グリュエーの姿のレモニカの周りを産毛も揺らさない微風が渦巻く。エイカの体に巻き付いているカーサのように優しく取り巻いている。そうしてグリュエーの分け身たる微風は自身の本体が安置されている聖堂へとレモニカを案内する。クヴラフワが一つの名で呼ばれる以前から、シシュミス神が崇められるよりずっと前から、今や名を忘れられた神の時代から存在する聖堂だ。グリュエーも救済機構に攫われる前に何度も礼拝に訪れていた。
グリュエーがその場にいる全員に聖堂の中の様子を伝える。最も奥の祭壇の下、引っ繰り返った天井に蜘蛛の巣で出来た祭壇が張られ、寝かされたグリュエーの体は強靭な糸に包まれている。半神半人の姿のハーミュラーはそのそばでグリュエーを見守っている。入り口は正面と、謁見の裏庭へと続く奥の左右で三つある。
レモニカとグリュエーは正面から入ってハーミュラーの注意を引き、他の皆は裏庭から飛び込み、グリュエーの体を救出する作戦だ。
「レモニカは絶対にグリュエーが守るからね」と誰とはなしにグリュエーが表明すると、
「分かっている。必ずグリュエーの体を取り戻す」とソラマリアが答えた。
全員が散らばり、グリュエーはレモニカを聖堂の正面へと導き、皆が所定の位置についたであろう十分な時間を待つ。
天井の高い聖堂の扉は、城が引っ繰り返っているために高い位置にある。レモニカの体を風の力で持ち上げ、歪んだ扉を激しい軋みと共に強風で押し開けた。そうして再び微風となり、気取られないように何も揺すらないようにレモニカの周囲を密かに巡る。
聖堂は銀で紡がれたかのような艶やかな蜘蛛の糸で装われ、空に朧に灯る八つの緑の輝きに染まっている。祭壇の下、弧を描いた本来の天井に蜘蛛の巣で出来た褥があり、グリュエーはそこに寝かされていた。状況は何も変わっていない。ハーミュラーがゆっくりと十の脚を動かして正面へ振り向く。
グリュエーは改めてハーミュラーの姿を認識する。人間の体と蜘蛛の体が一つの頭を共有している。神々しくも禍々しい、しかし見慣れたハーミュラーの素朴な笑みを浮かべている。それが蜘蛛の神と人間の間に生まれたというハーミュラーさえも知らなかったハーミュラーの本来の姿なのだ。
ハーミュラーはちらりと振り返り、顔を顰め、二人のグリュエーを見比べる。
「そっくりそのまま同じですね。まるで生き別れの双子のようです」
動揺など感じさせない平坦な声だ。ほとんど狙いは失敗したようなものだが、要は注意を引きさえすればいい。次善の策もある。
「残念だったね」とレモニカがグリュエーの声で言う。「それは偽物だよ。ただの幻」
「そうですか」八つの眼の目尻が下がる。「わざわざ幻を助けにいらしたのですか?」
「違う。ハーミュラーを止めに来たんだよ。ねえ、冷静になって。クヴラフワを救う方法は他にもあるはずだよ」
「私にできることはこれだけです。せめて自分にできることはやりたい。レモニカさんなら分かるのではありませんか?」ハーミュラーに真実を看破され、挑発され、しかし少なくともレモニカは表情に出さない。「そばにいる者の最も嫌っている者に変身する呪いでしたか? 不憫なものですね。グリュエー? そこにいるのでしょう? 貴女がそれほどの自己嫌悪に陥っているとは思いませんでした」
「自分ではそんなつもりないんだけどね」とグリュエーは答えた。「むしろ誰かを嫌ったことなんてないくらいだよ」
ハーミュラーは挑発的な笑みを浮かべる。
「私のことを嫌いになっても構いませんよ」
「そんなこと言われても悲しい気持ちになるだけだよ」
「克服の祝福が貴女の妖術を研究した成果だと言っても?」
グリュエーの風の勢いが収まる。ただただ気持ちが沈んでいくばかりだ。ならばハーミュラーが嫌いになっただろうか。目の前のレモニカの姿がそれを否定してくれる。
