことない」って言葉と、あの強引さと優しさのギャップ…。元彼ならではのどうしようもなさがたまらなかったです。続きが気になります…!