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長らく呪いに囚われていたレウモラク市の人々は、時と風雨に浸食されてなお厳然と内外の行き来を禁じる柱列の向こうでどよめいていた。聖獣メーグレアが解呪されて戻ってきた喜びは息を潜め、その崇められてきた虎が手懐けられていることへの驚きが表に現れている。それもそのはず、檻の中にいた時よりも更に昔、クヴラフワが拓かれるよりずっと古の時代、遥か東方の土地より彷徨い込んできた頃からいつの時代も聖なる虎は虎らしく獰猛だったのだ。
とはいえ正門を閉ざしていた錠の鍵が無事戻ってきたことには皆が喜んでいた。
「皆さん、お待たせしました」ユカリが檻の格子の如き柱の向こうの人々に呼びかける。「何とか私たちの力で呪いを解くことに成功し、こうして鍵を取り戻すことができました」
人々はメーグレアの檻付き神官長マイサを先頭に、掲げられた鉄の巨大な鍵を見つめ、勝軍の帰還を寿ぐように口々にユカリたちを褒め称える。しかしいくら称賛を浴びても嵐によってどこかへ吹き飛ばされた髪飾りの魔導書が戻ってくる様子はない。あれだけの苦労をしてもなお信仰されるには至っていないということだろうか、と若輩の伝道師のように首を捻る。
「よくぞやり遂げてくださいました」二本の杖で辛うじて身を支える神官長マイサは震える声で絞り出すように誉めそやす。「噂に違わぬご活躍。呪いを解き、鍵を取り戻したばかりかメーグレアをお救いくださるとは。お歴々への感謝の念を表す言葉はクヴラフワ広しといえどありますまい」
「皆さんもご無事で何よりです」とユカリは微笑みかけて一拍置くが、誰も何も言うことはなさそうだ。「じゃあ、開けますね」
そっと鍵を差し込み、もったいぶって捩じると錠の重い音が響き、ユカリは両開きの巨大な門から離れる。
次の瞬間、少しの前触れもなく檻の向こうの人々の全身の皮膚がめくれ、血が噴き出す。血は四方に飛び散り、石や土、僅かな草を焼き、蒸気を迸らせる。しかし彼らの口から洩れるのは痛みに対する悲鳴でも呪いに対する怨嗟の声でもなく、飢えた獣の如き雄叫びだ。噴き出した血は全身を覆い、人々を異形へと変えた。その双眸は緑に輝いている。今やシシュミス教団の信徒たちは呪わしい獣に変じていた。全ての加護から遠く離れた暗く汚く醜い土地に彷徨っている悍ましい邪念を身に宿したかのような恐ろしい姿だ。その信仰とは無縁と思しい姿は『爛れ爪の邪計』によって変貌していた時のメーグレアによく似ている。そうして禍々しい姿になったシシュミスの信徒たちは暴徒の如く一斉に正門へと突進する。しかし錠の開かれたはずの正門は微塵も揺らがなかった。実際には錠は開かれていなかった。
「残念です」とユカリは僅かに抱いていた期待を手放すように呟く。
元は老女だった血塗れの獣マイサが隆起した背中を上下させ、地の底から響くような唸り声で呟く。「見破っていたのか」
「呪いの嵐の中で無事な上に、その理由を自主的に話さないなら何かを目論んでいるのかもしれない、と思ったんです。クヴラフワに来てから何度か見てきた呪いに似て呪いそのものとは別の存在。刃に覆われた姿に変身したパジオさんの件でそれが元は人間だったのだとは知っていましたが。自在に変身できるということは呪われた結果の不可抗力、というわけではなさそうですね」
「我々を謀るとは不埒者どもめ!」唾と血を吐き散らしながらマイサは怒鳴った。
「お互い様じゃないですか」ユカリは醜怪な獣の姿も忌まわしい唸り声も鼻を突くような臭いも気づいていないかのように冷静に答える。「それより教えてください。その変身はシシュミス教団の魔術ですよね? いったい何が目的なんですか?」
しかしまだ教団の信徒であるらしい獣たちはまるで己が爪の届く範囲に獲物が蹲っているかのように不遜な唸り声で脅す。
「不信人者どもめ!」「シシュミスの呪いあれ!」「鍵を寄こせ!」「門を開け!」
「じゃあ開けます」と一転ユカリが素直に応じ、大きな錠に大きな鍵を差し込んで回すと呪いの如き人々は予想外の出来事に僅かに怯む。
だが血の獣人たちは相手の思惑に思惟を巡らせることなくすぐに気を取り直し、猛り狂いながら開かれた門へと殺到した。しかし門の扉は強力な衝撃と共に内側へと押し開かれた。門扉に強かに打ち据えられた教団の獣人たちは呆気なく吹き飛ばされる。
メーグレア虎がその巨体の体当たりで獣人の信徒たちごと門扉に体当たりしたのだった。