「それに加えて」とハーミュラーは続ける。「深奥の知識は大きかったですね。魂と肉体の関係性について、我々は一側面しから知らないでいました」ハーミュラーがグリュエーの肉体のそばへ移動し、その頬を撫でる。「貴方もそうでしょう? 自身の妖術についてよく分かっていれば、こうして肉体を人質に取られることもありませんでした」
「グリュエーより分かってるつもり?」とグリュエーは唸るようにして問う。
「ええ、少なくとも仕組みに関してはね。魂を与えること。それに、使命を与えること。そうそう、私もまた使命を与えられたことは何度か話していますね。深奥に入れば魂に刻み込まれた使命を別の形で感じ取ることも出来ましたよ」
蜘蛛神シシュミスに与えられたクヴラフワを救う使命のことだ。グリュエーはハーミュラーと出会った日からずっと何度も聞いていた。その使命がハーミュラーの人生とハーミュラー自身を強固に支えているのだ。
「お父さんの使命だから、そんなに頑ななの?」
ハーミュラーは自嘲するような笑みを浮かべて答える。「正直なところ、父であったことには、これと言って感慨はありません。愛する神ではありますが、それ故に父として甘えるどころか、触れることすらできない存在です。目に映るだけでも僥倖というもの。それに期待もしていません。この地上でご自身が何かできるなら、そもそも半神の娘に使命を託したりしないでしょう。神や天の法など知る由もありませんが」
「お母さんは?」とグリュエーが問う。「ずっと故郷を探してたでしょ? お母さんも、ソヴォラさんもずっとハーミュラーのことを求めてたんだよ。あの村に娘がいるって勘違いしてたけど、でも四十年もずっと! ずっとだよ!?」
ハーミュラーが高らかに嘲笑する。それはグリュエーの言葉を全て否定する笑い声だ。
「ただの馬鹿女じゃありませんか! 本当に理解に苦しみます! シシュミスは何故あのような女を選んだのか! ああ、レモニカさんは知りませんよね。是非ご自分の体で確認してください。あの婆の間抜け面を」ハーミュラーが横たわるグリュエーの肉体の方に手をかざすと、その指の先から放たれた糸が細い首に巻き付く。「さあ、もう貴女自身の体へと帰って来なさい。でなければ永遠に地上を彷徨うことになりますよ」
「グリュエー! 戻って! わたくしたちが必ず助けますから!」
レモニカの言葉に従い、グリュエーは元の肉体へと還った。元通り、魂と魂が、魂と肉体が融合する。糸に羽交い絞めにされ、身動きの取れない体に戻り、閉じていた目を開く。
レモニカを睨みつけるハーミュラーの後ろ姿、そして八つの視線の先にいる魔法少女ユカリの姿になったレモニカを見る。レモニカは不思議そうに自分の姿を、もはや見慣れた小さな手足を眺めていた。
「少なくとも」とグリュエーははっきりとハーミュラーに呼びかける。「お母さんのこと、一番嫌いって訳じゃないんだね」
ハーミュラーは頭を抱えて狼狽える。十の脚が糸に覆われた天井を何度も踏みつける。
「違います! そんな馬鹿なこと、あるわけがありません! 誰が! あんな女! 母親だと思うものですか! 違います! 違います!」
「だからってなんで私なの!?」ユカリの声が聖堂に響き渡る。
魔法少女の杖が【破壊】の魔法でグリュエーの拘束を断ち切った。ソラマリアが一目散にレモニカの方へ駆けていく。呆気にとられるハーミュラーに四方向から魔法が浴びせかけられる。渦巻く炎が覆い尽くし、眩い光線が貫き、見えない何かが爆ぜ、巨体を打ち据え、半神の体を壁へと叩きつけた。誰もそれでハーミュラーを退けられるとは思っていない。
ハーミュラーは何も起きていないかのように変わらずぶつぶつと恨みがましく呟いている。
全員が走って逃げる。魔導書の力で変身した半神という存在に正攻法は通じないのだとはっきり理解したからだ。蜘蛛の克服者たちを蹴散らし、モルド城を飛び出して、地上へと帰還する。