「本当にひとりで大丈夫ですか?」とユカリはいわゆる王たる虎メーグレアに【呼びかける】。
メーグレアは猛々しくも気品の漂う唸り声で答える。「ああ、『爛れ爪の邪計』どもに比べれば貧弱なものだ」
「誰も殺さないでくださいね?」
「おうともさ。少しばかり可愛がってやるだけだ」
そもそも『爛れ爪の邪計』でさえも四十年の間、メーグレアに手出しできなかったのだ。化け物に変身したシシュミスの信徒たちは一斉にメーグレアに飛び掛かるが、まるで羽虫を払われるかのように鷹揚に蹴散らされていた。
ユカリは再び錠を下ろし、ひと段落ついたとばかりに息をつく。「さて、これで彼らが改心するかは分からないけど、あとは魔導書探しだね」
グリュエーが首を傾げる。「あれ? 手に入れたんじゃなかったの?」
「いや、その、えっと、失くしちゃって」と、ユカリは言い淀む。
「失くしたって……、あ」グリュエーは気づいて暗い顔をする。「ごめん。嵐のせいだよね?」
「グリュエーが悪いんじゃないよ。何もかも呪いのせいなんだから」ユカリの言葉はグリュエーの罪悪感を打ち消すほどの力を持っていなかった。
「気配は?」とベルニージュに単刀直入に問われる。
「沢山あって紛れてる」
「ともかく探しましょう。きっと街のどこかにあるはずですわ」
相変わらず空は曇っているが、レモニカの明るい声が一陣の風となってユカリとグリュエーの間に立ち込めていた曇天は少しばかり晴れやいだ。
一行は吹き飛ばされた髪飾りを探しながら、モディーハンナ率いる救済機構の一団の様子を見に行くことにした。
曇り空の薄明りに照らされたレウモラク市は深奥で見た姿とはまるで違って見える。魂の街は内から光り輝いているかのような存在感を放ちながらも実在感を失っていたが、目の前の廃れた街の陰影にはこの土地のたどってきた歴史が深く刻み込まれているような重々しい奥行きを感じられる。あるいはレウモラク市の魂を目撃したことで印象が変化したのかもしれない、とユカリは街を眺めながら考える。今では幼い頃より住み慣れた土地のように感じている。
救済機構の集まりは変わらずそこにいた。相当の呪いを被ったことは一目見て分かる。グリュエーの演奏によって呪いそのものは解かれているが、何もかも元通りというわけにはいかない。肉体は癒されても記憶に刻み込まれた苦痛が疼くようだ。魔術師たちによる治療にベルニージュとジニも加わり、ソラマリアも力仕事に加わる。
傷病者たちから少し離れた所で、海のように深い青い炎が蜂の羽音のような音を立てて燃え盛っている。その火の内に横たわる者たちを見て、ユカリは涙ぐむ。
その不思議な炎で救済機構の僧侶たちを火葬に付しているのはモディーハンナだった。揺らめく青い炎を背景に、救済機構における高位の魔法使いの寂し気な黒い影があった。
モディーハンナの小さな背中を見つめ、ユカリもまた犠牲になった僧侶たちの冥福を祈る。
その祈りが聞こえたかのようにモディーハンナが振り返り、ユカリたちに気づく。青い炎に照らされて、亡霊の如き顔色の悪さが誤魔化されている。
「ああ、ユカリさん」モディーハンナはユカリを見、本物のグリュエーと偽物のグリュエーを見、しかし上手く混乱を隠す。「お探しのものはこれですか?」
「いや、別に……、え?」
モディーハンナに差し出されたのは失くしていた金剛石の髪飾りだ。しかしユカリが驚いたのは、魔導書であるはずのそれをモディーハンナに返されたことにではなく、それが砕けていることにだった。
有史以来、魔導書が破壊されたことはなく、本物と偽物を見分ける唯一の手段が破壊を試みることだ。それ故に、救済機構は教敵と認定した邪悪な魔法道具から無辜の信徒を守るため、焚書機関を設立したのだ。
モディーハンナは少しばかり嘲り混じりに、しかしとても残念そうに話す。「つまり魔導書ではなかったということでしょう。強力な魔法には違いありませんが。まあ、気を落とすことはありません。本来は九割九分九厘が偽物で、生涯をかけて探し求めた魔法使いたちの大半が何を得ることもなく人生を閉じるのですから」
ユカリは皮肉っぽい慰めの言葉など耳に入らず、ただモディーハンナから受け取った魔導書を見つめる。
クヴラフワに来てからの魔導書集めは全て徒労だったというのだろうか。しかし言葉にすればその時に事実が確定してしまうかのようにユカリは黙っている。少なくとも魔導書が存在するのは間違いないはずだ。クヴラフワにやって来てから何度も感じてきた気配は嘘ではない。それに、ユカリは今もなおその壊れた髪飾りから微かに魔導書の気配を感じていた。